古書蒐集に耽るうち、気付けば私の手元には、少なからぬ慶應義塾出身生の著作物があつまった。
綺羅星の如き人傑たちといっていい。
その想痕に、ざっと目を通しての所感だが。――どうも彼らはいったいに、責任観念が強烈で、「義務」を重んずる傾向がある。
これを学風と呼ぶならば、おそらく開祖、福澤諭吉に端を発する学風だろう。
福澤の薫陶に直に浴した――古めかしい言い回しを敢えてするなら――、古参高弟の一人たる武藤山治の文章に、このような下りが見出せる。
責任を正当に行ひ得るものは、一身にありては他の模範となり、一家にありては平和となり、一国にありては富強文明となる。之を例せば支那人は責任を解せざるもの多し。彼の厖大を以てするも猶列国の侮蔑を免るゝ能はず。朝鮮も亦実に然り。個人責任の直ちに国家と関連すること斯くの如し。
象徴的といっていい。
明治三十四年七月二十五日に印刷された、『鐘紡の汽笛』第一号より引っ張ってきたものである。
このとき未だ支那の国号は「清」であり、朝鮮は併合されていない。
(朝鮮半島、江華山城南門とその附近)
文章は更にこう続く。
泰西諸国の富強なる所以を研究せば、個人責任の大切なりを信ずるに帰着す。我国に於ても、維新以前武士道なるものありて頗る責任を尊重したり。若し彼等にして責任に背く事あらば、其申訳の為に屠腹することを辞せざる習慣なりき。責任なるものゝ死と相伴ふに至りては其大切なることを論ずるを要せず。人或は之を蛮風と云ふ、或は然らん。然れども余は其の心の高潔なるを賞せざるを得ざるなり。
「泰西諸国の富強なる所以を研究せば、個人責任の大切なりを信ずるに帰着す」――。
冒頭に於けるこの見解の裏付けとして、やがて武藤は格好の素材を手に入れる。
第一次世界大戦勃発直後、イギリスで
舞台はロンドン西域の私立学校、イートン・カレッジ。1440年の創立以来、都合二十名もの英国首相を輩出してきた名門中の名門校。男子全寮制を布くこの施設には、1914年8月4日――ドイツに対する宣戦布告のその日まで、ざっと二千名の若人どもが生徒として在籍していた。
ところが開戦の号砲が響き渡るやどうであろう。たちどころに「学生二千名の中、不合格者二百名を除き、一千八百名が募集に応じ」てしまったからたまらない。(『実業読本』)
全体のおよそ九割だ。
九割が従軍を志願して、ドーバー海峡の向こう側へと渡ってしまった。
非現実的なまでの数値である。正直我が眼を疑った。後の校舎の眺めときたら、どんなにか閑散としただろう。――…いや、これは泰平の世の読書人の甘い感傷に過ぎないか。ノブリス・オブリージュの理念に燃える当人たちの心には、入り込む隙間のないものだ。
更に武藤を大感激させたのは、イートン生徒の数多くが「士官となる資格があったにも拘らず、当時兵卒の応募者が少ないといふので、自ら兵卒となって出征」したことである。
脱帽するよりほかにない。
「高貴なる者の義務」というのも、ここまで来ると一種凄絶の相すら帯びる。
(英国野砲大隊。撤退するドイツ軍を追撃中)
彼らの多くが、まったく多くが、1919年まで生きられなかった。
人造地獄、西部戦線。おそらく同時期の地球に於いて最悪の場所。血染めの大地に鋼鉄の暴風四時吹き荒れる、本場の悪魔も尻尾を巻いて逃げ出しかねない惨禍の中で、ノブリス・オブリージュの体現者らは次々物言わぬ肉塊へと変わっていった。
彼らの名前はプレートに刻まれ、イートン・カレッジの廊下の壁で厳かに煌めいていたという。
講演の席で、著述の上で。
以上の話を、武藤山治は繰り返し用いたものだった。
最期を含めて、きっちり語った。その上で青年たちの心意気を激賞した。「独りイートンの学生のみに止まらない。吾国の帝大や、慶應、早稲田とも言ふべき、ケンブリッジ、オックスフォード、その他の大学学生は皆勇んで出征した。また民間に於る銀行、会社の事務員等も、進んで応募した。この一事を以ってしても吾等は自尊心より成る個人主義の国民は、個人としても国家の一員としても、共に尊ぶべき強い利他心及び奉公心を有するものなるを知って、自ら深く省みる必要がある」と。
(武藤山治)
自由の国の個人主義者が、ときに発揮する犠牲心――。
一見矛盾めかしく思われる、斯様な人間風景は、しかしながら小泉信三に言わせれば、べつに不合理でもなんでもない、ごく当たり前のことらしい。彼も彼で、このテーマに関しては、一家言ある人だった。
万一にも国土が不当に侵害された場合、先ずこれを擁護し、防衛するのは、その侵害された国民自身でなければならぬ。それが即ち独立国というものであって、それをなし得ないものは独立国民ではない。(中略)自衛権なき国家というものは、生命なき生物というにも等しい自己矛盾であるから、いかなる憲法の条章も、苟もそれが独立国の憲法である以上は、この根本の本義と衝突しないようにこれを解釈しなければならぬ。それは自明の中にも、自明の道理であって、改めていうことでもないであろう。(『一つの岐路』)
小泉はこれを戦後に書いた。
軍人、軍隊、軍部に対する世間一般のイメージが史上最低の領域にまで墜落し、「平和」「中立」「非武装」の美名が錦の御旗か何かの如く高揚されている時期に、あくまで武備の必要性を訴えた。たとえどれほどの罵詈讒謗が押し寄せようとなお倦まず、決して自説を譲らなかった。
それが自己の責務だと、確信しぬいていたのであろう。
慶応義塾の古参たるに相応しい、凛冽な意気の持ち主だった。
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