穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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清冽な大気を求めて ―一万二千フィートの空の舌触り―


 山形県東村山郡作谷沢村の議会に於いて、男子二十五歳未満、女子二十歳未満の結婚をこれより断然禁止する旨、決定された。


 昭和五年のことである。

 

 

(昭和初期の山形市街)

 


 ――はて、当時の地方自治体に、こんな強権あったのか?


 とも、


 ――なんとまあ、無意味なことを。


 とも思う。


 大方世上を賑わわせていた、人口過多・産児制限のあおりを喰っての反応だろうが。――およそ情念という情念の中でも男女の恋の炎ほど天邪鬼なものはない。障害物が高いほど、引き離す力が強いほど、いよいよ盛んに燃え上がる。当事者にとってはその一切が単なるスパイスに過ぎないのだ。

 

水の流れとわたしの恋は
堰けば堰くほど強くなる
 

 この都々逸の示す通りだ。江戸時代の戯作本、否、下手をすれば紫式部のむかしから散々描き出された性質、わかりきったことではないか。

 

 

Murasaki-Shikibu-composing-Genji-Monogatari

Wikipediaより、紫式部

 


 根底に無理がある。


 少しは米国を見習うがいい。


 ほとんど同時期、合衆国はオクラホマ州九十一歳の老人が十九歳の花嫁を迎え、意気揚々と新婚旅行に出発している。


 旅行先での興奮に、彼の心臓がもつ・・のかどうか。ただそれだけが心配だ。


 ニューヨークでは一年間で四百八十三名もの女子学生が「結婚」を理由に退学し、十六歳がそのうちの最大比率を占めてはいたが、十五歳も八十三名含まれて、中にはなんと十二歳の少女の姿まであった。


 たまらぬ自由の味だろう。

 

 

Oklahoma State Capitol

Wikipediaより、オクラホマ州会議事堂)

 


 極東の島国の些細な隆起、鈴鹿山脈の上を飛んでいた航空機から、須藤なにがしなる一青年が突如飛び降り、一千メートル下の地面に身を叩きつけて死ぬという、投身自殺の新記録を作っていたころ。


 アメリカでは肺病患者を飛行機に乗せ、一万二千フィートの高さにまで達せしめ、そこの空気を吸わせることで病気治療に役立てるという、まったく新しい転治療法が行われていた。


 なるほど確かに理屈は通る。


 英国の思想史家であり、また登山家としても名を馳せたレズリー・スティーヴンは山の魅力を説明するに、


 ――山では百万の肺腑をくぐったようなものとは別の空気を呼吸することが出来る。


 こんな言辞を用いたものだ。

 

 

 


 転地療法も狙いは同じ。都塵と無縁な、生まれたての新鮮な空気を思う存分吸い込める、何処か自然の懐へ患者を移すことにより、心身ともに爽快の気を充填せしめ、健康回復に役立てるのだ。


 だからサナトリウムの建設場所は、山奥とか浜辺の近くの高台とかに、だいたい相場が決まっている。


 が、アメリカ人らは従来の相場に飽き足らず、もっと清冽な空気を吸える場所を求めた。


 その結果が、航空治療。一万二千フィートの空に、患者の呼吸器を直接曝す。滞在はおよそ三十分間、「転地」と呼ぶには短すぎるきらいがあるが、しかしその効果は絶大だった。


 空気の良し悪し以外にも、目に映る絶景、身を包む浮遊感等々が、患者の心に生の活力を与えたようだ。実際肺病以外にも、失語症が治っただとか、神経痛がうそのように消えたとか、そんな報告が相次いでいたそうである。

 

 

(飛行機にシャンパンをぶっかけるアメリカ人)

 


 太平洋を差し挟み、同じ惑星、同じ時代でこれほどの差異。富める国と富まざる国の比較とは、斯くまでも、ああ斯くまでも。

 

 

 

 

 


