穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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危機に臨んで ―イギリス、日本、中華民国―

 

 中華民国時代、上海に「赤匪」――共産党の騒擾事件が起きたとき。


 この狼藉者の集団がひとたび居留地を襲う形勢を示すや、そこに住まう人々は、大事な命と財産を、屠殺される豚のようにむざ・・と奪われてなるものかと大いに発奮。互いに人数を出し合って、義勇軍を作るという運びになった。


 このとき、イギリスは7000人の居留民から800人の志願兵を出している。


 ところが大日本帝国は、実に10000人もの居留民を有していながら銃を取って戦う気勢を示した者は、たった100人に過ぎなかった。


 比率で言うなら英国11.4%に対し、日本僅かに1%である。その懸隔、実に11倍もの広きに亙る。


 これでは尾崎行雄ならずともイギリスを羨みたくもなるだろう。甲南大学創立者にして広田弘毅内閣に於ける文部大臣を務めた男、貴族院議員平生釟三郎なども、

 


義勇公に奉ずるといふことは、勅語の中に申されてをる。ところが英国人の十分の一にも足らぬといふことは、国民として大いに反省すべきことゝ思ふ。(昭和十一年『私は斯う思ふ』56頁)

 


 と、この件に関しては痛嘆している。


「公」という概念が、おそらくは史上最も強烈に、民衆の意識に焼き付けられていた時期に於いてさえこれなのだ。


 日本人が政治的に無関心とか不感症とか詰られるのも、あるいは伝統の然らしむる、不可避の流れであるかもしれない。

 

 

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(平生釟三郎)

 


 これだけでは何だから、ちょっと蛇足を付け足してみよう。支那国民党の徴兵法について書いてみる。


 彼らの場合、愛国心に訴えて自発的な参加を促すなどと、そんな悠長な真似はしない。やっても無駄だと百も承知しているからだ。


 よって、もっと直接的な手を使う。そのあたりをぶらぶらしている適当な男をひっとらえ、無理矢理にでも兵隊の姿にしつらえる。「拉夫」と呼ばれる、彼らの常套的な戦力調達手段である。


 むろん、忠誠心など欠片もないが、彼らが戦場に立つ場合には、常に頼もしい督戦隊が背中に狙いをつけているから安心だ。もし血迷って上官を撃ったり、逃げ出そうとする気配を示せば、たちどころに機関銃が火を噴いて愚かなたくらみを未然に防ぐ寸法である。


 背水の陣とはよく言ったもの、畢竟彼らは前に進んで、万に一つの可能性を掴み取るより他に生還の道が存在しない。

 

 

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 沖縄生まれの歴史学者東恩納寛惇が、実際にこれを目の当たりにした。

 

 上海ではなく福州に於いて、やはり共産党の煽動による革命騒ぎが持ち上がったときのこと。不穏な気色を嗅ぎ取るや、車夫という車夫が一斉に街からいなくなってしまったという。


 その素早さ、鮮やかさときたら忽然としか言いようがなく、地に滲み込んだか蒸発して宙に去ったかと惑わんばかりの物凄さだった。

 


 話に聞くと、事変の勃発する時には、町の車夫や苦力が一様に姿をかくしてしまふ。それは兵隊に徴発されてしまふからださうで、さう云ふ時には、田舎から農民を挑発して来るが途中逃避しない為に、腰縄付きで数珠つなぎにして引張って来るさうである。(『泰、ビルマ、印度』320頁)

 


 要するに都市労働者はうかうかしてれば拉致られた挙句肉壁に仕立て上げられて、督戦隊の温かい視線を背中に受けつつ、成す術もなく惨死する破目に陥ると、長い経験から知り尽くしているために、先手を打ってさっさと行方をくらましてしまう。


 だから党では代用として、土地と深く結びつき、容易に逃散することが叶わない百姓どもを引っこ抜いてくるわけだ。


(なんということだ)


 あまりの現実に東恩納はおぞけをふるった。
 況して、それを実見するに及んでをや。

 


老幼取りまぜたボンヤリした百姓達がボロボロの風呂敷に手荷物を包んで両手に抱へ、跣足のまま二列になって四五十人、剣付鉄砲の兵士に引かれて行く状は、決して体裁のよいものではなかった。(321頁)

 

 

51plaza-fuzou

 (Wikipediaより、福州市)

 


(人の世に行われてよいことか)


 天に問わずにはいられまい。
 左翼が好んで口にする、


「この法案が通ろうものならあなたの愛しい子や孫が、首に縄をかけられて戦場へ送られる社会になるぞ」


 という脅し文句は、この時期の支那にこそ在ったろう。


 あれだけ数が多くなると、勢い一人一人の命の価値が低減し、羽毛の如く軽やかに浮かび上がるとでもいうのだろうか。なんにせよ、「兵隊は畑から採れる」という共産主義者の十八番を、その共産主義者と戦うために活用したというこの情景は、皮肉を通り越してもはや支離滅裂の観がある。


 さてこそ支那は魔境であった。きっとこれからも、そうであり続けるに違いない。

 

 

 

 

 


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