穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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シュプリューゲンの雪崩決闘 ―岐阜の地震に思うこと―


 真っ白な瀑布が山襞を滑り落ちてゆく――。


 昨日13時13分岐阜県飛騨地方深さ10㎞を震源として発生した地震マグニチュード5.3のエネルギーは隣接する上高地の山体を揺さぶり、数ヶ所に渡って雪が崩れた。


 あの映像を見て、ひとつ思い出したことがある。


 溯ること114年、西暦1906年の春、スイスはシュプリューゲンの峠道で実行された、一つの奇妙な決闘だ。当事者の名前を、仮にジョナタとセストとしよう。彼らはシュプリューゲンの地元民にあらずして、45kmほど南西に位置するベリンゾーナからの旅客であった。

 

 

Castelgrande

 (Wikipediaより、ベリンゾーナ)

 


 イタリアとの国境ほど近く、しぜん風俗・人情混淆し、使用言語の面に於いてもイタリア語が主流を示すこの街で生まれ育った男子二名。幼き日からの付き合いで、至って陽気な友情により結ばれていたはずの両人は、しかし青年期のある時点にて致命的な衝突を遂げる。


 原因は、やはりというかであった。


 下手に長い時間を共に過ごしてきた所為か、彼らは女性の好みまで似通ってしまったものらしい。同時に一人の美女を愛してしまった。となれば、もはや友情もへったくれもないだろう。情慾の炎はむらがり湧いた。彼奴目を排して、このおれこそが彼女の心を独占するのだ。……


 生田春月の詩に謂う、

 

 

男と男――
男と男がほんとに會ふのは
この時ばかりだ、
女を中に
むかひ合つて立つ時だけだ。

獅子と獅子、
牛と牛、
刃物と刃物――
男と男が
血をみるときだ。

 


 そのものの状態であったろう。
 が、生田の詩は更にこう続く。

 

 

おれのものを何とする、
いや、おれの女だ、――
獅子と獅子、牛と牛、
男と男が出會ふとき
生命が火花を散らすとき。

そこまで何で行かなんだ、
お前は男でなかったか、
いやいや、丁寧に挨拶して
世間話をして別れた
男と男が、女を中に。
――二十世紀だもの。
 


 1906年は二十世紀の黎明である。


 ジョナタとセストの場合にも、これに類することが起こった。

 

 

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上高地

 


 いざ決闘を宣言したはいいものの、やはり古い付き合いの幼馴染みをぶちのめし、血を吐き出させ、場合によっては絶命に追い込むということは、心理的に抵抗がある。

 

(いや、それ以前に)


 世はとうに未開社会を過ぎているのだ。いくら合意の上の決闘だろうと、死体が出来れば殺人事件。恋敵を排除したとて、自分が牢にぶち込まれては話にならない。監獄の冷たい壁を眺めている間に、うららかな日差し降りそそぐ外の世界では愛し女が新たな男に言い寄られ、その腕に抱きすくめられているやも知れぬのだ。


(それはこまる)

 

 こうした具合の、言ってしまえば計算高さが、あるいは生田の詠じた二十世紀らしさであったか。


 ともあれ、なにかうまいやり口はないかと思案して、二人はついに妙案を得た。


 その「妙案」こそ「シュプリューゲンの雪崩決闘」。冬季にはスキーリゾートとして観光客を呼び込んでいるだけのことはあり、シュプリューゲンの雪は深い。

 

 

Spluegen

 (Wikipediaより、冬のシュプリューゲン)

 


 が、おあつらえ向きに今は春。上昇する気温、延びてゆく日照時間。冬の間に積もり積もったその分だけ、この土地は雪崩の巣として機能する。


「これを利用しよう」


 そういうことになった。


 ルールは単純、9時から11時までの120分間、地吹雪がひっきりなしに乱舞する山腹の傾斜地に突っ立っている、たったこれだけ。


 言うまでもなくとびきりの危険地帯に他ならず、そう待たずしてどちらかが雪崩に呑まれるだろう。それが決着。銃でも剣でも拳でもなく、天意――純然たる自然現象によって雌雄を決さんとしたあたり、際立って特異な決闘だった。

