穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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挑発には挑発を ―英国貴族と労働者―


「戦争は富める者をいっそう富ませ、貧しき者をより貧しく、唯一の資本たる健康な肉体さえ損なわしめた。金欲亡者がぶくぶく肥り、我が世の春を謳歌する蔭、祖国のために義務を尽した勇士らが、路傍で痩せこけ朽ちてゆく。諸君! こんな不条理が許されていいのか! 人道を無視した搾取に対して、我々は一致団結し、抗議の声を上げねばならない!」


 その日、グロブナー・スクウェアは熱かった。


 ロンドン有数の高級住宅街に設えられたこの公園を舞台とし、社会主義者どもの野外演説会が決行されたからである。


 緑の空間に、アカどもが蝟集したわけだ。

 

 

トラファルガー広場コミュニストたち)

 


 アジに盛り込まれている「戦争」の二文字。これはつまり、第一次世界大戦を指す。


 ヴェルサイユ条約締結からそう幾許いくばくも経ていない時分のことだった。


 むろん、この批難には突っ込みどころが山とある。


 一九一四年八月四日、イギリスによる対独宣戦布告が行われ、欧州の風雲が急加速したあの瞬間。


 ほとんど間髪入れぬ素早さで、イートンの――英国でも最高峰の良家の子息ばかりが集まる、名門中の名門校の――生徒らが、我も我もと出征を志願、ドーバー海峡の向こう側へと渡ったことは、以前に述べた。

 

 敢えて繰り返させてもらうと、その数、実に千八百人。


 開戦前、イートン校には二千人からの学生が在籍していたとされるから、全体の九割に相当する。してしまう・・・・・

 

 

イートン校)

 


 同様の現象は、オックスフォードでもケンブリッジでも発生していた。


 教授連の中にさえ、ペンを投げ捨て戦地に向かった者がいる。


 ことほど左様に、上流階級の人々は有事に於いて国家のために身を捧ぐ、血の熱さと魂の品位を見せつけた。


 で、同じとき、労働階級の人々はいったい何をしていたか。


 これがまたぞろ傑作なのだ。

 

労働階級は殆んど愛国奉公の精神を示さず、軍需法案実施の匆々ウェールズの炭鉱夫は却って一斉に同盟罷業を決行すると云ふ有様であった。幸にロイド・ジョージ氏の熱誠と辣腕とに依って無事に落着したとは云ふものゝ、此の罷業が若し一二週間も続いたならば、英国海軍は忽ち燃料に窮し、英国の作戦は如何なる難局に陥ったかも知れなかったのである」――実業特使の任を帯び、大正八年、欧米一帯を巡歴した、山科礼蔵の報告である。


 さても甚だしき対照だった。


 それ以後も一九一五年二月クライド湾一帯の造船業者の大罷業、


 一九一六年九月飛行機工場ストライキ


 一九一七年一月ロンドン地下鉄従業員の大罷業等々、


 労働者による戦争への非協力的態度は続いた。

 

 利敵行為スレスレの所業といってよく、それを態々裏付けでもするかのように、彼らが好んで呼号したのは「我らの敵はドイツにあらずして、英国政府及び資本家である」との文句であった。


 チャーチルロイド・ジョージら閣僚が、兵役拒否者を銃殺刑に処したがったあの心事にも、おのずから納得のいくことである。

 

 

David Lloyd George

Wikipediaより、ロイド・ジョージ

 


 一連の記憶は、むろんグロブナー・スクウェア周辺に棲まうすべての貴族に鮮やかである。


 ――なんのことだ。


 針小棒大を平気でやらかす煽動も、それにうまうま・・・・と乗っかっていたずらに気焔を逞しくする庶民らも。


 彼らの知能の低劣ぶりに、憤りを超過して、もはや憐憫すら芽生えただろう。


 それゆえに、住民たちは相手にしないことにした。自分たちを糾弾する怨嗟の聲が如何に通りに満ちようと、まるで聞こえないふりをして、ピアノを弾き、スコーンを焼き、紅茶を淹れて、舞踏の影をカーテン越しに窓に映してやったのだ。


 挑発に挑発で報いたといえる。


 如何にもらしい・・・面当てだった。

 

 

Tea and scones 2

Wikipediaより、紅茶とスコーン)

