穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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軍人直話 ―「いこかウラジオ、かえろかロシア、ここが思案のインド洋」―


 日露戦争の期間を通し、大阪毎日新聞はかなり特ダネに恵まれた。どうもそういう印象がある。


 一頭地を抜く、と言うべきか。


 例の手帳はもちろんのこと、海軍にその人ありと謳われた不世出の作戦家、秋山真之参謀相手にインタビューを試みて、


 ――ここが思案のインド洋。


 の囃子文句を喋らせたのも、実は『大毎』記者なのだ。

 

 

(昭和初期、大阪毎日新聞社

 


 これを「恵まれた」と評価せずしてなんとする。


 明治三十八年二月一日の號である、そのインタビューが載ったのは――。

 


バルチック艦隊果して来るや否やはロジェストヴェンスキーに聞いてみなければわからないが、ロジェストヴェンスキーも内外の複雑なる事情と自己の責任の重大なるため容易に進退の決心が出来なからう、マア『いこかウラジオ、かえろかロシア、ここが思案のインド洋』とでもいふ様な境遇に居るものと判断するのが至当と考へる

 


 これが秋山の発言だ。


 今日に至るもなお廃れない七・七・七・五は、斯くの如き文脈のもと生起したるものだった。


 その脈を、更に更に辿ってみると、

 


まあ何れにしても我々には差支えはないけれども此バルチック艦隊が地球の表面の何処に存在してもナカナカ口をきく奴だからどうにかして全滅してやりたい、今の様に距離が遠くては砲弾も水雷も迚も届きやうがないから今少し東洋方面に寄り附くか、又は此方から出掛けるかどうかせねば物にはならない、実は我々も敵の逡巡せるには少々閉口してゐるのだ」

 


 こんな展望が開かれる。


 いやさまったく、なんと強気な姿勢であろう。


 語り口の軽妙さ、陽気さときたらもう堪らない。秋山の言葉を吹き込まれると、胸がむくむく膨らんで、バルチック艦隊の撃滅なぞ草いきれのする畦道で手づかみカエルを獲るような、そういうひどく他愛もない、児戯にすら似た容易な所業に思われてきて狼狽える。

 

 

Akiyama Saneyuki

Wikipediaより、秋山真之

 


 相手の心をゴム鞠みたく弾ませる能力ちから。なるほど人間の玄人だ。目から鼻に抜けるが如き凛々たる才覚が、たったこれしきの短文上にも濃く濃く匂い立っている。


 以降、暫らく秋山は、駆逐艦水雷艇の能力を多少誇張を交え説き、

 


「兎に角戦争は必ずしも駒が沢山揃ってなければ出来ぬといふ訳ではないので、金や銀は少なくても桂馬や香車が沢山あれば将棋には勝てる、ソコが即ち用兵の妙だ。旅順艦隊の手並から判断すると新来バルチック艦隊の技倆も大抵分って居るから我百錬の艦隊は飛車角将を下しても決して不覚は取らないと確信して居る、殊に我艦隊は充分駒が揃って居るから此勝負に就て国民は毛頭懸念するに及ぶまいと信ずる、唯だ一日もすみやかバルチック艦隊が東洋に来るやうに祈って貰ひたい。之が残って居ては何分にも我々の職分が終らんやうな心がして酒を飲んでも旨くなし、眠っても寝醒めが悪い、シカシながら敵もバルチック艦隊を全滅されては国家の存亡に関するから余程考へ込んで来るだらうよ

 


 素ん晴らしい大風呂敷・大気焔をぶち上げたるものだった。


 本当は「寝醒めが悪い」どころではない、ノイローゼ寸前の精神状態、青色吐息もいいところな臨界点に立ちながら、身体のどこをどう押して、これほどまでに景気のいい音を出したのか。


 英雄人を欺くとはよくも言ったり。脱帽以外の何ができよう、斯くも巨大な演技力ないし弁才の発露を前にして――。

 

 

Mikasa-Bridge-Painting-by-Tojo-Shotaro

Wikipediaより、日本海海戦・旗艦「三笠」艦橋)

 


「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」。くだんの珠玉の名言が、その場限りの偶然の産物でないのだと、心の底から納得させていただいた。やはり当時の大阪毎日新聞は、あらゆる意味で恵まれている。

 

 

 

 

 


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大目出鯛の戸沢どの


 佐竹がやってくる以前、羽州北浦――田沢湖附近一帯を治めていたのは丸に輪貫九曜紋、戸沢の一族こそだった。

 