 


 が、天とはよほど根性曲がりであるらしい。

 


 雪崩が起こることには起こるのだが、ことごとく両者の立ち位置を素通りしてゆく。一日過ぎ、二日過ぎ、とうとう三日を経てもなお、互いに五体満足のまま、憮然顔で下山するのみ。


(馬鹿にしていやがる)


 そうこうする間に、二人の行う奇妙な儀式が下の村で話題になった。


 ――毎日毎日、山の中で何をやっているのだろう。


 山頂をきわめるわけでもないのに、ピストンよろしく往ったり来たりを繰り返し、その挙措はなはだ不審である――。


 そう訝しんだ村人の中で、通報する者があったらしい。四日目、もはや惰性で雪崩を待ち受け、案の定一顧だにされぬまま引き揚げてきた両名を、しかしながらこの日ばかりはいかつい顔の憲兵たちが出迎えるべく待っていた。


 こうなってしまえば、洗いざらい喋る他ない。


 ――最近の若い連中は、何を考えているのかさっぱりわからん。


 事のあらましを知った彼ら、良識ある大人たちは辟易まじりに言い合って、ジョナタとセストの無謀を叱り、その悪運にほとほと呆れた顔をした。


 もし二人纏めて死んでいたなら、あるいはダーウィンにノミネートできたやもしれぬ。

 

 

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 結局二人の決闘は公正なくじ引きという形に落ち着き、漸く白黒つけられた。

 

 このくじ引きとて敗者の側はスイスどころかヨーロッパを去り、アメリカに渡るというとんでもない条件のもと実施されたものであり、しかもこの約束は完璧に履行されたというのだから、彼らの義理堅さというか、契約に対する忠実をいっそ褒めてやるべきか。

 

 なんともはや、度外れた思考回路の持ち主だ。

 

 

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現人神スチンネス ―「Das walte Hugo」―


 知れば知るほど、こんな人間が現実に存在し得るのか、と、驚きを通り越して呆れが募る。


 Hugo Stinnes


 一連のアルファベットの日本語表記は、スチンネスだのスティルネルだの、はたまたシュティネスだのいろいろあって、煩雑なことこの上ない。差し当たり本稿では、フーゴー・スチンネス」の表記を採る。

 

 

Erich Zweigert

Wikipediaより、 Hugo Stinnes)

 


 彼はドイツ全土の富の、実に三分の二弱を掌握した男であった。


 石炭、鉄鋼、汽船、電気、旅館、新聞、印刷、出版、化学、自動車、製紙、そして銀行――およそ「主要産業」と形容されるすべてに関わり、とある社会主義者をして、


「ドイツの生産手段を社会の所有とすることは容易になった。スチンネスが独りで集めてくれるからだ。後はただ彼の手から、これを奪うだけでよい」


 斯く言わしめた空前の巨人。


 ドイツの新ロックフェラー。


 新たな時代のビスマルク


 アメリカの「タイム」紙などは彼をして「ドイツの新皇帝」と称したが、これは決して誇張したいいではなかったろう。否、

 


 一枚の新聞を手にするにしても、またホテルに一夜の宿を求むるにしても、たった五分間市街電車に乗るにしても、十燭の電燈を点すにしても、さらに、一マルクの小切手を現金に代へるにしても…………
 その全局面を総配する仕事の取扱者は、スチンネスであった、ドイツの銀行に、会社に、商店に、市場に、道路に、空中に、鉄道に、新聞に――スチンネスの経済的支配権の動いてゐることが見出され、その恐るべき財的潜勢力は、ドイツ民族の大なる一つの脅威に値するものであった。(大正十三年刊行、小竹即一著『大黄金魔スチンネス』18~19頁)

 


 現世にこれほどの影響力を持った存在に対しては、もはや「皇帝」ですら生温すぎてそぐわなかったやもしれぬ。


 更にその上、「神」の文字をあてがうべきか。


 実際スチンネスの活躍時代にドイツを歩いた藤井悌という日本人は、ある日たまたま立ち寄った書店に於いて『神スチンネス』なる本を見付けてのけぞるほどに驚いているし、彼の本拠地であったルールには、今日でもなお「Das walte Hugo」――「すべてがうまくいっている」程度のニュアンスをもつ諺が罷り通っているほどである。

