穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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『殉国憲兵の遺書』辞世撰集 ―英国編・其之壱―

 

 

汁粥の乏しき糧に身は細り
分ちかねけり鉄窓まどの雀に

ますらをは弓矢のほかの憂き日にも
国を念ひて心揺らがじ

皇国ののちの栄えを祈りつつ
御勅かしこみ処刑場に立つ

国の為つくせし事のあだ花と
散り行く我はあはれなりけり

靖国戦友ともの御前にひれふして
語るいさおのなきぞかなしき
(陸軍憲兵曹長山田規一郎、香港に於いて刑死、享年30歳)

 


 戦後、イギリス軍によって抑留された日本兵の証言としては、会田雄次氏の『アーロン収容所』が殊に名高い。氏は本書の中で度々食糧事情についても触れており、例えばペグー北方の某収容所では、

 


 やっと英軍から食料が支給されたが、それは米の粉だけであった。米にして一日一合に足りない。ひもじくてほとんど夜はねむれない。張り・・をなくしたせいか、病人や衰弱した人間はポツリポツリと死んでいった。(中略)
「こうして働けん奴殺しといて、残った丈夫で働ける奴だけ使うのとちがうか」
 とK兵長は言った。そこまで英軍は考えていたかどうか。しかし結果はそういうことになった。(36頁)

 


 また、そこからアーロン収容所に移されて以降は、

 


 私たちの食事に供された米はビルマの下等米であった。砕米で、しかもひどく臭い米であった。飢えている間はそれでよかったが、ちょっと腹がふくれてくると、食べられたものではない。その上ある時期にはやたらに砂が多く、三割ぐらい泥と砂の場合もあった。私たちは歯はこわすし、下痢はするし散々な目に会い、とうとう日本軍司令部に対し英軍へ抗議してくれと申しこんだ。
 その結果を聞きに行った小隊長は、やがてカンカンになって帰ってきた。英軍の返答は、「日本軍に支給している米は、当ビルマにおいて、家畜飼料として使用し、なんら害なきものである」であった。それもいやがらせの答ではない。英軍の担当者は真面目に不審そうに、そして真剣にこう答えたそうである。(69頁)

 


 こうした数々の経験から、著者は「ヨーロッパ人は人間と動物との境界を、ずいぶん身勝手なところで設定する」との考えを抱くようになる。


 ましてや戦犯容疑者に対しての扱いは、これ以上に苛酷を極めた。


「汁粥の乏しき糧に身は細り」という山田曹長の表現は、むしろ控え目に過ぎるだろう。
 栄養失調で思考力も低下していたろうに、よくこれだけの詩を詠めたものだと脱帽する以外ない。


 負けるとはこういうこと、敵に自分の運命を委ねるとはこういう結果を招くのだ。戦後生まれの我々は、この事実をこそ確と胸に刻んでおく必要がある。
「死ぬぐらいならさっさと降伏した方がマシ」などと、決して軽々しく口にしていい言葉ではない。降伏した結果、


 ――こんなことなら銃を棄てずに、戦って死んでおくべきだった。


 と、収容所の天を睨みつつ、無念にも朽ち果てて逝った日本兵が数知れぬほど在ったのだから。

 

 

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風も吹け嵐もつのれ我が胸に
かかれる雲を吹き飛ばすまで

遺骨なき英霊ありしに比ぶれば
我が妻子等は幸なるか

鉄窓にさす月影の如清らかに
心もすみて明日をしぞ待つ

大君のみことかしこみますらをの
尽せしまこと神ぞ知るらむ
(陸軍憲兵大尉牛山幸男、香港に於いて刑死、享年40歳)

 


 万葉精神こそ日本精神と信じた牛山大尉は、それだけに数多くの詩を遺した。
万葉集』を愛し、戦場にまで携行し、捕虜となっても手離さなかった牛山大尉。暗黒の監獄生活にさしたその一筋の光明に、大尉はほとんど帰依する想いになっていたに違いない。

 

 

もののふの水漬く屍に月も冴え
いつか映ゆらん山桜花

われも又神のみおやの流れなり
常代の春の花は遺さん
(陸軍憲兵中佐金沢朝雄、香港に於いて刑死、享年47歳)

 


三十六年一場夢
諦生諦死将佛果
鶏鳴報暁深槃時
莞苒上蓮萃之台
(陸軍准尉高山正夫、香港に於いて刑死)
 
 

 

アーロン収容所 (中公文庫)

アーロン収容所 (中公文庫)

 

 

 

 


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