 

丸に九曜

Wikipediaより、丸に輪貫九曜紋)

 


 石高、四万五千石。評判はいい。善政を敷いていたらしい。


 百姓どもと領主の距離も近かった。戸沢の殿が田沢湖畔に祠を建てて、宇伽神――弁財天を勧進すれば、百姓どもは毎年正月十一日に小判型の餅をこしらえ、供物に捧げに持ってくる。誰に命ぜられるまでもなく、自然とそういう習を成す。


 すると殿様、その敬虔さ、純朴さを喜んで、百姓どもの主立つ顔を城に呼び、酒肴を与えてもてなして、お褒めの言葉をかけてやる。そういう循環、年中行事がごくさりげなく形成されたものだった。


 まこと、長閑のどかな景色であろう。


 聖徳太子の唱えた理想、和を以て貴しと為せというのは、斯くの如きを指すのでないか。

 

 

田沢湖

 


 戸沢の徳を百姓どもは大いに喜び、また慕い、御家の武運長久と弁財天の加護とを祈り、ついには歌謡うたまで作られる。


「大目出鯛」とかいう題の、もう名前からして景気のいい歌だった。

 


 これの館の水口に。咲いたる花は何の花、黄金こがねの花か米の花、これから長者になりの花、おめでたいてや、おめでたいてや、おうくとこうくとおめでたい。それから長者と呼うばれて、呼ぶも呼うだし、呼うばれた、朝日の長者と呼うばれた。
 東窓の切窓から、おうがの神は舞い込むだ、なあにをもって舞ひ込むだ。黄金の銚子をさし上げて。
 どんどめぐてや、どんどめく、何をするとてどんどめく、ゑびす大黒、ぜにかねつむとてどんどめく。

 


 東北地方特有の訛りが諸所に挟まり、つっかかりを覚えるが、それでもまあ、おおよその雰囲気は察せよう。

 

 

田沢湖白浜)

 


 秋田県では今でも夏に、戸沢氏祭なる盛大な祭事が催され、過ぎし世を愛おしんでいる。

 

 

 

 

 


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昭和のアルチュウ ―アルプス中毒患者ども―


 狂歌うたがある。

 

 

あの息子 なんの因果か 山へ行き

 


 昭和のはじめに編まれたらしい。


 まるで先を争うように若者どもが山に押し寄せ、次から次へと木の下闇に呑み込まれ、さんざん平地を騒がせたあと変わり果てた姿で発見みつかる。そういう事態が頻発していた時代があった。


 呆れかえるほど積み上げられた「前例」により、山中異界の容易ならなさ、恐ろしさは知れ渡っているはずなのに、それでも挑戦者の波が絶えない。あとからあとから、むしろ加速の趣きすらある。そんな狂騒のご時世が――。

 

 

 


 このあたりで今一度、

 


山は遭難がないと箔がつかないやうである。蔵王なども昭和七、八年頃から遭難がいくつも続いたので、忽ち有名になり、また冬山としての魅力ももつやうになって来たやうである。夏の休みには峨々が何百人といふ人であふれたりしたのも、遭難が人を招んだやうなものといへよう、刈田から賽の磧へ降りてくると、吹く風に揺らぎながら幾本もの塔婆が、クラストした雪原に淋しく立ってゐる。仙台二中生が遭難したときのものだ。あそこへ来ると、何となく体の引締まるのを覚える」

 


 中川善之助の発言を見返しておくべきだろう。


 言葉も出来た。


「アルチュウ」である。


 アルコール中毒の略ではない。


 アルプス中毒を縮めたものだ。


 何かに取り憑かれでもしたかのように山へ山へと突っ込みたがる、未踏ルートを開拓せんと反り立つ岩壁かべにへばりつく。傍から見れば命知らずもいいとこな、一種異様な情熱に生きる連中を、世間はダキツキマニアとかアルチュウとか呼びならわして、変人扱いしていたわけだ。

 

 中野克明――政治家・中野正剛の長男も、やはりそういうアルチュウ患者のひとりだったようである。

 

 

Nakano Seigo

Wikipediaより、中野正剛

 


 あり続けたというべきか。


 昭和六年、穂高で死んでいる。


 滑落だった。


 享年、ものの十七に過ぎない。


 報せを聞いて父親は、


「あいつも男だ。当然覚悟の上だろう」


 ひどく素っ気ない態度をとった。


 もっとも多分に、最初だけは、だ。


 いざ上野駅にて倅の亡骸と対面するや、正剛はもう、見かけ上の平静さすら保てなかった。


 みるみる涙をあふれさせ、全身で慟哭したという。

 