 

 

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 絢爛無比なる業績の数々――満天の星にも比するべき、それらによって彩られたこの男の人生は、しかしながら1924年4月10日、唐突に断ち切られることとなる。


 前9日に受けた胆石手術が合併症を引き起こし、対策を講ずる暇もなく、ぽっくり逝ってしまったのだ。


 享年、54歳。冗談のように慌ただしい、「生」から「死」への転変であった。


 この男がせめてもう10年なりとも存生ならば、その後の世界の潮流がどう変化したかわからず、それを思うと痛惜に堪えぬ。我々の知る歴史とは、なんと微妙な偶然の累積上に成り立っているものだろう。


 スチンネスの生涯中には、他にも歴史の転換点たるべき場面が幾つもあった。とりわけ興味深いのは、欧州大戦真っ只中の1916年3月に、駐ロシア日本大使・本野一郎と密会した一幕だ。

 

 

Ichirō Motono

 (Wikipediaより、本野一郎)

 


 場所はスウェーデン首都ストックホルム。同国駐在のドイツ大使、フォン・ルチウスの手引きの結果――言うなれば、ドイツ側から望んで設えられた席である。


 このときスチンネスが本野に持ちかけた話とは、「日露独同盟」という、なんともまた彼らしい、虹のようにきらびやかな大構想であったという。


 ほとんどのドイツ人と同様に、スチンネスにとって最も憎むべきかたきとは大英帝国に他ならなかった。なろうものならこの大戦を契機とし、ロンドンにある世界貿易金融上の中心点をドーバー海峡のこちら側に略取して、あの腹黒紳士の巣窟を干乾しに干しあげてしまいたい。


 その至上命題の為ならば、東方に対してある程度譲歩するのも厭わない。少なくともスチンネスはその腹積もりで、本野との会見に臨んだようだ。ロシア、日本を切り崩し、英国を世界の孤児とする。……

 


 ジェイコブ・シフの例といい、こうして見ると第一次世界大戦当時に於いて日本に秋波を送ってきたドイツ人とは、存外に多かったような観がある。

 


 茅原華山が憑かれたように絶叫していた「大英帝国分割論」も、あながち空想ではなかったということか。その後の歴史を鑑みれば、彼らを袖にしたのが悔やまれてならぬ。

 

 

Bundesarchiv Bild 102-00366, Trauerfeier für Hugo Stinnes

Wikipediaより、フーゴー・スチンネス葬儀の光景) 

 


 スチンネスは敗戦後、革命政府に捕らえられ、牢にぶち込まれはしたものの、「商業会議所の解放運動と経済界復興の為には必要欠くべからざる人材」という政治的判断に基づいてほどなく出所。


 気の狂ったとしか言いようのないハイパーインフレ――戦慄すべきあのドイツマルクの大暴落に際しても、彼は巧みにこれを利用し大きく身代をふとらせたから、「インフレ王」の名で呼ばれることもあったという。


 たとえフィクションの世界でも、ここまでの設定はそうそう盛れるものでない。


 現実感リアリティに乏しすぎると突っ返されるのが目に浮かぶ。フーゴー・スチンネス、とことん逸脱しきった漢であった。

 

 

 

 

 


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昭和七年の不審者情報 ―鶏の祟りに苦しむ男―

 

 その不審者が淀橋署に引っ張られたのは、昭和七年十一月二十五日、草木も眠る丑三つ時もほど近い、午前一時のことだった。


 柏木三丁目あたりの通りを、鶏の鳴き真似をしながらほっつき歩いた罪に因る。まだまだ日の出は遠いのに、こんなことをされてはたまらない。後に「新宿区」と改められるこの地域の住民にとっては、大迷惑であったろう。逮捕は至って妥当であった。

 

 

Shinjuku Station in 1932

 (Wikipediaより、昭和七年の新宿駅

 


