わがくに陸軍の「通史もの」を繙くと、まず結構な確率で高島秋帆の名前が出てくる。
勝海舟の『陸軍歴史』にしてからが既に然りだ。「天保十一年庚子高島四郎太夫ノ建議ハ暗ニ後年我邦陸軍改制ノ事ヲ胚胎スル」と、劈頭一番、序文にもう含まれている。どれほどの重要人物か、おのずと察しがつくだろう。
秋帆、通称は四郎太夫、本名茂敦。寛政十年八月十五日、長崎の街にて生を享く。その身に流れる血液は、代々長崎の町年寄を務め、萩尾新流の砲術を伝える、由緒正しきモノだった。
年齢を重ねるに従って、順当に一族の流れを汲み、火砲の扱いを学んだらしい。
が、高島秋帆、天性カンのするどい男であった。彼はどうやら御家伝来の砲術とやらがとうに時代遅れの極みであって、実戦では使い物にならない鍍金であると、早くから看破していた形跡がある。
(これでいいのか)
いいわけがないと内心密かに思っただろう。
刷新の機会を腹の底で窺い続けた。
やがて来た。
機会が、である。それは人の形をしていた。出島のオランダ商館長・デヒレニューへが武官出身、しかも実戦経験アリと聞きつけ俄然接近、弟子入り志願。曇りなき情熱に感応してか、蘭人はこれを受け容れた。以降、デヒレニューへの在任期間四年を通じて、秋帆は彼から最新式の西洋兵制・戦術等を吸い取った。
知識は力、力すなわちエネルギー。エネルギーは何処かへ向かって解き放たねば、却ってわが身を蝕んでゆく。表現の場を、秋帆は歯ぎしりするほど強く求めた。
はじめ長崎奉行に宛てて兵制改革の建議をしたが、すげなく撥ねつけられている。
何度やっても結果は同じ。業を煮やした秋帆は、とうとう自腹を切ることにした。高島家の財を傾け、火器を海外から輸入。最終的は「小銃三百挺、野戦砲六門、榴弾砲三門」を揃えたというから途轍もなかった。町年寄の家というのは、こんなにも実入りのあるものなのだろうか?
この破壊力の結晶を、秋帆は教材として使用した、教習所を開いたのである。
彼の塾では、生徒に対し、あの面倒な束脩料も、弾薬費も求めなかった。営利を度外視していたことは、この一事でもう明らかだ。国事に斃れて悔いなしと、本気で考えていたのであろう。入門希望者が、引きも切らずに殺到した。
(日本初の洋式砲術・銃陣演習。天保十二年、徳丸原にて、秋帆主導で行われたもの)
そろそろ勝海舟の云う、「天保十一年の建議」とやらに触れるとしよう。
アヘン戦争の突発と、戦局の推移、清国側の眼を覆わんばかりの敗勢を受け、秋帆はそれを書き上げた。かかる顛末を齎したのは偏に火器の優劣に在りと、文中秋帆は結論し、翻って日本国内を顧みればどうだろう、西洋ではとっくの昔に廃れたところの火縄銃を後生大事に抱え込み、無数の自称専門家らが各々門戸を張り合って秘密々々と狭隘な世界観に中毒している。
――斯くの如き状態が、万が一にも外国人に漏れたなら、果たしてどういう結果を招くか。
狼心を煽り立てる危険性がある。今にして兵制を洋式に切り替え、国防の充実を図らなければ、前途の暗雲、いよいよ厚し――と、ざっくり言えばそういう趣意の建議書を、長崎奉行田口加賀守に差し出したのだ。
黒船来航の、十三年も前である。
先覚者としかいいようがない。勝海舟が特筆したのも納得である。
なお、この秋帆の門弟に、件の藤川三渓がいる。
(三八式十二糎榴弾砲)
捕鯨に対する並々ならぬ執着を、最初に三渓に植えつけたのは秋帆だった。
三渓はいい弟子だったろう。
表層の知識のみでなく、秋帆の合理的発想まで血肉に変えていたことは、『捕鯨図識』を一瞥しても明らかだ。
そういえば高島秋帆も、彼を妬んだ守旧派からあらぬ嫌疑をかけられて、一時期牢にぶち込まれていたものだった。
似たもの師弟というべきか。
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