憎悪は続く。
怨みは消えない。
復讐は永久に快事であろう。
幕末維新の騒擾がどういう性質のものだったかは、東征の軍旅が関ヶ原を通過した際、薩摩藩士の発揮したはしゃぎっぷりによくわかる。
「いよいよ二百余年前の仇討ができる」と喜び勇み、一行の中でも河島醇に至っては、ご照覧あれとその場で大きく四股を踏み、先祖の霊を地面の下から呼び起こし、文字通り雀踊りしたほどである。
(Wikipediaより、河島醇)
ことほど左様に、明治維新は関ヶ原の敗者にとって、三百年来待ち望んだお礼参りの好機であった。
秋田藩はなにゆえに、奥羽越列藩同盟からいち早くおさらばしたのであるか?
決まっている。問うだに愚かというものだ。藩主佐竹の一族は、西軍加担の罪により、水戸五十四万石の封土から秋田二十万石へ、強制的に移し替えられた家だからである。
一挙に半分以下への減封を喰った、そういう過去がある以上、徳川に好意を抱けるわけがない。
勢衰えれば旗を返して当然だった。
これはこれで、武家のならいというものだろう。
(秋田・土崎港の景色)
有名な話だが、ここには三成の血筋が残る。
石田三成の次男重成。関ヶ原の敗北後、逃げに逃げたり遠くこんな北の果てまで落ち延びてきたこの遺児を、津軽侯は丁重に迎え入れたとか。
杉山源吾と改名させて、一説には侍大将に取り立てる厚遇さえも与えたという。だから城内に稲荷神社を建てたいという請願も、二つ返事で許してやった。
ところがこの社には秘密があった。明治維新なりてのち、漸く明かされた重大な秘密が。
徳川幕府の役人が城内を調べに来てありゃ何ぢゃとただすと、あの通りのものでござりますと答へた。
ところが実際は、あの通りではなかった。お稲荷さんの尻っ尾の後に、太閤さんの像がひそめてあった。幕府の役人ばかりではなく、その後、代々の殿様にもその真相は伝はらなかった。風土記子が封切りするならば、それは石田の残党が旧君の恩義を忘れぬための拝殿であったのだ。
東京日日新聞の記者、日高利市がそのコラム欄、『経済風土記』に物した文だ。
人間の意志はおそろしい。時の流れの彫琢に、斯くも鮮烈に抗ってのける。
もっとも日高の記事には続きがあって、
しかし杉山家一生の不覚は、三成の兜を担保にして金を借りたことである。青森県一の金持佐々木嘉太郎から融通してもらった少しばかりの金を、三万円出さねば、兜は返されぬと、嘉太郎からひぢ鉄食って、目下引き続き訴訟裁判継続中、三成もあの世でシャッポを脱いでゐやう。
こんな具合の、世知辛いオチがついてはいるが。
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