 男の身体からは、濃厚なアルコール臭が漂っていた――それこそ毛穴という毛穴から、酒を噴霧しているのではあるまいかと思われるほど。


 ろれつが回るようになるのを待って、さて取り調べを進めてみると、男はこの淀橋区の一角に棲む、所謂「地元民」であるのが判明。三十代半ばで、結婚して妻もいる。


 ただ、どういうわけか、子宝には恵まれなかった。


 そこで寂しさを紛らわすため、夫婦は鶏を飼い出したという。


 年を追うごとに数は増え、ついに五百羽に及んだというから、もはや養鶏場といっていい。目の玉の飛び出るような地価を誇る新宿区にも、百年前には養鶏場が営めるほど土地にゆとりがあったのだから、今昔の感、ただならざるものがあるだろう。

 

 

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 が、やはり鳥類ではいかんせん、かすがいとして十分に機能しなかったものとみえ。


 夫婦仲は次第によそよそしさを増してゆき、ついにこの昭和七年、書置き一枚を手切れと残して妻は何処かへ消えてしまった。


 懊悩したのは男である。その甚だしさは、もはや錯乱といっていい。

 

 さしたる愛着も残っていないと考えていたのに、いざ手元から離れてみると衝き上げてくるこの物狂おしさはなんであろう。


(これほどまでに、おれはあいつを愛していたのか)


 と、自己を客観視して驚いてやる余裕さえない。哀しみだけが五臓六腑を駆け巡り、胸は今にも張り裂けそうにじくじく痛んだ。


 この苦痛からの解放を、よりにもよって酒に求めたのが彼の過ちであったろう。呑むのではなく、呑まれにいった。しぜん、悪酔いに流れざるを得ない。


 飼っていた鶏をぜんぶ売り飛ばして得た資本もとで。それを少しずつアルコールに変え、消費するだけの毎日。自暴自棄の見本のような、そんな生活を送っていると、次第に彼の網膜は、妙な錯覚を起こすようになってゆく。


 道行く人の首から上が、なんと鶏のそれにすげ変っているように見えるのだ。

 

 

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伊藤若冲 「群鶏図」)

 


(そんな馬鹿な)


 慌てて眼を擦ってみても、どうしても鳥人間が消えてくれない。


 そのうち何もない空間に、血に染まった白色レグホンの群れを視るようにもなりだした。むろん、彼が飼っていた品種である。


(幻覚だ)


 自分の脳が勝手に作り出した虚像に過ぎぬと、彼とて重々承知している。


 が、一週間、二週間、一ヶ月と異常状態が継続すると、次第に精神作用が冒されてきて、判断力が弱くなり、ついにはそれを信ずるようになるらしい。この期に及んで、なおも酒を手離せなかったことも災いした。眼球のみならず、鼓膜までもが狂い出し、今や彼の耳の奥では絞め殺される鶏の悲鳴がひっきりなしに木霊するようになっていた。


 既に末期といっていい。男にはもう、自分が人間なのか鶏なのか、両種族の境界があやふやになりごちゃ混ぜになる瞬間が一日のうちに何度かあった。


 今回は、それが運悪くも夜の夜中、ウイスキーをひっかけた帰路に出てしまったに過ぎない。この事件はその日の読売新聞夕刊に載り、帝都の人心をいっときながら賑わわせたものである。

 


 まあ、鶏といえば、遠く神代の大昔。

 


 天照大神が岩戸にお隠れになったあの場面にも馳せ参じ、鬨の声を高らかにあげて世に光を取り戻す一助を果たした、存外にエライやつである。

 

 

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東方Project庭渡にわたり久侘歌くたか

 


 日本人との関わりはよほど深いといってよく、その縁から勘繰るならば祟りを及ぼす霊能程度、発揮しても不思議ではないのやもしれぬ。


 せいぜい感謝して喰らうとしよう。あの肉や卵なしの生活なぞ、味気なくてとても堪えられたものではないのだから。

 

 

 

 

 


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「書き込み」小話

 

 ここ数日来、幾度となく引用させていただいた『東郷元帥直話集』には「書き込み」がある。


 その巻末、本文終了後のひろびろと空いた余白の中にしたためられた文章だ。

 