 

11 Maehotakadeke from Karasawdake 1999-5-23

Wikipediaより、前穂高岳

 


 なんとなくだが、三河武士を彷彿とする情景だった。詳細な名を掲げるならば安藤直次あの老臣も大坂夏ノ陣の最中に於いて嫡子の戦死を伝えられ、「侍ならば当然のこと」と凄んだ挙句、死体のそばを通った際に部下から収容を提案されても、


「犬にでも喰わせておけ」


 と怒鳴りつけたものだった。


 戦闘が終わってから、はじめて泣いた。


 いろいろ思い合わせてみると、このころはまだ、政界にも武士道気質がいくぶん遺っていたらしい。

 


 世には流されないでしまふ涙もある。笑ひに転ずる涙もある。人よ、涙はただ頬に流れるものと思ふか? 涙はまた内部に向って流れることを知らないか?


 よし涙は外に流れずとても、洞窟の天井から落ちる雫のやうに、心の中にしたたるならばそれで十分だ。

 


 ふと、生田春月の感性あやかりたい気に襲われた。

 

 

 


 新年の門出には沈鬱すぎる内容かもしれないが、――ああ、いや、なあに、厭世を趣味として弄ぶ私のような男には、むしろこれこそ相応か。

 

 どんな一年になるのやら、胸が高鳴って仕方ない。

 

 

 

 

 


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勲を立てよ若駒よ ―軍馬補充五十年―


 ドイツ、百十五万五千頭


 ロシア、百二十万一千頭


 イギリス、七十六万八千頭


 フランス、九十万頭。


 イタリア、三十六万六千頭


 アメリカ、二十七万頭。


 以上の数字は各国が、第一次世界大戦に於いて投入したる馬匹の数だ。


 合わせてざっと四百六十六万頭か。多い。途轍もない規模である。更にオスマントルコやら、ベルギーやらブルガリアやら、参戦諸国を総計すれば、数はいよいよ膨れあがって六百万にも達するという。

 

 

 


 二十世紀半ば以降、機械力が台頭するまで、何千年もの永きに亘り、馬は活動武器だった。


 前線に、後方に、兵站に、奇襲に、偵察に、あらゆる任務に、必須欠くべからざる存在であり、よりよき馬を得ることが、すなわち勝利への捷径であり得た。


 だから為政者、就中、名将とか賢君とか聞こえの高い人々は、大抵良馬創出に意を尽くしているものである。


 家康公が飼い葉桶の中にまで細心の注意を払ったことは蓋し有名な噺であろう。「豆は煮て乾かし藁は細かく切り和らかにして飼付くべし」仙台藩では文化五年に去勢術を試みて、一定の成果を収めたそうだ。睾丸たまを抜かぬ軍馬というのは「馬の形をした猛獣」だから、これは当を得た措置だろう。流石は鉄砲騎馬隊を、竜騎兵を運用したとの伝説を、伊達政宗の英姿と共に語り継いだ藩である。

 

 

(小休止中の英国軍)

 


 維新後、明治政府では、陸軍省軍馬局を設置して、当該任務に就かしめた。


 ――その軍馬局を。


 題材とした詩がある。


 創立五十年を記念して編まれたものだ。もっともその時分に於いては軍馬局も様々な変遷を経た挙句、「軍馬補充部」という新たな区分けと名称を獲得していたものの、こまごまとした経緯には煩雑なのでいちいち触れない。


 重要なのは、詩、それ自体だ。


 七五調で貫かれ、なかなか秀逸な出来と信じる。


 埋没させるには惜しいゆえ、この場を借りて紹介したい。


 題は至って直截に、「軍馬補充の歌」である。

 

 

 


