四書五経の一つでもある『礼記』には、次のように記されている。
「君に過ち有れば則諫め、三度諫めて聴かざれば去るべし」と。
臣下たるもの、主君の過ちに気付いたならば三度まではこれを諌めよ。もし三度諌めてなお聞く耳を持たぬような迂愚であるなら、そんな主は見棄ててしまえ――そのように教えているわけだ。
が、日本男児の流儀は違う。三度諌めてそれでも主君が頑迷不霊変わらぬならば、みずから腹を掻っ捌き、溢れ出る血と臓腑を以ってなおも諫めよ――冒頭に掲げたのは、そんな意気の古歌である。
おそらくは、江戸時代の中期以降に詠まれた歌であるだろう。
というのも、武士は武士でも戦国時代の武士にとっては藤堂高虎の言ったが如く、「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という考え方こそ本道で、諫言などというともすれば舌禍に繋がりがちな危険行為は敢えてせず、上が駄目ならさっさと見棄てて退転するのが当然のならいとされていた。
戦場での死は誉れだが、馬鹿の癇気を蒙って、畳の上で殺されるのは薄らみっともなくてやりきれぬ――そうした美的観念もあったろう。
信長のうつけを気に病むあまり、忠諫状を書き残して自刃した平手政秀老人などは、明らかな例外に属する。
「君、君たらずとも臣、臣たれ」という服従の道徳が武士階級の骨髄にまで滲み徹るようになったのは天下が平らげられて後であり、このままいつまでも四海波静かであれと願った徳川幕府が、その方法としてさむらいどもの野気を抜くべく儒教教育を積極的に取り入れたがゆえだろう。そうした背景なくして、この歌は生れそうにない。
斯くの如く、何かしらの「元ネタ」を背負った歌というのは存外多い。それらは単体でも決して愉しめないことはないが、背景を理解した上で読むとより一層の興趣が湧く。
折角なので、もう二首ばかり紹介しよう。
やはり江戸時代に詠まれた川柳。
この元ネタは、おそらく兼好法師の『徒然草』だ。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と並んで日本三大随筆と世に評されるかの書には、
家のつくりやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。
という一文がある。
夏暑い家=下手な建て方をされた家という理屈は、おそらくこれに基づいたもの。
たぶんこの川柳子も『徒然草』を読み込んでいたのではなかろうか。江戸時代が一大教養時代であったことがよくわかる。
月は朧にますものぞなき
これもまた、『徒然草』の影響を受けるところ大とみる。
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。
という部分を七・七・七・七の音律数に練り直し、より情緒的に歌い上げたものだろう。
生命力の充実しきって張りのある、さも瑞々しき瞬間よりも、それが衰え、朽ちゆかんとする最中にこそ言い知れぬ趣味が見出せる。侘び・寂びを愛する日本人の感性が、如実に反映されているといっていい。
私なんぞもページの白さが目に鮮やかな印刷したての新本よりも、ヤケの及んだ茶色い古書に対してこそ、より深い愛着を催しがちな性情だから、このあたりの機微はよく
この呼吸はひょっとすると、『デモンズソウル』をはじめとしたフロムソフトウェア謹製の、所謂「ソウルシリーズ」なるものの魅力に或いは通ずるやもしれぬ。
なにしろ彼の作品群で描き出される世界ときたら、ほとんど何もかもが手遅れな、どうしようもないなれの果てで埋め尽くされたものばかり。
在りし日の栄華は遥かに遠く、残照ばかりが目について、それがまた郷愁にも似た切ない疼きを煽るのだ。
主人公が身に纏う装備にしてもどうであろう。どれもこれも、
焼け、
痛み、
捻じれ、
綻び、
曲がり、
欠け、
爛れ、
歪んで、
工房より鍛造されたての白光りする品なんぞはさらにない。
血に染まり、灰と煤とに汚されて、泥に塗れたその姿。闘争に次ぐ闘争の果て、散々に酷使されたモノばかりだと一目で分かる。
だがそれこそが、永らく継承されてきた、日本人の勘所をこれ以上なく抉り抜きもしたのだろう。
蛇足が甚だしくなって来たので、このあたりで切り上げる。『エルデンリング』の続報はまだか。待ち遠しすぎて頭がおかしくなりそうだ。
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