東郷元帥の面影をまのあたり、観る如く、極めて、興湧く之を読む、加治屋町の生んだ大英雄に対する思慕の情愈々深まる。
薩摩の典型的武人なるのみならず、実に世界的英雄なりし感を深うする。

昭和十年五月八日

 

 

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 本書が出版されたのは昭和十年五月一日の時点に於いて。


 そこから僅か、一週間後の日付である。


 なかなかの早さと評してよかろう。「止め時」を見失うほど熱中し、一気呵成に読了までもっていった購入者の姿というのが目に浮かぶ。


 最後の一ページを捲ったときは、感慨無量、この上もない。雲を貫き聳える秀峰、その頂に独り立ち、四方下界を鳥瞰するかの如き心地よさだ。

 


 確か、以前にも書いたはずだが、私はこうした「書き込み」の類が嫌いではない。

 


 いやいっそ、古書蒐集の醍醐味のひとつとさえ考えている。読書によって一層壮大ならしめられた前所有者たちの気宇。その余韻、あるいは残響と呼ぶべきものが、これら一文字一文字には籠められていて、指でなぞれば今でもいきいきと再生される――そんな錯覚に襲われるのだ。

 

 


「鎖と笞の土地」「ロシアンセーブル物語」執筆のため活用させていただいた『シベリヤの自然と文化』にも、やはり書き込みが存在している。


 ただ、厄介なことに、どうもキリル文字が使われているようなのだ。

 

 

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 どうであろう、三行目の末尾の文字、「R」が反転した形のように見えないだろうか。


 流石、ロシアの内情について書かれた本と言うべきか。解読は正直お手上げである。大学の第二外国語選択でロシア語を取っていたならば、また話は別だったのやもしれないが。


 辛うじてわかるのは、「1944」「20」といった数字程度だ。


 本書の初版発行は昭和十九年――即ち1944年2月20日。刊行日時を態々書いたとするならば、ひょっとすると著者直々の署名なのでは――そんな都合のいい妄想まで膨らんでくる。


 掘り出し物とは、なんと心ときめかせる文言であろう。まさかと自戒しながらも、つい夢想せずにはいられない。なかなかどうして、愉しみの種は尽きないものだ。

 

 

東郷平八郎と秋山真之 (PHP文庫)

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家康公と東郷元帥・後編 ―猛火を防いだ物惜しみ癖―

 

 吝嗇――物惜しみする心の強さも、東郷は家康に劣らなかった。


 たとえば菓子や果物の類を贈られたとする。受け取った東郷、箱を捨てないのはもちろんのこと、その箱を覆っていた包み紙や、あまつリボンの一本までをも、破らないよう注意深く取り外し、皴をのばしてしっかり保存していたというのだから、権現様もご満悦の吝嗇ぶりであったろう。


 で、電気スタンドの笠が破れたりすると、すかさずこのリボンを取り出し、包帯のようにくるくる巻いて、何食わぬ顔で点灯させ続けるのである。
 あまりのことに見かねた家人が、


「そこまでせずとも、旦那様」


 新しいのをお求めになっては――と半分哀願するような口調で説得しても、東郷自身はてんで平気で、


「いや、これでよい。これでも充分間に合うよ」


 道具は限界まで使い尽くすという年来の所存を、些かも変じなかったからたまらない。

 

 

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(元帥自書の座右の銘「不自由を常と思へば不足なし」)

 


 東郷の吝嗇気質は、彼の屋敷の到る所に反映していた。


 たとえば障子の貼り替えも、穴の開いた部分にしか施さない。無事なところは、何年でもそのままほっぽっておく。日に焼けて赤茶けようがお構いなしだ。このため東郷邸の障子はどこも、新旧混交するまだら模様になっていた。


 それから前回でも触れたように、最初は三百坪だった地所を、三回に分けて少しずつ殖やしていった影響だろう。気付けば彼の敷地の中には古井戸が三つも存在し、ただでさえ上下水道の発達しつつある今日、明らかな無用の長物と化していた。


