穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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黄金週間戦利品 ―掘り出し物はいいものだ―


 久々に身の裡に慄えが走った。


 まずはこれを見て欲しい。

 

 

 


 昭和十一年刊行、『刀談片々』見返しに記されていた墨痕だ。

 


謹呈
 自著
  本阿弥光遜(花押)

 


 と読める。


 日本刀で本阿弥といえば、少しその道を齧った者ならすぐにピンと来るだろう。


 室町から続く研師の一族、武士の魂の切れ味を、極限まで発揮せしむる技術の持ち手。


 鑑定もまたその生業に含まれて、含まれるどころの騒ぎではなく、明治維新前までは本阿弥家のみが鑑定書――折紙と称する――発行の独占権を所有していた。もの・・に依っては折紙自体にたいへんな値が付けられる。権威、推して知るべしである。


 そういう男の署名入り著書――。

 

 

(本阿弥光遜)

 


 ありがたい。


 こんな掘り出し物にぶち当たれるとは。


 連休の混雑を押してまで古書探訪に出向いた甲斐があったというものである。


 心して読ませてもらうとしよう。


 嗚呼、結局のところゴールデンウィークだろうがなんだろうが私の余暇の使い方は変わらない、活字に埋もれて過ごすことになりそうだ。

 

 

 

 

 


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北アルプス VS 南アルプス


 南アルプスは欠点だらけだ――。


 そんな誹謗中傷に、思いもかけず遭ってしまった。


 甲州人として悲しまずにはいられない。


 往昔の日本山岳会に、小暮理太郎という人がいた。


 群馬の生んだ偉大な登山家、齢六つで赤城山を征して以来、山の魅力に憑かれた男。


 地図にない路、どころではない。そもそも地図の存在しない未踏の山に次々挑み、これを征服、本邦登山史の発展に大きく寄与した功労者。


 そういう彼が物した文に北アルプス南アルプスを比較論及したものがあり、その内容がまた随分と北アルプス贔屓というか、南アルプスの不遇っぷりを強調してくれていて、白峰三山を仰いで育ったこの私の精神を、いたくヘコませてくれたのである。

 

 

 


 まず、南アルプスには雪が少ない。


 冬季日本に雪を降らすは北西からの季節風である以上、これは仕方のないことだ。


 水蒸気は太平洋側まで届かずに、乾いた風がただ吹きすさぶ。


 だから所詮、「雪量においては、夏冬を通じて南アルプス北アルプスの敵ではない」

 


 かく残雪の少いことは、また山の上に池や水の流れる小溝などの少い基となってゐる。火口湖や火口原湖は別としても、北アルプスでは五色ヶ原や雪ノ平に散在する無数の小池、五郎ノ池、双六ノ池、薬師ノ池といふやうに、到るところの窪地に清澄な水が溢れて、登山者の渇を癒し目を楽しませる。南アルプスの山上を旅する多くの人が、何か心の隅に満たされない欠陥があるのを覚えるのは、二三の池はあっても水は汚く、小溝はあっても水の流れた跡のみであることなどが、重要な原因となってゐるやうに思はれる。

 

 

Mt.Senjogatake from Mt.Kitadake 03

Wikipediaより、南アルプス仙丈ヶ岳

 


 ひでえ。


 あんまりな言い草じゃござんせんか。


 南アルプスの天然水を侮るな、現在日本で流通しているミネラルウォーター、その四割は山梨県産なんだぞと、つい無用に胸を反らしたくもなる。


 だが、こんなのは序の口だ。残雪の少なさが景観に与える悪影響、特にカールの眺望を如何に致命的に損なうか、小暮は淡々と論じ抜く。

 


 氷河の遺跡といはれてゐるカールは、北アルプスでは中に多量の万年雪を蔵して、長い雪渓がそれから流れ出したやうに続いてゐる。これが山の肩あたりに三つ乃至四つも駢んで懸ってゐる壮観は、北アルプスならでは見られぬ特色である。日本における高山性地貌の粋は、雪に埋もれたカールにありといふも或は過言ではないであらう。南アルプスでは今のところ仙丈岳に二個、悪澤奥西高地二山の間の山稜に極めて小規模のもの二個、合せて四個を有するのみで、全山系を挙げて北アルプスの一座の立山にさへ及ばないのである。しかも盛夏に至れば、その中には既に雪の片影をも認められない。このカールの少ないことは残雪の少ないことともに、南アルプスにとっては償ひ難き弱点であって、何としても遺憾の極みである。