一、皇国みくにを護るつはものゝ 軍馬の補充勤むなる
  牧場まきばの勇士我が友も 心は同じ国のため


二、川上・釧路・た十勝 吹雪はげしき冬の日も
  育つる駒のかはゆさに 凍えん身をもかへりみず


三、十和田のうみ東風こち吹けば いななき勇む春の駒
  群れつゝ遊ぶ三本木 嬉し飼育の甲斐見えて


四、秋風渡る白河や 那須の裾野の末かけて
  み空高くも晴るゝ時 駒もひとしほ肥ゆるなり


五、霧島山を朝夕に 仰ぐ日向の高鍋
  羅南らなんの奥の雄基ゆうきにも 軍馬補充のまきはあり


六、さはあれ飼育辛労の 心づくしは誰か知る
  猛獣襲ふ備へにと 榾火ほたび焚く焚く夜を明す


七、あてがふまぐさ麦や大豆まめ 品の選びもただならず
  母の乳呑子抱く思ひ 祈るは駒の育ちのみ


八、秋開かるゝ馬市場 数千の駿馬集まれる
  中に選ばれ若駒の 鬣振ふ雄々しさよ


九、やがて戦のにはに立つ 駒の功績いさをは我が功績
  父の其の子を送るごと 勇みつけてぞいだすなる


十、使命を受けて五十年 唯一日の思ひもて
  軍馬補充にいそしむも 君の御為ぞ国のため

 

 

 


 靖国神社遊就館の手前には、戦没馬慰霊像がらと共に立ち、祖国の行方に静かな眼を向けている。

 

 

 

 

 


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山中暦日あり ―富士五湖今昔物語―


 山中湖には鯉がいる。


 そりゃもうわんさか棲んでいる。


 自慢なのは数ばかりでない。


 体格もいい。二貫三貫はザラである。どいつもこいつもでっぷり肥えて、下手をすると五貫に達するやつもいる。


「そりゃちょっと話に色を着けすぎだろう」


 永田秀次郎が茶々を入れると、


「いいえ、誓って本当なのです。漁師に訊ねてごらんなさい。肉の厚さに槍が負け、撓んじまったなんて話をたんと聞かせてもらえます」


 土地の長者はむきになり、眼を血走らせて言い張った。


 永田が東京市長を退いて間もない時分、昭和八・九年ごろの情景である。

 

 

永田秀次郎

 


「槍?」
「左様。ここらで鯉を獲るのなら、釣り竿なんてとても使ってられません。なにしろデカブツばかりですから。槍投げ一発、影も見せずに仕留めちまうのが主流ってな寸法で」
「ふうむ。いったい何を食ったなら、そんな大物が育つのかね」
「沢エビでさあ」


 機密保持とか、そういうコセコセした配慮は長者の頭脳あたまにないらしい。実に気前よく話してくれた。


 三歳の童子に至るまで、土地の者ならみんながみんな知っている。


 湖の浅瀬、特に平野浜の一帯には薄紅い藻が生えている。水中森林さながらに、隈なくぎっしり生えている。

 

 

山中湖 - 遠景1

Wikipediaより、山中湖港)

 


 この藻の合間が、どうも沢エビたちにとり、理想的な生育環境であるらしい。一大住居と化している。人間世界に擬すならば、さしずめ団地かマンションか。空き部屋もなく入居している。で、この細やかな甲殻類を餌食にすべく、またぞろ多くの魚族らが出入しゅつにゅうするというわけだ。


 そうした魚族の筆頭が、すなわち鯉であったろう。土地の漁師は槍を携え船に乗り、狩りに熱中している彼らを更に背後から狩猟する。食物連鎖の、まるで縮図のようだった。


 永田はここで、この槍投げの名人とも会っている。もう見るからに屈強な三十代の男であって、本業たる養蚕が手すきな時期にやおら槍をとるという。


(世が世なら、信玄麾下の猛将として大禄を食んでいただろう)


 隆々たる筋骨、強調された肩幅が、ついそのような幻視をみせた。

 

 

平野人
二眠にみんひま
鯉突けり

 


 同時に詠んだ詩である。


 その日、泊まったホテルにて、永田は夕餉に鯉の甘煮を喰っている。

 

 

Koikoku at Saku city

Wikipediaより、鯉こく)

 


 ――すべて、すべて、過ぎ去りし世の面影だ。


 今日ではむろん、鯉を求めて鵜の目鷹の目光らせて、槍の穂先を上下している地元民なぞ存在しない。


 それどころか鯉どもは、人が湖畔に立つだけでエサを撒いてくれると思い勝手にわらわら寄ってくる。


 人と自然の和合が進んだ結果と受け止め喜ぶべきか、それとも鯉から往年の野気が消え失せて、だらしのない家畜と化したと嘆けばいいのか。


 どちらにせよ、人間本位、自己本位な観点なのは変わらない。

 

 

(昭和初頭の富士吉田)

 


 事が事、故郷にまつわる事案なだけに、ついこのような愚にもつかない想像まで生やしてしまう。蛇足の極みだ。永田が甘煮を喰ったところで後味よく切り上げればよかったものを。