 


 これがフランスだったなら、群衆はたちまち暴徒化し、邸宅に無理矢理押し入って略奪の限りを尽くした挙句、火でも放って大いに快哉を叫んだろうが。そこはイギリス、ちゃんとメリハリが効いている。「労働者も亦口舌弁論の上で社会組織の不公平を絶叫して輿論に訴へただけで、演説が済むと平穏無事に解散した」のだ。


 首座こそアメリカに譲り渡せど、イギリス未だ大国なりと、山科は深く頷いている。

 

 

 

 

 


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清冽な大気を求めて ―一万二千フィートの空の舌触り―


 山形県東村山郡作谷沢村の議会に於いて、男子二十五歳未満、女子二十歳未満の結婚をこれより断然禁止する旨、決定された。


 昭和五年のことである。

 

 

(昭和初期の山形市街)

 


 ――はて、当時の地方自治体に、こんな強権あったのか?


 とも、


 ――なんとまあ、無意味なことを。


 とも思う。


 大方世上を賑わわせていた、人口過多・産児制限のあおりを喰っての反応だろうが。――およそ情念という情念の中でも男女の恋の炎ほど天邪鬼なものはない。障害物が高いほど、引き離す力が強いほど、いよいよ盛んに燃え上がる。当事者にとってはその一切が単なるスパイスに過ぎないのだ。

 

水の流れとわたしの恋は
堰けば堰くほど強くなる
 

 この都々逸の示す通りだ。江戸時代の戯作本、否、下手をすれば紫式部のむかしから散々描き出された性質、わかりきったことではないか。

 

 

Murasaki-Shikibu-composing-Genji-Monogatari

Wikipediaより、紫式部

 


 根底に無理がある。


 少しは米国を見習うがいい。


 ほとんど同時期、合衆国はオクラホマ州九十一歳の老人が十九歳の花嫁を迎え、意気揚々と新婚旅行に出発している。


 旅行先での興奮に、彼の心臓がもつ・・のかどうか。ただそれだけが心配だ。


 ニューヨークでは一年間で四百八十三名もの女子学生が「結婚」を理由に退学し、十六歳がそのうちの最大比率を占めてはいたが、十五歳も八十三名含まれて、中にはなんと十二歳の少女の姿まであった。


 たまらぬ自由の味だろう。

 

 

Oklahoma State Capitol

Wikipediaより、オクラホマ州会議事堂)

 


 極東の島国の些細な隆起、鈴鹿山脈の上を飛んでいた航空機から、須藤なにがしなる一青年が突如飛び降り、一千メートル下の地面に身を叩きつけて死ぬという、投身自殺の新記録を作っていたころ。


 アメリカでは肺病患者を飛行機に乗せ、一万二千フィートの高さにまで達せしめ、そこの空気を吸わせることで病気治療に役立てるという、まったく新しい転治療法が行われていた。


 なるほど確かに理屈は通る。


 英国の思想史家であり、また登山家としても名を馳せたレズリー・スティーヴンは山の魅力を説明するに、


 ――山では百万の肺腑をくぐったようなものとは別の空気を呼吸することが出来る。


 こんな言辞を用いたものだ。

 

 

 


 転地療法も狙いは同じ。都塵と無縁な、生まれたての新鮮な空気を思う存分吸い込める、何処か自然の懐へ患者を移すことにより、心身ともに爽快の気を充填せしめ、健康回復に役立てるのだ。


 だからサナトリウムの建設場所は、山奥とか浜辺の近くの高台とかに、だいたい相場が決まっている。


 が、アメリカ人らは従来の相場に飽き足らず、もっと清冽な空気を吸える場所を求めた。


 その結果が、航空治療。一万二千フィートの空に、患者の呼吸器を直接曝す。滞在はおよそ三十分間、「転地」と呼ぶには短すぎるきらいがあるが、しかしその効果は絶大だった。


 空気の良し悪し以外にも、目に映る絶景、身を包む浮遊感等々が、患者の心に生の活力を与えたようだ。実際肺病以外にも、失語症が治っただとか、神経痛がうそのように消えたとか、そんな報告が相次いでいたそうである。

 

 

(飛行機にシャンパンをぶっかけるアメリカ人)

 