 

 

Shirouma dai sekkei from Mount Shakushi

Wikipediaより、白馬大雪渓

 


 おうふ。


 この断定ときたらどうだろう。


 顎に一発、いいのを喰らってマットに沈むボクサーの気分になってくる。


 しかし小暮は執拗だった。


 グロッキーの私に向かい最後のとどめを下すべく、その鋭利な筆鋒を、遠慮会釈なく振り下ろしている。

 


 火山に乏しい南アルプスは山の湯にもまた恵まれてゐない。小渋、梅ヶ島、西山など二三の湯泉と称するものはあるが、温泉らしい温泉といへば西山のみである。北アルプスの登山者が思ひも寄らぬ谷川のほとりなどに滾々と湧き出してゐる温泉を発見して、そこに石で囲んだ浴槽を造り、感触のいゝゆくもりに皮膚を撫でられながら、終日の汗を流すやうな快さは、南アルプスでは決して味わへない。

 

 

烏帽子岳の残雪)

 


 むごい。


 まったくなんということだ。


 これではまるで「いいとこなし」の見本じゃないか。


 故郷のため、歯噛みせずにはいられない。


 だが、この不遇、この恵まれざる自然環境であってこそ。


 南アルプスはそう易々と観光地化せず、従って俗界の空気が入り込むこと稀薄であって、山本来の静けさと、幽寂の気を長く保ったと言い得よう。

 

 

農鳥岳より、間ノ岳北岳を望む)

 


 なお、少しばかり私事を語らせていただくと――。


 いつまでも仰ぎ見ているばかりではなく。いつか私のこの足下に、北岳三一九三メートルの頂を踏んでみたいとは年来の宿志であるけれど。目下の最高到達地点は一六〇一メートル、丹沢山塊檜洞丸。それにしたって息も絶え絶え、半死半生の苦しみを味わいながら漸く達成したものだ。

 

 

 


 道は遠い。


 先に寿命を迎える破目にならなければよいのだが。

 

 

 

 

 


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去勢夜話 ―第二天使ケルビムの聲―


 藿香。


 鶏卵の黄身ふたつぶん。


 生クリーム一合五勺。


 それから砂糖を小さじ半。


 これらは牛肉のスープと合わせることでジェニーリンド・ドリンクと呼ばれ、十九世紀の声楽家らが喉の調子を保つため、愛飲していたものである。


 最初にレシピを確立したのはスウェーデンのオペラ歌手、「グレイテスト」ジェニー・リンド。

 

 

Jenny Lind retouched

Wikipediaより、1850年のジェニー・リンド)

 


 発明者の名が、そのままレシピの名前となった。


 むろん、美味い代物ではない。


 が、声楽家の聲にかける執念は狂気だ。


 瑞々しく張りのある旋律を保つためなら睾丸さえも潰してのける、そういう類の集団である。その苦しみに比較くらべれば、たかが味蕾の反撥程度がなんだというのか。常用者は相当数に及んだという。

 


 美容術的な要求から去勢を行ふ場合がある。思春期に起る声変りを防ぐために去勢するなどがそれである。これは音楽師などによって行はれる事であって、中世紀のイタリアで盛んであった。十八世紀の頃ですら法王領に於て毎年二千人以上の少年がこの目的で去勢されたといふ事である。「去勢者の声は天国の第二天使ケルビムの声に似てゐる」と言はれた。そしてローマのあちこちの医者や理髪師の店先には、「ここでは廉価で去勢をいたします」といふ看板が立てられてあったといふ事である。(巴陵宣祐『人類性生活史』170頁)

 

 

(ローマ、アウレリウスの柱附近)

 


 正味な話、こういうことをやらかすのは宦官ぐらいのものとばかり思っていたが、なかなかどうして、意外なところに意外な伏兵が居たものだ。


 壇上にずらりと整列する去勢者の群れ――。


 想像するだにシュール至極な光景だ。ましてやそれが清らげなる衣を纏い、讃美歌を唱ずるとあってはなおのこと。


 なお、ジェニーリンド・ドリンクが本当に喉の調子を保つ上で効果があるものかどうか、科学的実証はなされていない。


 試して、徒労に終わっても、当方では責任を負いかねるゆえ悪しからず。

 

 

 

 

 


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夢路紀行抄 ―プランテーション―

 