 当然、家人は埋めようとする。


 が、平八郎はこのときも物惜しみ癖を発揮して、


「いや、何か役に立つだろうからそのままにしておけ」


 ついにこの動きを差し止めてしまった。


(やれやれ、また旦那様のご病気が)


 いささか食傷気味な家人たち。


 ところがこの古井戸が、後に思いもかけぬ偉大な効果を齎すのである。


 のち・・とはつまり、大正十二年九月一日。そう、関東大震災発生の日に他ならなかった。

 

 

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(焼け落ちた神田橋)

 


 地震発生間もなくにして都内各所から上がった火の手は、東郷邸の鎮座する麹町にも容赦なく押し寄せた――と、安部真造は物語る。


 ちょうど書棚に『大正大震災大火災』が整列していた。震災から僅か一ヶ月の早きにして大日本雄弁會・講談社が出版し、瞬く間に数十万部を売り上げたベストセラーだ。以前の古本まつりで手に入れた。


 引っ張り出して、附属している「東京大火災地域及罹災民衆団地図」を覗き込む。

 

 

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 麹町一帯にクローズアップしたものだ。


 次いで、東郷邸の位置を探す。


 こちらは現在、東郷元帥記念公園となっているから、特定は割かし容易であろう。

 

 

 


 ポインタが立ったあたりを上の古地図と対照させると、なるほど赤い斜線が引かれ、一帯に火が及んだことが明白になる。


 しかしながらこの火炎地獄の中にあっても、東郷邸のみは焼けずに済んだ


 何故か、などとは訊ねるだに野暮であろう。例の三つの古井戸、その深みより汲み上げたる潤沢な水の恩恵だった。

 

 


 そも、なにゆえ関東大震災はあのような、帝都・東京を灼熱世界に一変せしめ、十万を超える命を奪い、その二十倍の被災者を生み出す、未曾有の災禍となったのか?


 同程度の規模の地震は過去幾度となくあったというに、何故今回に限ってこのような――と、『大正大震災大火災』の序文に於いて三宅雪嶺は問いかける。


 雪嶺、更に筆を進めてその理由わけを、


 ――井戸をつぶし、火除地を除いたのに因ることが多い。


 と説破している。


「耐震耐火」と大書された近代建築の金看板を鵜呑みにし、もはや火の用心など過去の遺物と見下して、緩みきった個人個人の警戒心。そこに加えて利欲一辺倒の精神で、わずかな土地目当てに井戸はうずめる火除地は塞ぐ。


 つまるところ、「文明に茶毒」されたところが大きいという論調だ。


 このあたり、どうも幸田露伴も同意見であったらしい。

 


 市街の通行の広狭、空地の按排等も、今少し好条件であったなら震災火災によりて惹起された惨状を今少し軽微になし得たであらうし、又水道のみに頼る結果として、市中の井を強ひて廃滅せしめた浅慮や、混乱中を強ひて嵩高な荷物を積載した車を押し通して自己の利益のみを保護せんとした為に愈々混乱を増大し、且荷物に火を引いて避難地をまで火にするに至った没義道な行為や、さういふ類の事が少かったら、今少し災禍を減少し得たらうことは、分明である。(序文)

 

 

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 ところがここに、例外があった。


 東郷邸のみは「強ひて廃滅」せしめられた古井戸を三つも所有し、水道が止まろうとも消火活動を行うことが出来たのだ。


 とはいえ、これはなまなか・・・・な挑戦ではない。なにせ相手は、三日に渡って帝都を焼き続けた猛炎だ。「夜に入ると火の手は愈々猛烈になり邸を取巻いて四方から熱気を煽り立て、大きな火の塊りや、真っ赤に焼けたブリキ板が飛びこんでくる有様だ」と『東郷元帥直話集』には記されているから、通常の神経の持ち主ならば腰砕けになり、泡をくって退散すべき景況だろう。


 実際、令息の東郷ひょう氏は叫ぶように陳言している。もう諦めて、立ち退くべき頃合いでは、と。


 しかしながら、平八郎は肯んじなかった。

 