 太平洋を差し挟み、同じ惑星、同じ時代でこれほどの差異。富める国と富まざる国の比較とは、斯くまでも、ああ斯くまでも。

 

 

 

 

 


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遺恨三百 ―歳月経ても薄まらず―


 憎悪は続く。


 怨みは消えない。


 復讐は永久に快事であろう。


 幕末維新の騒擾がどういう性質のものだったかは、東征の軍旅が関ヶ原を通過した際、薩摩藩士の発揮したはしゃぎっぷりによくわかる。


「いよいよ二百余年前の仇討ができる」と喜び勇み、一行の中でも河島醇に至っては、ご照覧あれとその場で大きく四股を踏み、先祖の霊を地面の下から呼び起こし、文字通り雀踊りしたほどである。


 後の立憲自由党幹事、衆議院議員の若かりし日の姿であった。

 

 

Kawashima Atsushi

Wikipediaより、河島醇)

 


 ことほど左様に、明治維新関ヶ原の敗者にとって、三百年来待ち望んだお礼参りの好機であった。


 秋田藩はなにゆえに、奥羽越列藩同盟からいち早くおさらばしたのであるか?


 決まっている。問うだに愚かというものだ。藩主佐竹の一族は、西軍加担の罪により、水戸五十四万石の封土から秋田二十万石へ、強制的に移し替えられた家だからである。


 一挙に半分以下への減封を喰った、そういう過去がある以上、徳川に好意を抱けるわけがない。


 勢衰えれば旗を返して当然だった。


 これはこれで、武家のならいというものだろう。

 

 

(秋田・土崎港の景色)

 


 同じ東北、津軽地方は弘前藩にも、関ヶ原の埋火はある。


 有名な話だが、ここには三成の血筋が残る。


 石田三成の次男重成関ヶ原の敗北後、逃げに逃げたり遠くこんな北の果てまで落ち延びてきたこの遺児を、津軽侯は丁重に迎え入れたとか。


 杉山源吾と改名させて、一説には侍大将に取り立てる厚遇さえも与えたという。だから城内に稲荷神社を建てたいという請願も、二つ返事で許してやった。

 

 

Hirosaki-castle Aomori JAPAN

Wikipediaより、弘前城天守

 


 ところがこの社には秘密があった。明治維新なりてのち、漸く明かされた重大な秘密が。

 


 徳川幕府の役人が城内を調べに来てありゃ何ぢゃとただすと、あの通りのものでござりますと答へた。
 ところが実際は、あの通りではなかった。お稲荷さんの尻っ尾の後に、太閤さんの像がひそめてあった。幕府の役人ばかりではなく、その後、代々の殿様にもその真相は伝はらなかった。風土記子が封切りするならば、それは石田の残党が旧君の恩義を忘れぬための拝殿であったのだ。

 


 東京日日新聞の記者、日高利市がそのコラム欄、『経済風土記に物した文だ。


 人間の意志はおそろしい。時の流れの彫琢に、斯くも鮮烈に抗ってのける。

 

 もっとも日高の記事には続きがあって、

 


 しかし杉山家一生の不覚は、三成の兜を担保にして金を借りたことである。青森県一の金持佐々木嘉太郎から融通してもらった少しばかりの金を、三万円出さねば、兜は返されぬと、嘉太郎からひぢ鉄食って、目下引き続き訴訟裁判継続中、三成もあの世でシャッポを脱いでゐやう。

 


 こんな具合の、世知辛いオチがついてはいるが。

 

 

 

 

 


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魂叫


 貧は罪の母という。


 その象徴たる事件があった。


 姉による、弟妹どもの抹殺である。

 

 

(『江戸府内 絵本風俗往来』より、子供の盆歌)

 


 主犯――長女の年齢は、事件当時十七歳。この長女が


「水遊びをしに行こう」


 との口実で十歳になる弟と、十二歳の次女、二歳の三女を伴って近所の小川に出掛けてゆき、そして自分一人しか戻らなかった。


 あるいは淵に突き落とし、あるいは捩じ伏せ、無理矢理沈め。小川の水を凶器とし、他三人をことごとく溺死させてのけたのである。

 

 

 