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ゴム鞠たれ、潤滑油たれ ―三井の木鐸・有賀長文―


 面接に於ける常套句と言われれば、大抵がまず「潤滑油」を思い出す。


 あまりに多用されすぎて、大喜利のネタと化しているのもまま見受けられるほどである。


 人と人との間を取り持ち、彼らの心を蕩かして個々の障壁を取り払い、渾然一体と成すことで、組織としての能力をより効果的に発揮する――そうした能力は確かに貴重だ。どんな時代でも重宝されるに違いない。


 明治に於いて、既にそのことに気が付いていた者が居る。


 気が付いて、意識的かつ積極的に活用していた者が居る。


 元老、井上馨その人である。

 

 

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(井上の佩刀。元治元年、袖解橋の変の折、差していたもの)

 


 もっとも当時、「潤滑油」は未だ一般的な語句でなく、従ってまた井上も、別な言葉でその役割を表現したが。


 彼は「ゴム鞠」と呼んだのだ。


 具体例を示そう。


 有賀長文を三井財閥に斡旋する際、与えた訓示がちょうどいい。


 井上はこう言ったのだ。

 


「三井には人材が少なくない、今度お前が同族に入って行くといふのは、仕事に行くのではない。偉い人間の間にはさまって、その調子を取って行く、つまりゴム鞠と心得なくてはいけない。ゴム鞠はあちらこちらとぶつかってもフワリフワリとつぶれない。又ぶつかった方でも痛いとは感じない。いくらぶつかっても他人に傷つけない。此ゴム鞠の如くあれよ」

 

 

Mitsui Main Building

Wikipediaより、三井本館)

 


 この教えがまた有賀の胸に、ほとんど何の抵抗もなくスンナリ浸透したらしい。


 以降三十余年に亘って、有賀はひたすらゴム鞠主義を墨守した。


 ただの一度も実際的な事業経営の任には就かず、しかしながら三井財閥の総本山たる合名会社に揺るがぬ地歩を築き上げ、誰からも一目置かれる、誰であろうと無視が出来ない特殊存在。包容力に満ち満ちた温厚長者の風格と、人を見る目の確かさから、「三井の宮内大臣と通称されたものだった。


 人に好かれ、人を使い、広汎な知識と分厚い常識とを駆使し、要所要所で決断を下す。そういう自分を意図して作り上げていった形跡がある。井上が投げたゴム鞠は、かくも豊穣なる人間性を結実させた。その功、大といわざるを得ない。

 

 

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(井上の筆跡。

 「かきのこす

  その真心を

  今日の世に

  見るも涙を

  袖にとゝむる 馨」

 


 ――と、ここから先は蛇足であるやも知れないが、想起してしまった以上は書いておきたい。書かねば損をしたような、後悔にも似た「もったいなさ」がへばりついて離れない。


 筆者、覚えがある。


 有賀長文の如き種類の人物を、以前にも見かけたことがある。


 大正三年、三宅雪嶺『世の中』上に於いてのことだ。

 

 

 世間に様々の階級種々の職業があり、何んでも専門に傾くと云ふ事になると共に、常識の必要を感ずることが多い。而して実際常識に富んだものは巧みに世を渡って行く。才気が満ちて判断流るゝが如き者も一向立身せず、動もすれば窮迫の態度であるのに、学校で不成績なものが次第に立身出世する事あるのは屡々見る所である。而して其の人を見れば強ち幸不幸のみでない、才物は才物でも何処となく、イケ好かないのがあり、才物でなくても当てになりさうなものもある。世の中の浮沈は常識に富んで居ると否とで定まる事が多い。(中略)何が出来るか解らぬのに高位高官に居るのも不思議はない。宮内大臣になった土方、田中、渡辺の三人は皆伯爵である。何の能があるかと疑はれたりするが、能よりも常識である。銀行頭取だの会社々長だの多くは能よりも常識で事を処理して行く。

 

 

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(少年時代の三宅兄弟。右が雪嶺、左が兄の恒雄)

 


 引き合いに出すのが宮内大臣であるあたり、いよいよ奇縁の感じが強い。


 山と積まれた書籍はときに、思わぬ衝突――化学反応を起こしては、所有者をして新たな愉快に誘ってくれる。蒐集家冥利に尽きるというものである。

 