「いや、もう少し待たう……あの坂の塀を壊せばいつでも出られるから危険はないよ」
 と云って動かうともされない。見るに見かねた人々が、
「閣下お危なうございます。どうぞこの場を御立退下さいますように」
 うったへるやうに勧めるが、元帥は頑として動かうとはなされない。
「折角ぢゃが、私は居られるまで此処に居る」(275頁)

 


 一連の、根が生えたような頑張りぶりは、


 ――この家が燃え落ちるのなら、わしはそれを見届けてやらねば。


 という、一種悲愴な決心が基にあったとされている。

 

 

Gigantic cumulonimbus in the sky over Tokyo right after the Great Kanto Eartquake

 (Wikipediaより、火災によって発生した積乱雲)

 


 いや、それは決心・・などという硬質な物言いとはまた別で、もっと纏綿な、情緒というのがあるいは相応しいやもしれぬ。


 明治十五年の入居以来、ずっと住み続けて来たわが家だ。


 東郷の気質から推し量って、もはや単なる物質ではなく、己が分身の感すらあったに違いない。


 その「分身」が死のうとしている。ならば彼の臨終を、おれが看取らずしてどうするか――伊東の別荘で夜空を眺め、

 

照る月の澄みわたりたる山高く
しづかなりつるこころきよけき


 の三十一文字をものしたほどに詞藻豊かな東郷だ。そんな感慨があったとしても、あながち不思議ではないだろう。


 が、周囲の者は別の解釈を施した。


(さてこそ、元帥はここで死ぬ気か)


 武運つたなく、艦が撃沈されるとき、運命を共にする艦長というのは珍しくない。彼らは咄嗟にそれを思った。


(なんということだ)


 思った以上は、もうそれ以外に別の発想は湧かないらしい。況してや斯くの如き、切羽詰まった窮境に於いては猶更だ。海軍軍人の理想たるべき精神性を目の当たりにして、人々は戦慄し感動し、それ以上に使命感に燃えだした。


 ――これほどのお方を、あたら死なせてなるものか。


 という義憤にも似た熱情である。家人のうち、得手勝手に逃げ出す者は一人としてなく、ついには地域の青年団まで合流し、


 ――東郷さんのお邸を焼いてはならぬ。


 のかけ声のもと一致協力、消火活動に邁進したその結果。ついに満目荒寥、一面の焼け野原と化した麹町の只中に、しかし東郷邸のみはぽつねんとたたずみ、震災前からさして変わらぬ姿を留めるという、嘘のような光景が現出された。


 人界の奇蹟といっていい。

  

 

Togo gensui kinen koen

 (Wikipediaより、東郷元帥記念公園)

 


 東郷邸は、結局のところ元帥よりも長く生きた。


 公園として整備された今となっても、その地下には「震災対策用応急給水施設」が存在し、いざ事が起きた場合に備えて水が蓄えられている。

 

 

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家康公と東郷元帥・前編 ―不自由を常と思へば不足なし―

 

 反応に困る光景だった。


 当家――海江田邸に長年仕えるお抱え車夫の松吉が、眉間のしわ・・も深々と、ひどくむっつりした表情で、水を飲むでも物を喰うでもないくせに台所に蟠踞して、周囲の空気を沈ませているのだ。


 発見者は異様な感に打たれたが、かといって見なかったふりをして、そのまま行き過ぎるというわけにもいかない。


「松吉、その不機嫌はどうしたわけだ」


 なるたけ平静な声色を心がけて訊いてやる。
 すると松吉、血走った眼をかっと見開き、


「これが不機嫌にならいでか」


 反駁すること、ほとんど噛みつくが如くであった。

 


「考へてみな。海江田家のお嬢様ともあらうものが、あんな小っぽけな、裏長屋みたいな家に押しこめられ、お可哀さうでならねえや」(『東郷元帥直話集』158頁)

 


 言い終えるや、肩をふるわせ、涙をぽろぽろこぼしたというから、明治十一年十月三日のこの佳き日、彼が「お嬢様」を輿入れのため送り届けた海軍中尉の家というのは、よほどみすぼらしい外観だったに違いない。


