竹から繊維を取り出して、それでさまざまな日用品を紡ごうとする試みは、実のところ戦前昭和の段階で既に実行されていた。
背景には、ABCD包囲網がある。
大日本帝国をぐうの音も出ないほどに締め上げた、列強による鉄箍の如き経済封鎖。過度の不足、ストレスは、しかしながら時として思いもかけぬ発想の転換、新機軸の獲得に繋がるらしい。
無いなら無いで仕方ない、そちらはすっぱり諦めて、既存のモノでどうにか代用品が作れないかと模索する。マニラ・インド方面からの麻の輸入が途絶した製麻会社は生き残りを賭け血眼になってこれをやり、そして「竹」に行き着いた。
戦国時代、鉄砲の火縄を編むために採った、刃物で削って揉みほぐしを繰り返す原始的な手法では駄目だ。それでは手間がかかり過ぎ、膨張しきった今日の需要にとてものこと追いつけない。端的に言えば採算が合わない。
そこで彼等が見出したのが、苛性ソーダのような薬品を用いて化学処理して、ローラーにかけて大規模に
今でいうレーヨンの製造方式そのままであり、こうして抽出された化学繊維は加工も容易く、ロープ、網漁具、米袋はもちろんのこと、敷物、鞄、草履表に、果ては京の西陣織に混ぜられたりと、幅広く利用されている。
期待に対する、見事な応えっぷりであったろう。
鉄の代わりに竹を骨組に用いたコンクリート建築――竹筋コンクリートの出現といい、当時に於ける竹素材への注目度はすこぶる高い。
その製法について、竹を主題とした著作を何冊も世に送り出し、文化映画「竹」撮影の指導にも当った、まさに竹の第一人者、竹内叔雄は次のように述べている。
硬化竹筋は、化学的に竹を処理したものだ。割った竹を酸化マグネシウムと塩化マグネシウムとの練捏剤で固めたもので、この液で処理した竹材は、質が鉱物のやうに硬くなって、鉄の六・九割の強度を現すといふ。それのみでなく、防腐はもちろん、耐火、耐水迄兼ね備へた竹材となるので、コンクリート建築の芯に使って、或程度まで鉄の代りをする。(昭和十七年、『竹の本』322~323頁)
この風潮を目の当たりにして
――所詮、貧国の苦し紛れよ。
と痛ましさを覚えるか、それとも
――欠乏に呻吟しながら、よくぞこれだけの創意工夫を絞り出せた。
と当事者たちの底力に感服するか、そこは人それぞれである。
ただ、有名な宮原線橋梁や、大分県の旧米倉庫のように、半世紀以上の時を越え、度重なる地震に揉まれてそれでも尚たたずみ続ける竹筋コンクリート製建造物の数々を見るに、付け焼刃と一概に切り捨てるのはどうも当らぬようである。
竹材は、化学薬品で処理しないものでも、コンクリートで固めて利用すれば数十年の寿命はある。生の竹材を使ふと、コンクリートから遊離するアルカリ性の水液で材は腐るといはれてゐるが、五十年前にコンクリートの門柱の芯に入れた生竹が、取り毀された時、その儘の容で出て来たり、また、池水の増減常ならぬコンクリートの壁でも、優に二十年の寿命を保ったといふ例からみると、化学薬品で処理したものならもっと永い寿命を保つに違ひない。(323頁)
斯く指摘した竹内叔雄は正しかったというわけだ。
竹由来の織物も、またぞろ社会に出回りはじめた。
あの非常時に見出され、戦後半ば意図的に忘れ去られた智慧のうち、再活用されるモノはまだまだ増えるやもしれぬ。その展望に、私の心は言い知れぬ浪漫で満たされる。
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