 

 

 

 


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伊藤博文、訣別の宴 ―「万死は夙昔の志」―


 初代韓国統監職を拝命し、渡航を間近に控えたある日。


 伊藤博文はその邸宅に家門一同を呼び集め、ささやかながら内々の宴を催した。


 祝福のため、壮行のため――そんな景気のいい性質ではない。


 ――二度と再び現世でまみえることはなかろう。


 だから最後によくこの顔を見覚えておけ。そういう意図に基いた、訣別の宴であったのだ。

 

 

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朝鮮総督府

 


 身内の集まりということで、あれこれ取り繕う必要はない。


 赤心を発露していい席だった。声にも顔にも悲愴感をみなぎらせ、伊藤はこんなことを喋ったという。

 


予は少年時代より今日に至るまで既に五十余度も死地に臨んで居る。而も一身を邦家の為めに捧げて潔く犠牲たらんことを心に盟ってゐる。今日尚ほ我命の存するは実に予の幸運にして是天我をして更に君国の為に尽さしめんとするのである。世人は予を八方美人と称するも是れ予の心事を解せざるものにして自分には骨があり、胆がある。而して今や乃ち老躯を駆りて韓国に赴任す、予は自ら危地に入り険処に就くものたるを熟知してゐるのである。且又予既に老齢にして能く其の職に堪ふるや否やをも憂へてゐるが万死は予が夙昔しゅくせきの志である。老躯を提げて此の難職に当るは蓋し誠忠志尊の殊遇に答へ奉らんが為に外ならぬのである。
 予の決心既に此の如し、敢て予の一身に就て心を労するなかれ、子供等はよく母親に孝養を尽せ」

 


 この時期の半島がどういう場所か、伊藤は過不足なく理解していた。

 

 

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(半島名物・洗濯者の群れ)

 


 死線を潜ること五十余度に及ぶというのも、まんざら誇大広告でもないだろう。マダガスカル島の沖合で暴風雨に遭遇し、三日三晩生きた心地がしなかった経験さえも持っている。聞多と二人、長州藩の無謀の攘夷を止めるため、イギリスから急ぎ帰国の最中のことだ。


 それで思い出した。この情景は、文久三年の夜に似ている。


 生まれて初めて国外に出で、イギリスに密航するときも、あふれんばかりの悲愴な決意を以ってして、事に臨んだのが伊藤であった。

 

 

ますらをの恥を忍びてゆく旅も
すめらみくにのためとこそ知れ

 


 如上の歌は、その情念がありのまま形を成したものとして、高い知名度を誇っている。

 

 

Choshu Five

Wikipediaより、長州五傑。上段右が伊藤博文

 


 四十余年を経てなおも、青春時代の面影がありありと浮かぶ。

 

 伊藤はつくづく「老い」を知らない男であった。いつ何時でも地下百尺の捨て石になる意気込みが、彼に「老い」を寄せ付けなかった。なればこそ口悪の茅原華山も――シーメンス事件にかこつけて、山本権兵衛「海賊の親玉」呼ばわりした――、春畝公に対しては、「政治の為めの政治家といふべき面影があった、奮い華想的精神があった、子孫の為めに美田を買はずとする気品があった」と一定の敬意を表したのだろう。


 ついでながら茅原華山は安重根の馬鹿による伊藤博文暗殺事件が起きて後、全国に澎湃として巻き起こった韓国併合論に対する最も激烈な反対者であり、

 


 ――朝鮮を合併すれば、日本国民は朝鮮人を治むる費用を負担せねばならない、股を割って腹を養ふは愚なり、況や日本の股を割って朝鮮の腹を養ふに於てをや。


 ――朝鮮人は深く亡国の怨を懐いて、決して日本に心服しない、反って他日我国が外国と事あるに乗じて、日本の仇を為すかも知れない、御礼を言はないのみならず、反って日本に仇しやうとする朝鮮人の腹を養ふが為に日本人の股を割くは、更に愚の至りではないか。

 