 夢を見た。


 久方ぶりの夢である。


 私は農場で働いていた。


 いや、これを農場と呼んでいいのかどうか。


 世話しているのは桃でも葡萄でも小麦でもなく、カマキリの卵なのである。

 

 

Mantis egg 2005 Spring 001

Wikipediaより、オオカマキリの卵鞘)

 


 畝に根を張る、なんだかよくわからない種類の樹木はことごとく、この昆虫に快適な産卵場所を提供するため植えつけられたものだった。畝は幾筋も幾筋も、見渡す限り続いている。総ての卵が孵ったならばいったいどれほどのカマキリが地を這いまわることになるやら、想像するだに怖気の走ることだった。


 むろん、そんな事態は有り得ない。適当な時期を見計らい、孵化する前の卵鞘を「収穫」するのが我々労働者の役目だからだ。薬の原料になると聞いたが――もちろん夢の中でである――なんの薬かはよくわからない。


「どうせ使うのは金持ち連中、俺たちには無縁なもんさ」


 と、同僚の態度は素っ気ない。


 暗に興味を持つなと言われた気がした。


 その他にも入荷された大量のチーズを肥料棚に移し替えたり、対ネズミ用の罠を仕掛けたりなどしているうちに、業務終了時間となった。

 

 

(飛騨の農民、収穫の秋)

 


 農場の手前のバス停に、ひとりぽつねんと立ち尽くす。


 夕暮なずむ遥かな空へぼんやり視線を送っていると、聞き覚えのあるエンジン音が近づいて来た。


 目的のバスだ。


 腕時計に眼を落とすと、ざっと五分の遅れであった。


 電車のように線路ではなく、公道を走っている以上、どうしたって時間ぴったりとはいかぬ。この程度の遅れで済むなら上出来といっていいだろう。


 が、そんな寛容の心情も、一向にスピードを落とそうとしないバスの姿にたちまち霧散させられた。


(なんということだ)


 運転手にはおれの姿が見えてないのか。


 六尺にも及ばんとする、この立派な図体が――。


 ついにブレーキをかけることなく、車体が目の前を横切ってゆく。


 私は焦った。


 焦りが、脚を動かした。


 息せき切ってバスを追いかけ、車体後部に飛びつくと、広告板や僅かな溝に指をひっかけ体を支え、どうにかこうにか屋根の上まで這い上がる。


 屋根の上には出っ張りがある。


 空調だったりバッテリーだったり、時代や会社でまちまちだが、細かいことは今はいい。


 重要なのはその出っ張りが、寄りかかるのにちょうどよかったことである。寄りかかり、重心を安定しせしめるのに、好適だったことである。

 

 

Izuhakone-Mishima289

Wikipediaより、日本のバス)

 


 やれやれとんだ運動を、と人心地ついたのも束の間のこと。降車すべきバス停が見えても、速度が一向に落ちてくれない。


 当たり前だ、屋根の上に降車ボタンがあるものか。さてどうしよう、このスピードで、まさか飛び降りるわけにもいかないし――と思案するうち目が覚めた。


 花粉症がおさまるにつれ、遠ざけていたアルコールを近頃ふたたび摂取しだした。


 あるいはそれが、このカオスを現出せしめたもとだね・・・・だったのやもしれぬ。


 なお、起床後に調べたところ、カマキリの卵鞘は現実に、漢方薬の材料として珍重されているそうな。


 人間というのは本当に、ありとあらゆる物事に利用価値を見出さなければ気が済まない生き物らしい。

 

 

 

 

 


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英国紳士とダウジング ―アイルランドに於ける検証―


 イギリス人は検証好きな生物だ。


 産業革命を成就せしめただけあって、原理の解明をこよなく愛す。


 神秘的な何がしかに直面しても、手放しに感動したりせず、疑惑のまなざしを先行せしめ、それが本当に理解を超えた代物か、納得いくまで試そうとする。


 エマーソンの時代、こういうことがあった。

 


 降霊術が英国で大評判になった時、ある英人は百ポンドを密封して、ダブリン銀行に預金し、次に、誰でも彼の手形の番号を云ひ当てた者にその金を贈ると、夢中遊行者、催眠術家、その他に対し新聞広告をした。(『英国印象記』)

 


 挑戦状を叩きつけたといっていい。

 

 

The old Royal Mint building - geograph.org.uk - 735466

Wikipediaより、王立造幣局旧庁舎)

 


