――それにしても。
と、前回の流れを引き継いで、思わずにはいられない。
それにしても春畝公伊藤博文閣下とは、なんと豊富な逸話の持ち手であるだろう。
ひょっとすると「元勲」と呼ばれる面子の中でも最多なのではなかろうか。これはそのまま人間的襟度というか、伊藤公の情味の厚さに繋がっているかに思われる。
就中、以下の噺は私の特に快としたるものである。
大正三年、三宅雪嶺著『世の中』上に記載されていたものだ。発見時の悦びは、今以ってなお忘れ難い。
曾て西本願寺の重なる僧侶が会合して、改革を計った事がある。島地氏なども居った。時に故伊藤公が席に列したが、その謂ふには「君等が改革を計ったとて何にもならぬ、何でも法主の
(東本願寺)
一読するなり、すぐに私の脳中に、
――さてこそ!
の四字が電光の如く閃いた。さてこそ伊藤博文は大久保の衣鉢を継ぐに足る、と。頭のてっぺんから腹の底まで突き抜けるような衝撃と共に納得させられたのである。
維新三傑・最後の一人、大久保利通のやり方も、これこの通りに他ならなかった。そうだ、輝かしきあのセリフ――「おのれの志を世に実現しようとすれば、権力者に取り入らねばならぬ」。
福地桜痴と対面した際、にこりともせず真っ向からぬけぬけと言い放ってのけたのは、名場面を超越しもはや伝説の域に到達している。「志さえ高ければ、それを恥とすべきではない。自分は往昔、藩父の久光公に取り入り、自在に志をのべた。君も、もし世にのべるほどの志があるなら、まずおれに取り入れ」と。
なるほど雪嶺の言う通り、言い方こそは卑俗だが、本質に於いて両人の発言はまったく同じといっていい。
天下の事を成さんと欲す、されど我は小身なり、ならばどうする、大なるものに接近すべしだ。
なりふり構わず、どんな媚態を尽くしてでも、権力者に繋がるのである。理想ばかり口にして独り高しとしていても、実世間には何の影響も与えられない。泥中に脚を突き込みまくる用意と覚悟がどうしたって必要である。これはそういう、惚れ惚れするほど徹底的な現実主義の発露であった。
特に伊藤は大久保より長生きしたぶん、余計に泥を被った量が多かったかに思われる。それはもう、腰まで沼に浸かったように。
(紀尾井坂の変を描いた絵図)
しかしそれでも、その風采に「猥雑」の二文字がどうもしっくり来ない点、伊藤はやはり得な男だ。
冒頭の情景にしても
あれもこれもひっくるめ、やはり私は、元勲中ではとりたてて、伊藤のことが好きである。
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