 このような言を盛んに製造、手当たり次第に発信し、結果として『萬朝報』に籍を失う一因ともなっている。(大正四年『孤独の悲哀』)


 これらの危惧がいちいち的中――それもおそるべき精度でもって的を射たことに関しては、敢えていまさら詳述するにも及ぶまい。

 

 

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京城駅)

 


 歌がある。


 語り継がれるに足る歌を、春畝公は多く遺した。


 その中から特に明治憲法制定時の漢詩を引いて、この稿の締めとさせていただく。

 

 

萬機獻替二十年ばんきけんたいにじゅうねん

典憲編成奏御前てんけんへんなりてごぜんにそうす

放眼泰西明得失めをたいせいにはなちてとくしつをあきらかにす

馳心上世極精研こころをじょうせいにはせてせいけんをきはむ

興大業縄天祖ちゅうこうのたいぎょうてんそにつぐ

開国宏謨駕昔賢かいこくのこうばくせきけんをがす

更始偕民志尊志こうしたみとともにすしそんのこころざし

千秋瞻仰帝威宣せんしゅうせんぎょうていいののぶるを

 

 

 

 

 


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人間行路難 ―木戸孝允は死してなお―

 

 起きてはならないことが起きてしまった。


 死者の安息が破られたのだ。


 墓荒らし――真っ当な神経の持ち主ならば誰もが顔をしかめるだろう、嫌悪すべきその所業。


 それが明治十二年、京洛の地で起きてしまった。


 場所も場所だが、「被害者」はもっと問題である。


 ――よりにもよって。


 としか言いようがない。荒らされたのは、木戸孝允の墓だったのだ。

 

 

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高瀬川の流れ)

 


 木戸孝允、かつての名乗りは桂小五郎


 言わずと知れた長州の巨魁、西郷・大久保と相並び、維新三傑と呼ばれた男。


 華やかな呼び名と裏腹に、その晩年は極めて憂愁の色が濃い。べつに誰かが彼を迫害したのでもなく、彼の内部にいつからか巣食った気鬱の病がいよいよ悪化、骨髄にまで喰い込んで、ただもう一途にこの人物を暗所に暗所に追い込んでいった印象だ。


 これは千万言を費やすよりも、当時に於ける彼の試作を一読すればたちどころに諒解される。

 

 

山依舊而秀やまきゅうによってひいで

水依舊而漫みずきゅうによってまんたり

孤松払雪立こしょうゆきをはらってたち

痩菊経霜残そうぎくしもをへてのこる

年光容易尽ねんこうよういにつく

人間行路難にんげんこうろかたし

 

 

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長州藩校・明倫館武道場

 


 木戸の號が「松菊」であることを踏まえると、三・四行目の趣がいよいよ深くなってくる。


「人間行路難」とは、使い古された字句ではあるが、まさに赤心の吐露だったろう。


 そういう男だ。


 しかし既に人生をえ、冥い黄泉路に就いてさえ、墓を荒らされるという「難」に襲撃されるとは、いったいどういうことなのだろう。


 そういう星を背負ったのだと、諦めるしかないのだろうか。

 

 

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(長州・萩の夏みかん

 


 仰天したのは長州閥の方々である。彼らにとって本件は国家の威信に関わりかねない大問題に他ならず、警察への圧力は尋常一様のものでなかった。


 必死の捜査が展開されて、翌年三月にはみごと犯人を検挙あげている。


 民俗学者中山太郎の調べによると、「それは墓守の非人であって、盗んだものは錫製の三宝と徳利の外に、遺骸に着せてあった絹の衣服であった」そうな。


 動機のほども単なる生活難に基くもので、なにからなにまで陰惨なる雰囲気に包まれきった事件であった。

 

 

 

 

 


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明治毛髪奇妙譚・前編 ―アタマは時代を反映す―


 清帝国が黎明期、辮髪を恭順の証として総髪のままの漢人の首をぽんぽん落としていたように。


 ピョートル大帝がひげに税を課してまで、この「野蛮時代の風習」を根絶しようとしたように。


 あるいはいっそヒトラー式のちょび髭が、公衆に対する挑発として現代でもなお禁忌とされているように。


 毛髪、特に頭部に根を張る毛というやつは、往々時代を映す明鏡となり、人命さえも左右した。

 