 諸君らが本当に幽冥界と交信し、地上一切のことどもを見透す力を持つのなら、よろしい、この程度あくびまじりに当ててみせよと啖呵を切った。


 結果は全滅。およそ半年、彼は預金をそのままにして、ちょくちょく新聞紙面を通し「熟達者ども」への挑発行為を繰り返したが、ついにただの一人とて、番号を言い当てることは叶わなかった。


 そこで彼は得々として頷いたという、「余は最早この実證された虚偽のために心を煩はさない」と――。


 たまらぬ紳士ぶりだった。

 

 

 


 エマーソン去りて数十年後、今度はダウジングがブームとなった。


 棒や振り子を持ち歩き、その動きにより地底に隠れた水脈、鉱石――重要物資を探知する。この技能の使い手をもてはやすこと、特にフランスに於いて甚だしく。欧州大戦以前には、名うての見水家ダウナーを駆り集め、サハラ砂漠に送り込み、水を発見、緑化に資する一大ブランが政府によってぶち上げられたほどである。


 この潮流に、英国もまた局外ではいられなく。


 ダウジングの真価を見究めんと、多くが調査に乗り出した。


 真理を目指す探求者。わけても当該分野に限っては、ウィリアム・フレッチャー・バレット卿が有名だ。

 

 

William f barrett

Wikipediaより、ウィリアム・フレッチャー・バレット)

 


 心霊現象研究協会――SPRの創立に、深く関係した男。彼は実験場として、アイルランド――ただでさえ痩せ枯れたあの島の、しかも最も荒涼とした山岳地帯の傾斜面を指定した。


 植生の乏しさは、日本の山とは比較にならない。


 地上物から地下の様子を探るのは、極めて困難――限りなく不可能に近かろう。


 だからこそこの地が選ばれたのだ。


 招聘された見水家は、イングランドを拠点として活動中のストーン氏。榛の木を――二股に分かれたその枝のみを頼りとし、隈なく四辺あたりを調査する。

 

 

18th century dowser

Wikipediaより、木の棒によるダウジング

 


 暫くして、結論が出た。


「二箇所ある」


 具体的にどこそこと、細かな位置を指し示し、


「この二箇所の、深さ二十フィート内外に、豊富な水が潜んでいよう」


 わかりきった数学の公理を解説する講師のような、平坦そのものな口調で以って。


 つまりは些かの不安もなしに、断言してのけたのである。


 ばかりではない。


 ストーン氏は更に一ヶ所を拾い上げ、


「ここは何フィート掘ったところで、絶対に水が出ることはない」


 そんなおまけまで持たせるという、サービス精神を発揮した。

 

 

アイルランドの山岳風景)

 


 ほざいたるかな大言壮語、それでは早速掘削して実証を――とは、サー・バレット、焦らない。


 彼の重心はもっと安定したものだった。


 ストーン氏を労い、見送った後、更に別の見水家を現地入りさせ、同じ実験に当たらせている。


 むろん彼には、ストーン氏の調査結果は一言たりとも明かさない。


 この地で水を探すのは自分こそが第一号と、そのように信じ込ませておいた。小細工ではない。対照実験を行う上で、ごく当然の配慮であった。


 が、報告を受ける段ともなると、さしものサー・バレットも、顔面の筋肉が痙攣するのを抑えるのに苦労した。


 ぴたりと一致したからである。


 この二番目の見水家も、ストーン氏が指定したのと全く同じポイントに「水がある」と述べたのだ。


 流石に何フィート下かまで明言してはくれなかったが、それでも十分、驚異的な結果と言えよう。


 事ここに至り、サー・バレットは漸くのこと「答え合わせ」に踏み出した。


 穿孔機器が運び込まれて、ガリガリと忙しく稼働する。


 出た。


 二箇所だ。


 一つ目は深さ十六フィートで、


 二つ目は深さ十八フィートで、


 それぞれ豊かな水源に逢着してのけたのである。


 こうなると「絶対に出ない」と断言された三番目にも、穴を開けずにはいられない。


 費用と労力に糸目をつけず、一週間ほど彫り続けたが結果はスカ。ストーン氏の見解は何から何まで的中したと、これで証明されたのである。

 

 

 


 空恐ろしくなるほどの精度であった。


 が、この結果を前にして、それでもウィリアム・バレットは英国人たるを失わなかった。


 確かに驚きはした、感銘も受けた。


 それでもしかし、忘我の境には至らない。


 神秘への陶酔を撥ね退けて。あくまでも理性によって研ぎ澄まされた、鋭利至極な観察眼を向けている。

 