 事件に先駈け、この一家では母親が世を去っていた。


 その影響は甚大だった。口さがない言い回しを敢てするなら、典型的な下層に位置する血族だ。


 父親は朝から晩まで身を粉にして働いて、その稼ぎで辛うじて餓死をまぬがれている状態である。


 とてものこと、家庭を顧みている余裕などない。


 その切り盛りは、母親一手にまかされていた。


 ところがその宰領役が消えたのである。


 空白を空白のまま放置すれば、たちどころに機構全体が崩壊しよう。


 前述した理由から、父親はとても当てにできない。


 結句、白羽の矢を立てられたのが、


 ――長女


 だったわけである。かつて母が負担していた重責は、そっくりそのまま彼女の背中に横すべりした。


 十代に背負いきれる重さではない。


 ごく順当に、彼女は潰れた。潰れた果ての凶行である。計画の段階では、弟妹どもを始末したあと自分も同じ水に入って死ぬる心算であったという。

 

 

 


 が、こればかりは計画だけに止まった。「ひとり残される父親のことを考えると、不憫でならず」とのちの調べで供述したが、真意かどうかはわからない。心中する気まんまんだった若者が、いざ相手の死骸を目の当たりにするに及んで急に心の梁が折れ、泡を食って逃げ出すのはごくありふれた現象だ。

 

 ――やがて長女がお縄となって。


 事態の把握と裁決のため、この一家の親類縁者が呼び出され、証言を求められたとき。誰も彼もが詳しいことを語る以前に、まず悲嘆の涙に袖を濡らした。


 それを見て、長女の瞳に憤怒が浮いた。


 赤い口をかっと開け、


「なんのつもりだ、今更になってなんの嘆きだ」


 雷鳴の如く叫んだという。


「あんたらのところへ出掛けていって、お願いどうか助けてください、一家を救って下さいと、両手を合わせて頼んだ私ら姉弟に、あんたらは何をしてくれた。何も、何も、何一つ、してくれやしなかったじゃあないか。この期に及んでふざけるない、なんのための涙だ、そりゃあ――」


 一同、顔色を変えたのは言うまでもない。


 長女の言い分はもっともだった。


 畜生なら畜生らしく、どこまでも義理人情を知らずに通せばよかろうに、ちょっと足下がグラつくと途端に人間の皮を被りだすから嫌われる。


 所詮、一撃されれば手もなく剥げる、付け焼き刃に過ぎまいに。

 

 

(『江戸府内 絵本風俗往来』より、子供の遊び)

 


 以上の話は昭和七年、野添敦義『女性と犯罪』に実例として記載されていたものだ。


 この長女が最終的にどんな刑に服したか、遺憾ながら野添の筆はその部分まで及んでいない。

 

 

 

 

 


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アンダマンの原始缶詰

 

 またぞろ例の「竹博士」が喜びそうな話を聴いた。

 

 そこは遥かなインド洋、ベンガル湾南東部。インド亜大陸本土から隔つること実に1300㎞東の彼方。翠玉を溶き流しでもしたかのように澄んだ海に囲まれて、アンダマン諸島は存在している。


「世界で最も孤立した地域の一つ」――。


 そんな呼び名も高い地だ。


 何年か前、例の宣教師殺害事件でいっとき世上を騒然とさせた北センチネル島なども、このアンダマン諸島を構成する一島であり、上の評価が決して看板倒れでないと如実に示すものだろう。

 

 

North Sentinel Island

Wikipediaより、北センチネル島

 


 さて、そんな世界の果てのような地で。


 原住民らがその身体を保つため、口にしていた食物とはいったい何か。


 昭和十年ごろの調査によると、それは主に魚類・貝類・海亀・豚肉・鳥肉・野猫・幼虫・果実・根菜・蜂蜜・大蜥蜴に至るまで――存外にレパートリーは豊かであった。


 調理技術も馬鹿にできないものがあり、ただ調理するばかりではなく、出来上がった料理の保存方法にさえ、彼らは少なからぬ工夫があった。


 その詳細なやり方とは――話がここに及ぶに至り、いよいよ竹の出番となるのだ。

 