 蛇足ついでに、こんな話柄にも手を伸ばす。永田秀次郎の紀行文、そのページをもう少しばかりめくってみると、「政友村」なる奇妙な名詞が現出あらわれる。


 なんでも代議士先生方の別荘、それも政友会系の代議士ばかりが所有者である別荘地のいいらしい。西湖周辺に存在すると記してあるが、正直心当たりがまるでない。まさか根場村ではあるまいし、全く以って謎である。

 

 

(西湖いやしの里根場)

 


 畢竟、時代のうねりに呑み込まれ、跡形もなく消滅した「村」なのだろう。


 永田はここを自動車で、横目に見ながら通過した。


 その際、運転手との間で、


「分裂したらどうするかい」
「なに、政友会は分裂しても、別荘地は分裂しませぬ」


 このような会話が交わされている。


 政友会が現に分裂に至るのは、昭和十四年以降のことだ。


 しかしながらその兆候は、この段階でもう既に、見え隠れしていたのであろう。昭和の空気を仄かに嗅げるやりとりだった。

 

 

 

 

 


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つれづれ撰集 ―意識の靄を掃うため―


 季節の変わり目の影響だろうか、鈍い頭痛が離れない。


 ここ二・三日、意識の一部に靄がかかっているようだ。脳液が米研ぎ水にでもったのかと疑いたくなる。わかり易く、不調であった。


 思考を文章に編みなおすのが難しい。埒もないところで変に躓く。書いては消してを繰り返す。停滞の泥濘に嵌り込む。キーボードをぶん殴りたくなる。


 よろしくない流れであった。全く以って面白からぬ悪循環だ。脱するために、虫干しでもしてみよう。蒐集しておきながら使いどころに恵まれず、いたずらに埃を被らせてしまった幾多の知識。ラストエリクサーみたいに死蔵されているそれ・・を、ここに並べて晒すのだ。以前はこれで、実際そこそこの効果はあった。

 

 

 


 最初はからいってみよう。最近あまり使っていなかったタグだ。丁度自由党一つとせ節」たらいう、妙ちくりんなやつがある。

 


一つとせ 人の上には人はない、権利に二重がないからは、此同権よ。
二つとせ 二つともないこの命、自由の為には惜みゃせぬ。
三つとせ 民権自由の世の中に、まだ目の醒めない馬鹿がある。
四つとせ よせばよいのに狐等が、虎面こめんかむりて空威張。
五つとせ イツ迄待っても開かねば、腕で押すより外はない。
六つとせ 昔思へばアメリカが、独立したるも蓆旗。
七つとせ ナンボお前が威張っても、天下は天下の天下なり。
八つとせ 大和男児の本領を、発揮するのは此時ぞ。
九つとせ コゝらで血の雨降らさねば、自由の土台は固まらぬ。
十つとせ 所々に網を張り、民権守るが自由党

 


 板垣退助が岐阜で刺された前後から、とみに口ずさまれるに至ったらしい。

 

 

(岐阜、大垣城址)

 


 全体的に野卑な雰囲気、如何にも不平不満の害毒を血中に飽和させている壮士輩が好みそうなフレーズだ。


 六行目のあたりなど、ワシントンがもし聞けば失笑するのではないか。


 自由について論ずるならば、

 


 利害得失を異にする四千万の民をして悉く同一の施政に満足せしめんこと、到底一政府の下に為し能はざる所なれば、大概の事は兎角互に堪忍して徐々改善の法を講ずるの外ある可らず。自由は不自由の間に在り。相互に自家の不自由を堪忍してこそ社会全体の大自由をも得らる可きことなれば、政府が既に立憲と改まりたる上は、不自由ながら古風なる圧政独断の慣手段は容易に施す可らず。人民に於ても亦、その身の私に多少の不自由不愉快を感じても、世安の為めには枉げて公法に従はざる可らず。元来国家保安の責は独り政府のみならず人民も亦共に之に任ずるの義務あればなり。

 


 やはり福澤諭吉の記述こそ。こちらの方が明らかに、何百倍も格調高い。


 自由は不自由の間に在り。このフレーズを福澤は殊更好んでいたようで、彼の書きものの随所に於いて見出せる。


 なんなら書幅の関防印にも具している。もっともそちらは「自由在不自由中」――「間」が「中」に、一文字異なっているものの、まあ大意に於いては変わりない。

 

 ほかでもない、「自由」という日本語を――少なくとも近代的な意味の「自由」を――発明した男による解釈である。


 文句のつけようのないことだった。

 

 

福澤諭吉

 