 見水家には吾々が普通概括的に直覚と称する一種の非凡な知覚力が働いて居るものであらう。此の非凡な知覚力は例へば遠くに棄てられた猫や鳩などが不思議にも帰家する場合の能力と同一であるらしく考へられるが、兎に角見水家の水に対する知覚力は意識を動かすまでには強大ではなく、唯だ僅かに一種の神経的の刺戟を起すのに充分強いのみであらう。其の刺激は吾れ識らず見水家の筋肉を動かして手に持った榛の枝を其の結果下に向けるものと思はれる。(大正十三年、赤澤義人『新しい発明及発見』83~84頁)

 

 

Allemanswiro

Wikipediaより、ダウジングロッド)

 


 実験結果をとりまとめ、やがて披露したこの見解は、ダウジング現象の解説として今日でもなお遺憾なく通用するほど精度の高いものだった。


 英国的だ。


 うまく言葉にできないが、とにかく英国的と書いておくより仕方ない、濃密な「何か」がここにある。

 

 

 

 

 


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夢と現の境界 ―第十五號患者の記録―

 

 お見舞いとして贈られた汁気たっぷりなフルーツを、


「それは銅で出来ている!」


 と、顔じゅうを口にして絶叫し、一指も触れずに突っ返す。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20220417170201j:plain

(たわわに実った甲州葡萄)

 


 曲がり角に突き当るたび、その蔭に、ドリルを構えて待ち伏せしている医者の姿を幻視して、俺の頭蓋に孔を開けるつもりなのだと恐怖する。


 誰もいない虚空の上に銀行家や仲買人の姿を描き、本人以外の誰にも見えぬ彼らに向けて熱っぽく、一般庶民の年収を遥かに超える大取引を持ちかける。


 腹の中に宝石が詰まっているからと、それを失うのが惜しいと言って便所に行くのを拒絶する。


 以上に掲げたことどもは、総てひとりの人間により演ぜられた狂態だ。


 フランス・パリはブランシュ博士の精神病院、そこに収容されていた、第十五號患者の記録。ギィ・ド・モーパッサン――それが番号で管理されるより前の、彼の本当の名前であった。

 

 

Maupassant par Nadar

Wikipediaより、モーパッサン

 


 偉大な知性が壊れてゆく過程ほど、見るに忍びないものはない。


 短編小説の巨匠として世を風靡したモーパッサンが、いったい何という有り様だろう。


 彼の正気を破壊したのは梅毒だったと、今日ではほぼほぼ確定している。


「文明化とは梅毒化することである」――こんな言葉さえ編まれるほど深刻に、どうしようもなく広範に、社会を毒した感染症


 その被害者リストには軍の大将の名前もあれば、隠れもなき文豪も含まれていたと、つまりはそういうわけなのだ。


 脳神経が蝕まれるのは第四期――病膏肓に入りきった、末期症状に位置付けられる。


 それより以前、第二期と第三期の中間あたりを彷徨っていたころ。目のかすみや片頭痛を抑えるために、エーテルクロロホルムを吸引したり、マリファナ、アヘン、コカインあたりに手を出したのも、結果としてはまずかった。

 

 

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(『ゴーストリコン ワイルドランズ』より)

 


 モーパッサンの主観に於いて現実と妄想の境界線は次第に曖昧模糊となり。一八八六年、英国旅行を試みた際にはもう既に、急に笑い出したかと思えばまただしぬけにこの世の終わりが来たみたいに沈み込む、重度の躁鬱状態に陥っていたそうである。


「私は長生しようとは思わない。流星のように文壇に入った私は、今度は電撃のように去るのだ!」


 友人たちに宣言したとき、果たして彼はどちらの極にあったのか。


 そして運命のときが来る。


 一八九二年一月一日、新たな年の始まりを、モーパッサン自殺未遂の鮮血により彩った。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20220417170543j:plain

 