 竹を約一尺或は一尺二三寸位の長さに切り、それを長い間火の上で熱して水分を抜きとってしまひ、その中へ、燻すか水を加へて煮た豚や海亀、或は鳥の肉を詰め、更にとろ火で長い間あてゝ置くのである。かくしてその竹の口を葉や粘土で密閉して一種の缶詰を作り、食ふ時には栓をはづして気長にそのまゝ火に当てるのである。(昭和十八年、三森定男著『印度未開民族』87頁)

 

 

(アンダマンの先住民族

 


 竹の殺菌・抗菌作用は言わずもがなだ。「竹林の死骸は腐敗しない」と真実込めて語られるほど、古来より知れ渡ったものである。わが日本の時代劇でも握り飯を包むのは、大抵竹の皮ではないか。「竹博士」竹内叔雄もその随筆集『竹の本』に書いている、

 


 竹はまた、生えてゐる辺りの空気をもつくる。竹の生えてゐる辺りの空気は飽くまで静寂で、人の心を惹きつけるものである。しとやかなその空気は、竹ならでは味ひ得られぬ世界であり、いつの世にも容れられて変ることはない。

 


 と――。いや、これはちょっと趣旨が違うか?

 

 

 


 まあ、なんにせよ。それやこれやを鑑みるに、なるほどアンダマン人のこの慣習も、物の道理によく適っているようだ。


 ついでながら彼らが食材を煮炊きするのに用いた道具は、専ら原始的な土器であったが、海亀の甲羅を逆さにして使う手合いも少なからず居たらしい。

 

 

 


 なんとも野性的な味わいである。

 

 

 

 

 


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濠洲小話 ―ファースト・フリート―


 見方によってはアメリカ独立戦争こそが、オーストラリアの産婆役であったと言える。

 

 

Battle of Lexington, 1775

Wikipediaより、レキシントンの戦い)

 


 一七七五年四月十九日、開戦の号砲が鳴る以前。イギリスからは毎年およそ千人前後の囚人が、北米大陸に送り込まれる「流れ」があった。


 一世紀以上の長きに亘り、保たれてきた「流れ」である。


 受け取り先は各地の地主。用途については、敢えて語るまでもなかろう。


 ところが戦争がすべてを変えた。


 砲火の前に、あらゆる伝統は屈服せずにはいられない。無用なものは片っ端から毀たれて、新秩序建設の礎となる。流刑植民地の役割を、アメリカはもう担ってくれなくなったのだ。


 さても迷惑なことだった。

 

 

Declaration of Independence (1819), by John Trumbull

Wikipediaより、アメリカ独立宣言)

 


 販路が断たれたことにより、英国内ではしぜん「在庫」のダブつきが起こる。


 獄舎はどこも満員御礼、地上のみならずテムズ川に牢獄船など拵えて、どうにか帳尻を合わせようともしてみたが、所詮小手先の弥縫策、焼け石に水の域を出ぬ。


 必要なのは新たな捌け口、それもかつての北アメリカに比肩する、極めて大きな捌け口なのだ。


 そこでオセアニアが浮上する。


 ジェームズ・クックの英雄的な探検により、大洋州が英国領であることは既に確定済みである。

 

 

ジェームズ・クックの探検)

 


 が、確定させたはいいものの、以降というもの英国は、この宏大な面積をただ所有しているだけであり、開発らしい開発を何ら行ってこなかった。


 しかし今こそ最初の鍬を打ち下ろすべきときである。


 アーサー・フィリップ海軍士官を筆頭に、ファースト・フリートが編成された。


 二隻の軍艦、三隻の貯蔵船、六隻の囚人輸送船。都合十一隻の船団である。一行がポーツマスの港を離れ、南航の途に就いたのは、実に一七八七年五月十三日のこと。


 出航に際して、フィリップは入念に準備を整えた。

 

 積荷目録を一瞥すれば、この人物の抜かりのなさがよくわかる。


 二箇年分の食料、衣類をはじめとし。


 建築器具、農具の類も怠らず。


 ガラスや鏡、南京玉まで積んだのは、そのきらびやかな見た目によって原住民をたぶらかせると計算したがゆえであり。


 かてて加えてその上に、マレー諸島に勢力を張るオランダ相手との折衝をも予見して、相当量の蘭貨さえ。


 いっそ小面憎くなるほどに、隙のない手配りといっていい。


 イギリス人が戦争に強いわけである。


 平野耕太の『ドリフターズ』で織田信長も言っている、

 


