戦後連合諸国が行った裁判とやらが、その実法もへったくれもない単なる感情任せの復讐行為であったのは既に常識と化しているが、中でも広東で開かれた「法廷」ときたらその最悪なるものに他ならなかった。
元第二十一師団長、三国直福陸軍中将はのちに広東法廷を回顧して「低劣残忍を極め、悪逆無道、正に典型的な未開国的裁判」「三十余年近くを経ました今日に於きましてもなお、想い起こすだに誠に憤りに堪えない」と痛撃している。
「斯る破目に陥るならば、派遣軍全軍玉砕するならば必ず勝利を得たる事を確信す」「日支提携と言う事は不可能な事である。今迄の日支提携を叫んだ者は支那人を識らぬ者であることを明言す。民族性と言い、文化の程度と言い、日本とは全く容れざるものである」と悲憤慷慨した五十嵐孫三郎憲兵大尉が裁かれたのも、やはりこの広東法廷に於いてであった。
古来より易姓革命を繰り返し、前時代の権力者を思いつく限りのむごたらしさで惨殺してきた中国人の残虐性が、100パーセント完璧に発揮されたと言ってしまって構うまい。
だが、そんなどす黒い闇の底であろうとも、斯くも透明度の高い詩は生まれ得る。
日本の誇りとは、安藤准尉の如き人を言うだろう。冥福を祈る以外ない。
貫き通せ大和魂
散りて護国の花となるらん
「誰も恨まぬ。恨めば必ずその報いが来る。人を恨んではならぬ」
愛知の産で、元来農家の田中准尉はそう言い遺して刑場に向かった。
戦争が無ければこの人は、生涯土を掻き妻子を愛し、篤実な農夫として何の疑問もなく世を終えていたに違いない。
幼き妹健けくこそ
力こそ正義なりとふ
此処にして知る死刑囚我れは
此処にして正義なきかと雄叫びて
夢醒む頬に涙つめたし
「それでは行きます。後のことはよろしく」
言葉短く言い残して、栃木県出身、鈴木大尉はスコールの降ったばかりの窓下を出て行った。
昭和二十二年、五月六日午後二時に展開されたその情景は、とても静かでごくさりげないものであったという。
今の身は気概ばかりの淋しさよ
真実の春を何時の日か見ん
「俺の判決書を見ろ! たった三行しかない。それで俺が死刑になるなら運命だよ。なに、一発や二発の弾丸では死ぬもんか、目玉をむいて検察官を睨み倒してやるんだ」
獄中に在って斯様に気を吐き、また、
「ここを撃って貰うんだ」
と胸に日の丸の目印をつけていた山田軍曹も、昭和二十二年一月十日、ついに刑場へと連行された。
軍靴の歩調、あくまで高らかだったという。
なんという――
なんという漢が、漢たちが居たのだろうか、日本には。
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