 カミソリで喉を裂いて死のうとしたが浅手に止まり、死にきれず、ならばとばかりにピストルで頭を撃とうとしたが、引き金を引いてもこはいかに、一向に弾が出てこない。


 実は以前、被害妄想に駆られたモーパッサンが窓の外の見えない敵へと乱発したためしから、危惧を抱いた執事によって予め、全弾頭を抜き去られていたのである。


 失意と出血が、やがてモーパッサンを昏睡させた。


 次に彼が目を開けたのは、一月二日の夜である。覚醒するなりモーパッサンは、


「戦争に行くから仕度をしろ」


 と執事に向かって言いつけた。


 青年時代、普仏戦争に召集されて敗軍の憂き目を舐めさせられてからというもの、戦争自体を強烈に憎んだはずの人格が、どういうわけか真逆になった。

 

 

Lignedefeu16August

Wikipediaより、普仏戦争

 


 執事が命令を拒否すると、モーパッサンは怒り狂い、ついに人間の態をなさぬまでに昂った。


 もはや手の施しようがないことは、誰の眼にも明らかである。事ここに至っては万やむを得ない。翌日三日、ブランシュ博士のところから看護人がやって来て、入院のための準備を始めた。


 そして彼は分厚い塀の中へ行き、そこが終の棲家となった。


 残骸のようなモーパッサンの身体からその魂が離脱したのは、一八九三年七月六日、午後三時のことである。


 享年、四十二歳に過ぎなかった。


 入院中に彼が示した狂態はまだまだあるが、これ以上の詳述は、どうも私の精神の方が持ちそうにない。


 病的なものへの過度の興味はそれ自体が病的である。心せよ、亡霊を装いて戯れなば、汝亡霊となるべし。


 ここらあたりで止めておくのが賢明か。


 息をひきとる数時間前、モーパッサン「闇だ、おお闇だ!」と繰り返すのを、看護人らが目撃している。

 

 

 

 

 

 

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ダンボール以前 ―流通小話―


 四十五億五千万ボードフィート。


 我々にとって身近な単位に置き換えるなら、一〇七三万六八〇四立方メートル。


 学校に併設されている二十五メートルプールの規模は、およそ四二〇立方メートルが一般的と聞き及ぶ。するとこれを収容するには、ざっと二万五千個以上のスクールプールが要るわけだ。


 それだけの量の木材が、ただ商品を梱包し、輸送の便を図るためにのみ消費つかわれた。

 

 一九一八年、中米諸国一帯に於ける統計である。

 

 

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(メキシコ、ヴェラクルス港の関税)

 


 これに比すれば、家具の製作に充てた木材など五分の一、造船用に至っては二十五分の一に過ぎない。


 何百、否、何千年の歳月をかけ繁茂した、彼の地の豊かな原生林は、主に木箱になるために、次々斧を加えられたわけである。


 にも拘らず、と言っていいのか。


 この夥しい木箱の山は、必ずしも中身の品を防護しきれはしなかった。輸送中に破損事故を起こすこと、また頗る膨大で、ある年など一億五百万ドルもの請求が、賠償金の名目で鉄道会社に叩きつけられたほどである。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20220414171407j:plain

 


 中米諸国一帯だけでこのザマだ。


 規模を全世界まで拡大すれば、いったいどれほどの額に及ぶか。とても想像しきれない。


 現にこういう報告がある。第一次世界大戦中、米陸軍では被服類を輸送するのに破損が多く、現地から苦情が殺到したため、急ぎ慌てて包装に改良を施した。ただそれだけで、従来の運賃から一気に五千万ドルを節約したと――。

 


 産業の大規模な発達に連れて其の製品の荷造りを掌る包装事業も重要な位置を占め、今や米国などにては多数の工場が荷造り専門の技師を重用して居るのみならず、或る二三の会社の如きは其等技師の研究を便利にするのに研究所を特設して居ると云ふ。(中略)其の荷造り研究所に於ては凡ゆる工夫を凝らして造った箱を高所から落としたり、叩いたりして試験して居る。さうして試験した結果を見ると一本の釘を箱に打つのもなかなか漠然たる仕事ではない。(大正十三年、赤澤義人著『新しい発明及び発見』371~373頁)

 


 ダンボールの開発・普及が流通史上に、如何に革命的な出来事だったか。


 今更ながら実感せずにはいられない。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20220414171542j:plain

(材木の輸送)

 


 大量生産・大量消費の現代社会が出来上がるまで、どれほどの失敗を積み重ね、どれほどの犠牲が払われたのか。


 それを探るのも面白い。この文明がどこへ行くのか、考察の一助にもなるだろう。


 現在は過去の集積であり、その突端である以上、黒が白になるような唐突な変化は、到底望み得ないのだから。

 

 

 

 

 


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