 

Qinghairstyle

Wikipediaより、辮髪の変遷図)

 


 わが国とて例外ではない。

 


半髪頭をたたいて見れば、因循姑息の音がする。


惣髪頭をたたいて見れば、王政復古の音がする。


ザンギリ頭をたたいて見れば、文明開化の音がする。

 


 あまりにも有名な如上の歌が示すまま、維新成立間もないころは、ちょんまげを切り西洋風の短髪へと整え直すことこそが文明化への第一歩であり、新時代に参画する権利の如く持て囃されたものだった。

 

 

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(『江戸府内 絵本風俗往来』より、髪結いどころの初剃り)

 


 誰も彼もが相競うように鋏を入れた。まさに時代の流れであった。


 ところがこの潮流が、ある地点を機に思わぬ方面に迸出している。断髪熱があまりに高まり過ぎた結果として、なんと女性の中からもこれに追随せんとする一種勢力が生まれたのである。


 緑なす黒髪が惜し気もなく落とされた。


 その発生はよほど早く、明治五年三月の『新聞雑誌』――後の『東京曙新聞』――に、もう以下の如き記事がある。

 


…女子は従順温和を以て主とする者なれば、髪を長くし飾りを用ゆるこそ万国の通俗なるをいかなる主意にやあたら黒髪を切捨て開化の姿とか、色気を離るるとか思ひてすまし顔なるは実に片腹いたき業なり…

 


 大正時代、モダンガールの間でも短髪がしきりに流行し、中には男の格好をして吉原へと繰り込んで、大いにふざけちらした「豪傑」さえもあったと聞くが、なかなかどうして明治初頭のお姉様方も負けてはいない。

 

 

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(昭和の名優・琴路美津子)

 


 同じ『新聞雑誌』から、具体的な姿についてもう少し引用を続けよう。

 


…洋学女生と見え大帯の上に男子の用ゆる袴を着し、足駄をはき、腕まくりなどして洋書を提げ往来するあり…

 


 甚だしいのになると更にこの上、刀を一本ぶち込んで、大道を練り歩く「大物」まで居たそうだ。


 明治五年というと、西南戦争どころか佐賀の乱すら起こっていない。


 神風連を暴発させた廃刀令も必然としてまだ・・であり、こういう光景が成立する条件は、なるほど確かに備わっている。


 個人的にはこれはこれで悪くない、見ごたえのある眺めであるが、当時の人々の衝撃は尋常一様でなかったらしい。白昼亡霊をみるより更に、あるいは深刻だったろう。

 

『新聞雑誌』の論調も「是等は孰れも、文明開化の弊にして、当人は論なく父兄たる者教へざるの罪と謂ふべきなり」――文明開化の金看板でも糊塗しきれない悪習であると批判している。

 

 

KIDO TAKAYOSHI

Wikipediaより、木戸孝允。『新聞雑誌』の創立に関係)

 


 政府からのお達しも数度にわたり、矯正に尽瘁したそうだ。


 過渡期というのがどういうものが、狂熱ぶりがよく感じ取れる話であろう。

 

 

 

 

 

 

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不平の種、魂の熱 ―満ち足りることに屈するな―


 こんなおとぎばなしが西洋にある。


 どこぞの小さな国が舞台だ。王と王妃が登場するから、王制を採択していたのは疑いがない。夫婦仲は良好で、国民からも慕われていた。


 が、なにもかも順風満帆であってくれては、それこそ物語として発展する余地がない。必要なのは問題である、試練である。艱難が立ち塞がってこそ、その攻略の意志に燃え、知力腕力あらゆる力を振り絞る人の雄々しき姿も見える。詩に歌に、芸術を育む土壌とは、得てしてそんなものだろう。


 ご多分に漏れず、この王家にも問題があった。仲睦まじさに拘らず、なかなか子宝に恵まれぬ。なにやら「いばら姫」を想起させる構図である。

 

