文政九年のことである。
江戸は上野の山下で、世にも珍奇な見世物が興行される運びとなった。
女力士と盲力士の対決である。
互いに十一人の選手を出して、最終的な勝ち星を争う。
(Wikipediaより、土俵)
土俵の神聖もへったくれもない話だが、実のところあの領域が女人禁制となったのは、もっぱら維新の影響に負うところが頗る大で、徳川三百年の治世に於いてはその点いたって緩やかだった。
明和と天明の二回にわたりピークがあって、江戸はおろか大坂でも盛んな取り組みが見られたという。
ただ、その相手が男衆――それも盲人揃いというのは初めてのこと。
おまけに女側の力士というのも、酌婦あがりが結構な数を占めていたりと、一風変わったチョイスであった。
果然、江戸っ子どもの好奇心に火がついた。
――泰平に伴ふ人心の弛廃、倫常の頽廃、奢侈享楽の発達云々。
と、儒者どもはまたぞろ物堅いことをぶつぶつ言ったが、むろん焼け石に水である。
一度燃え上がってしまったからには、行くところまで行ききって、灰にならねばおさまらぬ。勢いとはそういうものだ。興行は大繁盛を呈したという。
(上野公園にて撮影)
そもそもからして日本人の男には、闘う女、強い女――翻っては戦仕立ての女性の姿、それ自体が好きで好きでたまらぬという変態的な偏りがある。
そうでなければ江戸時代初期、女歌舞伎がああまで流行った説明がつかない。
女優に男の格好を――大小二本を腰にぶち込みまでさせて、舞台の上で踊らせる。あるいは茶屋の娘を相手に戯れちらす遊冶郎の真似事をする。出雲阿国に端を発するこの催しは、ほとんど爆発的な勢で以って当時の世に広まった。
男装の麗人なる概念にみるみる鉄腸を蕩かされ、ついには大事な社稷さえも台無しにして惜しまない阿呆どもの有り様を、『京童』の著者・中川喜雲は以下のように描いている。
…あるは父母の養をかへり見ず、あるは子持が悋気もいとはず、来る日も来ぬ夜も、心はこゝに置いて、倉の銭箱をたゝく。限りある宝に尽きなき戯れを好み、親をしのび、妻をはかれども、あこぎが浦にひく網の目もしげければ顕はるゝ…
(『Fate/Extra CCC』より、暴君ネロことネロ・クラウディウス)
儒官どもの総元締め、林家開祖・林道春その人さえも「出雲国淫婦九二者、始為之、列国都鄙皆習之、其風愈々盛、愈乱、不可勝数挙、闔国入干淫坊酒肆之中」云々と、女歌舞伎の流行により日々頽廃に傾く風儀を慨したほどだ。
結局寛永六年に禁令が布かれる運びとなるが、これほど人気の商売である、そうやすやすと絶滅できるわけがない。
案の定、湯女がその後釜をちゃっかり継いだ。
享保五年に成立をみた随筆集『洞房語園』にそのあたり詳しい。曰く、
…寛永の頃流行りし女歌舞伎の真似などして、玉ぶちの編笠に裏附の袴、木太刀の大小をさし、小唄うたひ、台詞など云ふ。その立振舞美ごとにて風体至ってゆゝしく見えしとなり…
この湯女があまりにウケるものだから、ついには「本場」吉原の店が態々お抱えの遊び女を裏でこっそり風呂屋に託し、客をとらせた例もある。
公娼が私娼に態々化けたわけだから、なにがなんだかわからない、顛倒現象も甚だしいと言わねばならない。
(Wikipediaより、明治五年頃の吉原)
現代日本社会にも、「女騎士」というフレーズに異様な興味と昂奮とを示してのける野郎衆が一定数存在している。
なにか、こう、DNAの流れというか、受け継がれる血のさざめきを感じはすまいか。
少なくとも私に於いては、過去と現在は地続きなのだと、ほとほと納得させられた。
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