合戦そのものはそれまで積んだ・・・事の帰結よ
合戦に至るまで・・・・何をするか・・・・・が俺は戦だと思っとる
ひでよし以外 本質は誰も理解せんかったがな

 


 と――。

 

 

Arthur Phillip - Project Gutenberg eText 12992

Wikipediaより、アーサー・フィリップ)

 


 ファースト・フリートは一七八八年一月二十六日を以って現在のシドニー湾に到達し、錨を下ろした。


 八ヶ月の航海で、ただの一隻も欠くことはなく、乗員の損耗率はせいぜい三パーセント強。


 当時の常識からいって、これは稀有な成功だった。


 積みに積んだ甲斐があったということか。

 

 

 

 

 


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ユートピアの支え


 二十世紀初頭、排外的民族主義の骨頂はオーストラリアに見出せた。


 白濠主義をいっている。

 

 有色人種を叩き出し、かつ侵入を防遏し、彼の地を以って白人の楽土たらしめること。この至上命題を達成すべく、どれほどの知恵が絞られたのか。それについては以前一通り触れたところであるゆえに、敢えてここに繰り返さない。

 

 

(オーストラリア、メルボルン市街)

 


 ただ、新たな事実として、一九〇二年の連邦議会で、


「白濠主義は外国の安価労働の侵入に対する保護政策である。従って好ましからざる外人労働者の生産品を輸入することもまた、その人の移住とともに排斥すべきものである」


 このような発言があったことを書き添えておく。


 発言者はルフレッド・ディーキン保護貿易党の領袖であり、翌年首相になる男。


 関税法をめぐっての、審議の最中の出来事だった。


 頂点からしこう・・ならば、下情がどんな様相か、ほぼほぼ察しがつくだろう。


 だからこういう光景が成立する。

 


 日本国旗を翻す堂々たる郵船会社の船も、一旦濠洲の法律が行はれる地域に錨を投じては、有色人の労働を拒否する厳重な労働法に拘束せられねばならぬ。船員が荷物の上げ卸しに手を貸しても忽ち警吏の眼は光って労働法違反の鉄槌を下して来る。ウインチを巻くもの、荷を運ぶものすべて白人労働者である。しかもかれ等の不敏活さ実に一驚を喫するやうな状態であったが、敏捷は濠洲労働者の敵である。働き過ぎては為すべき職がなくなると、甲板に佇んでゐた濠洲通の一人がささやいた。濠洲は白人労働者のユートピアであるとは、予て聞き及んではゐたが、先づその模範的荷役振りを目撃して、成程とうなづいた次第である。

 

 

Portrait of Alfred Deakin seated at his desk

Wikipediaより、アルフレッド・ディーキン)

 


 昭和初期、学術研究目的でオーストラリアに渡った邦人、大島正満旅行記である。


 そりゃあ確かに、仕事は手の抜き方を心得てこそ一人前とよく言われるが、それにしても、これはまあ。


 こうなってくると鉄道軌間が各地でバラバラになっているのも、あるいは態とかと勘繰りたくなる。


 例えばニューサウスウェールズ州の線路の幅は一四三五ミリであるというのに、お隣のヴィクトリア州では一六〇〇ミリが敷かれているといった具合いに、規格が統一されてない。


 だから列車が州境の駅に達すると、貨物や乗客やらを乗せ換えるためいちいちてんてこ舞いになる。


 一見すると無駄な手間、非効率の極みだが、手間がかかるということは、それを処理する人の手が、一定数欠かせないということで。


 雇用の確保、「白人労働者のユートピア」、白濠主義を維持する上で多少の貢献があったのではなかろうか――。そんな愚考が、ふと浮かぶのだ。

 

 

(濠洲、ブルーマウンテンに敷かれた鉄路

 


 実際問題、わが国でも平賀源内アスベストを発見し、これを素材に今で云う防火シートを拵えて、「火浣布」と名付け、幕府に売り込みをかけた際にも、


 ――火事がなくなることは嬉しいが、そうなると多くの火消しや大工、左官の連中が失職する。


 との理由から、すげなく却下されている。


 こういう思慮のめぐらせ方をする奴は、古今東西どこにでも、一定数存在するのでなかろうか。

 

 

 

 

 


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