「だから僕はお袋を解剖して貰ったよ。特志解剖と云ふ奴だ。君大学では解剖を恐ろしく喜ぶものだね。三十円呉れたぜ」
「三十円? そいつは儲けたな」
「うん大儲をしたよ。どうせ火葬にするんだからな」
「それは大きにそうだ。新時代だね」

 


 大衆小説の一節。
 なんでこれを抜き書こうと思ったか、自分でもよくわからない。

 


「欠伸をするのなら、向ふをむいてやって貰いたいね、儂は昔から他人の口の中と、馬糞を踏んだ靴の底は見ないことにきめて居るのだからね」

 


 同じく大衆小説の一節。
 これを抜き書いた理由はわかる。どことなく荒木飛呂彦を感じる言い回しだったからだ。

 

 

 


「達者な身体の人の所へへっぽこ医者がやってくると、君の顔色が悪いとか脈が早いとかいって達者なものを病気にすることがある。浜口君や井上君は日本の健全な経済状態を今日のやうな不景気にした人である


「浜口などゝいふ政治も何もわからん小僧に馬鹿らしくて質問を致しますなんていはれるかい」

 


 前者は武藤山治の、後者は犬養毅による発言。


 いつか浜口雄幸の記事を書こうと思ってストックしていた評論である。


 困ったことに、その「いつか」がいつまで経っても来ないのだ。


 もし来たなら、そのときまた拾い上げよう。

 

 

 

 

 


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名の由来 ―酒と銀杏―

 

 先入観とはおそろしい。


 ずっと名刀正宗が由来とばかり考えていた。


 清酒の銘によくくっついてる「正宗」の二文字。アレのことを言っている。

 

 

(「櫻正宗」の醸造過程)

 


 ところが違った。違うことを、住江金之に教わった。


 昭和五年版というから、ざっと九十年前の古書、『酒』の中にそれ・・はある。

 


 正宗といふ字を、普通マサムネと読み、刀の正宗から来たものゝ様に考へて居る人があるが、本来はセイシューと音で読ませたものださうな。其来歴は初代の山邑太郎左衛門が仏教信者で、或時深草の元政庵を訪ね、偶然机の上の経文をあけてみたら正宗の字があった。丁度酒の名を考へて居た故、これこそいゝ名だといふのでつけたとのことである。此外にも一二の説はあるが、大体此説が本当らしい。

 


 二重の意味で驚かされた。


 なんとなれば私の使っている名前、「穢銀杏」の三文字も、これとよく似た経緯によってこさえたモノであるからだ。


 三年前、『黙阿弥全集』だった。

 

 

Mokuami Kawatake

Wikipediaより、河竹黙阿弥

 


 何巻かは忘れたが、なにか良い字の並びはないかと彼の歌舞伎脚本をぱらぱら捲っていたところ、偶然この穢銀杏、――ちゃんと「よごれぎんなん」とルビが降ってあるのにぶつかり、一目で気に入り、そのままブログ名に宛てたのである。


 よって「穢」の一字を以って「よごれ」と読むのも、べつに私の独創ではない。


 その後、まあ、いろいろと心境の変化によってブログ名は変わったが、穢銀杏の三文字はアカウント名として保存しておくことにした。


 語感が気に入っているのだ、なんとなく。


 語感といえば七・七・七・五、久々に都々逸が恋しくなった。


 せっかくの機会だ、酒に因んだ傑作を並べる。

 

 

論語孟子を読んでも見たが
酒を飲むなと書いちゃない

酒に戯れ花には浮かれ
書物は質屋の重金庫

酒を飲む人蕾の花よ
今日もさけさけ明日もさけ

 

 

(樽酒の梱包)

 

 

酒屋男と寝んねこすれば
倉の窓から粕もろた

酒は飲みたし酒手はもたず
酒屋の看板見て戻る

酒にゃ諸白肴にゃ真鱈
いかな下戸衆も三つあがれ

とろりとろりと今踏む米は
酒につくりて和泉酒

 

 

(麹室)

 

 

 善哉善哉。


 酒、酒、酒、酒、灘の酒。美味の秘訣は宮水にあり。


 むかし、神戸市のどこかには、この宮水を用いて淹れた茶やコーヒーを飲ませる店があったとか。山本為三郎の随筆で読んだ。

 

 

(「ビール王」山本為三郎

 


 山本自身、興味に駆られて飲みに行ってはみたものの、さして美味くもなかったという。


 やはり本来の用途に使われるのが一番らしい。

 

 

 

 

 


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