桜花笑って散らう国の為
大日本帝国陸軍憲兵曹長、小谷野正七(28)が北京に於いて銃殺刑に処される直前、最後に詠んだ詩である。
氏はこれを、ちり紙に書き付け辛うじて残した。
蒋介石は降伏した軍人に、遺書をしたためる紙すら与えなかったのかと思うと名状し難い感情が胸の底から湧き上がる。
なんらの衒いも装飾もない、素朴きわまる十七文字――。
ゆえにこそ赤裸々な心情がもろに出ていて、読み手の臓腑を激しくゆさぶる。
祖国の為に身命を捧げた軍人は、多く詩人でもあった。
彼らが最期の
彼らの多くが知己を千載の下に待つと言い遺し、従容処刑場の露と消えた。
その「知己」が、一人でも多からんことを切に願う。
濁りなき心の水にすむ月は
波もくだけて光とぞなる
波もくだけて光とぞなる
巣鴨に収監中、一度だけ許された面会の機に本山夫人は子供を連れて赴いたが、面会は夫人一人ということで、子供の同伴は許されなかった。その時の想いを、中尉は「遥々と我を尋ねて幼子が会はずに帰る心寂しき」に遺したという。
国の為何を惜しまんこの命
数にもあらぬ我身なりせば
逝く人も残りし人も日の本の
幸ある日をば土かためつつ
米村大尉は熊本出身。阿蘇山から噴煙昇る、故郷の光景にひたひたと心添わせた詩である。
また大尉はこれ以外にも、例えば盛夏の上海監獄の独居房にて、何事かをわめく漢人看守の声を聞きつつ、
虫けらと思へど暑き蝉の声
と、強烈且つ典雅にやり返したり、或いは死刑判決を受けた直後、護送途中のトラック上で、
寒風や娑婆と冥土を吹き分けて
と詠ずるなど、九州男児の肝っ玉をとことん見せつけてくれた、実に爽快な人だった。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