見方によってはアメリカ独立戦争こそが、オーストラリアの産婆役であったと言える。
一七七五年四月十九日、開戦の号砲が鳴る以前。イギリスからは毎年およそ千人前後の囚人が、北米大陸に送り込まれる「流れ」があった。
一世紀以上の長きに亘り、保たれてきた「流れ」である。
受け取り先は各地の地主。用途については、敢えて語るまでもなかろう。
ところが戦争がすべてを変えた。
砲火の前に、あらゆる伝統は屈服せずにはいられない。無用なものは片っ端から毀たれて、新秩序建設の礎となる。流刑植民地の役割を、アメリカはもう担ってくれなくなったのだ。
さても迷惑なことだった。
販路が断たれたことにより、英国内ではしぜん「在庫」のダブつきが起こる。
獄舎はどこも満員御礼、地上のみならずテムズ川に牢獄船など拵えて、どうにか帳尻を合わせようともしてみたが、所詮小手先の弥縫策、焼け石に水の域を出ぬ。
必要なのは新たな捌け口、それもかつての北アメリカに比肩する、極めて大きな捌け口なのだ。
そこでオセアニアが浮上する。
ジェームズ・クックの英雄的な探検により、大洋州が英国領であることは既に確定済みである。
(ジェームズ・クックの探検)
が、確定させたはいいものの、以降というもの英国は、この宏大な面積をただ所有しているだけであり、開発らしい開発を何ら行ってこなかった。
しかし今こそ最初の鍬を打ち下ろすべき
アーサー・フィリップ海軍士官を筆頭に、ファースト・フリートが編成された。
二隻の軍艦、三隻の貯蔵船、六隻の囚人輸送船。都合十一隻の船団である。一行がポーツマスの港を離れ、南航の途に就いたのは、実に一七八七年五月十三日のこと。
出航に際して、フィリップは入念に準備を整えた。
積荷目録を一瞥すれば、この人物の抜かりのなさがよくわかる。
二箇年分の食料、衣類をはじめとし。
建築器具、農具の類も怠らず。
ガラスや鏡、南京玉まで積んだのは、そのきらびやかな見た目によって原住民をたぶらかせると計算したがゆえであり。
かてて加えてその上に、マレー諸島に勢力を張るオランダ相手との折衝をも予見して、相当量の蘭貨さえ。
いっそ小面憎くなるほどに、隙のない手配りといっていい。
イギリス人が戦争に強いわけである。
合戦そのものはそれまで
合戦に
と――。
(Wikipediaより、アーサー・フィリップ)
ファースト・フリートは一七八八年一月二十六日を以って現在のシドニー湾に到達し、錨を下ろした。
八ヶ月の航海で、ただの一隻も欠くことはなく、乗員の損耗率はせいぜい三パーセント強。
当時の常識からいって、これは稀有な成功だった。
積みに積んだ甲斐があったということか。
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