 

 


 話が展開するにつれ、既視感はますます強くなる。紆余曲折を経た末に、とうとう顕れる懐妊の徴。王の祈りが果たして天に通じたか、王妃は間もなく待望の第一子を産んだのだ。


 母子ともに健康、しかも男児の誕生に、王の歓喜は絶頂に達した。産衣に包まれた王子を主役に、祝いの宴がさても盛大に執り行われる。やがて王の招きを受けた十二人の魔法使いが現れた。彼ら、あるいは彼女らは、その超常の力で以って美貌とか智慧とか体力とか、素晴らしい贈り物を王子に与えた。


 既視感もまた、このあたりで最大限度に達しよう。


 ただし「いばら姫」と異なって、この童話には招かれなかった十三人目はいなかった。代わりと言ってはなんであるが、十二人目が変なモノを贈ろうとした。


 即ち「不平」。現状に満足することのない煩悶の種。そんなのを目の前でまさに埋め込まれんとして、王はむろん激怒した。さてもめでたい祝いの席に、貴様は泥を塗りたくる気か、と。


 十二人目はただ従容と席を立ち、門の外へ消え去った。


 時が流れた。

 

 

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エディンバラ城鳥瞰)

 


 ごくありきたりな自然界の法則が、王子を赤子のままにはしておかなかった。少年の段階も過ぎ去って、彼は既に青年の域。かつて約束された通りの涼やかな容姿に成長していた。


 が、その双眸にはどういうわけか、痛ましいほど生色がない。


 ガラス玉の方がまだしも艶を帯びていたろう。


 そう、この王子には致命的に情熱がない。物心ついてからこっち、半秒たりとも自主性を見せたことなき人物なのだ。


(なんということだ)


 これではまるで生ける屍ではないか――口には出さねど、王が思ったこと一度ではない。


 心臓が停止とまってないだけの、意志なき人の紛い物。斯くの如き脱け殻に、国の行く末を委ねていいのか? 隣国との友好、不幸にも破れて、彼の攻伐が迫った際に、果たしてまともに戦えるのか? ひょっとするとそのときも不感症を貫いて、崩れる城壁、燃える市街地、民の悲鳴が木霊しようと、玉座に体重を預けたっきり、乾いた横顔を向け続けるのではないか?


(もしもあのとき、十二人目の魔法使いの為すがままにさせていたなら――)


 つまりは「不平」が宿っておれば。きっとこの子はまだ見ぬ何かを手に入れたいと渇望し、積極的に動いたろうし、また一方では世の中のことに憤り、その溢れんばかりの才を尽して是正のために立ち働いたに違いない。


 不平と欲とは切っても切り離せない関係にあり、そしてまた欲望こそが生命いのちそのもの、人間を人間たらしめる魂の熱量だったのだ。


(そういうことだったのか)


 漸くのこと理解して、しかしもはやどうにもならぬと、王は底なしの後悔に沈んでいった――ざっとこんな塩梅である。

 

 

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(ヨークに遺るローマの城址

 


 人生には多少の塩っ気が必要不可欠ということだろう。


 それにつけても思い出すのは、ジュン・ゲバルの歌である。


 板垣恵介範馬刃牙』七巻第四十八話アンチェインの二代目が本気になったあのシーン。


 歌舞伎役者の隈取にも似た戦化粧を施しながら、声高らかに吟じたものだ。

 

 

月夜の晩に

錨を上げろ

嵐の夜に

帆を上げろ

星を標に

宝に向かえ

ラム酒はおあずけ

鉄を焼け

慎み深くをハネ返し

耐えて忍ぶを退けろ

満ち足りることに

屈するな

満ち足りないと

なおも言え

 


 これぐらい貪欲であってこそ、男というのは清々しいのではないか。

 

 

Kabuki-makeup

Wikipediaより、九代目市川團十郎

 


 薄味にはなりたくない。「諸君よ、男子生れて何を後世に遺す。一本の墓標では諸君も満足出来まい。僕は事業でも満足出来ないのである。どうかして、我が此の人格を、不朽の天地に残したい」。そう叫んだ石本音彦のようでありたい。


 ところがそう思った矢先から、

 


 ――みんな壮志を抱きつつ平凡の群に堕して行くのだ。みんな青春を惜しみながら化石の像に隠れて行くのだ。胸底に残るのは当年の思出一つ、それさへも朝露夜露と消え去って了ふのだ。

 


 真渓涙骨のこんな言葉が記憶の底から湧いてきて、ために骨も内臓もくたくたに押しつぶされる思いがし、机に突っ伏しそうになる。

 

 

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(昔日の夕張炭鉱)

 


 読書中にはよくあることだ。


 熱情と諦観、老いと若きと。


 まるでサウナから水風呂に飛び込みでもしたかのように、私の脳は過熱と冷却を急ピッチで繰り返す。


 それがまたぞろ、快感なのだ。

 

 

 

 

 

 

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庚申川柳私的撰集 ―「不祥の子」にさせぬべく―


「きのと うし」「ひのえ とら」「ひのと う」「つちのえ たつ」「つちのと み」――。


 あるいは漢字で、あるいは仮名で。カレンダーの数字のそばに、小さく書かれた幾文字か。


 古き時代の暦の名残り。十干十二支の組み合わせは、実に多くの迷信を生んだ。

 

 

カレンダー (29075955928)

Wikipediaより、カレンダー)

 


 就中、有名なのは丙午ひのえうま庚申こうしんだろう。両方とも新たな命の誕生と関係している――主に悪い方向で。


 丙午の年に生まれた女は男を喰い殺すサガを持ち、庚申の夜に仕込まれた子は、やがて泥棒に育つというのだ。避けるべき日、不吉な符合というわけである。


 現代でこそ一笑に付すべき愚論だが、夜の闇がなお深かった江戸時代、人々はそう簡単に畏れの念を振りほどけない。俗信に生活を束縛される大衆は、想像以上に多かった。


 だからこういう川柳が発生もする。

 


庚申は せざるを入れて 四猿なり


庚申を うるさく思ふ あら所帯


盗人の 子が出来ようと 姑いひ

 

 

Miyata tenjinjinja03

Wikipediaより、庚申塔

 


 庚申の夜に寄り集まって酒を呑んだり雑談したり、あるいは念仏を唱えたりする。一晩中、東の空が白みだすまで一睡もせずそれを続ける。――「庚申講」の風習である。


 ひょっとするとこれとても、不祥の子を作らせまいとの配慮から考案・維持され来ったものではないか。つまりは相互監視のためのもの。そう推測する向きもある。


 あながち根も葉もない理屈ではない。


 禍は未萌に摘むがよし。


 いつの時代も、予防に勝る対策はないのだ。

 


「人間は生きて行くためには、何とかして運命の軛を取り去らうとする心がある。或は運命に歎願し、或は運命に媚び、或は運命を欺いて、幸福を得やうとする、運命を二元的に見、神と悪魔とにする時には、神に向っては加持祈祷を以って歎願し、悪魔に向っては調伏しやうとする」

 


 生方敏郎『謎の人生』で説いたところが、なんとはなしに思い出された。

 

 

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(『江戸府内 絵本風俗往来』より、往来の子供あそび)

 


 けれどもやっぱり愛のリビドーは強烈と見え、

 


新所帯 七ナ庚申も するつもり


こらへ性 なく盗人を はらむなり

 


 禁忌と知りつつ、我慢しきれなかった奴らを揶揄するこんな句まで存在するから面白い。

 


あらうこと 庚申の夜に 瘡をしょひ

 


 これなどは旦那の我慢がぶっちぎれたが、女房は然らず、信仰を盾に拒まれたため、そのあたりの色街へ憂さを晴らしに出向いた結果、みごと梅毒に感染し、一生ものの手傷を負った馬鹿野郎をあげつらったものだろう。


 不運にもほどがあるとしか言いようがない。


 十七文字の背後には、実に広大な景色・事情が横たわっているわけである。

 

 

 

 

 


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