 同行した海江田夫人も、ほぼ同一の不安に襲われていた。なにしろ海江田家といえば、維新志士でも屈指の古参、海江田信義こと有村俊斎――桜田門外の変井伊直弼の首をあげた有村治左衛門の兄に相当――を当主に戴くだけあって、貫目の重さは尋常一様のものでない。

 

 

Kaieda Nobuyoshi

 (Wikipediaより、海江田信義

 


 幕末、薩摩で「精忠組」を結成し、西郷隆盛大久保利通税所篤吉井友実等々と、錚々たる面子を相手に国事を語り血を熱くした俊斎は、いまや九段下に堂々たる屋敷を構え、庭の一角に工事を施し土俵を築き、贔屓の力士を大勢呼んで相撲をとらせ、縁側からそれを眺めて愉しんで、何ら憚らないほどに強力な威光を放射していた。


 ――その海江田家の、長女テツ子が嫁いだ先が。


 庭の向こうがいきなり線路で、汽車が通過するごとに地震の如く全体が揺れる、お世辞にも良物件とは言い難い借家に平気の平左で棲んでいる、32歳の海軍中尉というのだからギャップもまた凄まじい。


(えらいところに娘をやってしまった)


 夫人の不安はもっともだった。


 神ならぬ人の身、よもやこのご亭主どのが、30年後にはツァーリ自慢のバルチック艦隊対馬沖で迎え撃ち、これに完勝、「東洋のネルソン」として世界的名声を博す漢になろうとは、夢寐にも思わなかったに違いない。


 もっとも当のテツ子はというと、生来楽天的に出来ているのか、これまでとはまるで違ったこの環境にむしろ湧き立つようなよろこびがあり、好奇心を抑えかね、瞳を輝かせていたのだが。


 良縁に恵まれたといっていい。


 むろん、双方にとってである。

 

 

Togo&Tetsu

 (Wikipediaより、東郷元帥、妻テツと)

 


 これ以外にも、家に関して東郷平八郎には逸話が多い。


 彼が借家住まいから脱出するのは結婚からおよそ四年後、明治十五年のことである。麹町の物件を買い取り、一国一城の主になった。


 が、上六番町のこの家屋とて、決して豪壮な屋敷とは言い難い。


 それどころか購入当時は、あからさまなぼろ屋・・・であった。軒は傾き、風が吹くと震動し、雨が降れば天井から水が滴る。見るに見かねた周囲の者が、


 ――どうでしょう、資金は融通しますので。


 一度土地をまっさらにして、新しく建て替えてはどうか、と提案したことがある。


 悪い話ではない。


 が、平八郎は謝絶した。


「わしはわしの力で建てるまでは、これで我慢するよ」


 というのが断りの口上だったらしい。


 東郷平八郎という人は、とにかく借金をしたがらない人だった。


 その烈しさは、もはや生理的といっていい。

 


 日露戦争後に、赫々たる元帥の英名にひきかへ、住宅があまりにも見すぼらしい、日本の国民は、元帥をあんな陋屋に住はせて黙ってゐるのかと外国人に批難されてはなるまい、との国家的の立場から、時の枢密顧問官だった九鬼隆一男、東京市長奥田義人帝国大学教授菊池大麓、その他知名の諸氏が発起人となり、五十万円を出し合って、新邸を建てようとの計画を立てその交渉に来られた折が、
「それは失礼ぢゃがお断りする、他人ひとに建てて頂いた家などには身が縮んで恥しうて、入って居られぬ」
 ときっぱり辞退されたので、折角の案も立ち消えになった事もある。
 元帥邸は明治四十四年に、古い家をそのまゝにして今の西洋館を新しくつぎ足し、地所も最初は三百坪ばかりだったのを三回に渡ってふやすといふ風に、資力に応じて少しづつ殖やしてゆくといふいかにも着実なやり方である。(172頁)

 

 

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(庭仕事中の東郷元帥(左)、右は次男実氏)

 


 借金をすることが人間として一人前の証のように思われているアメリカ人気質とは、差異天淵もただならぬものがあったろう。


 が、それもむべなるかな。なにせ元帥の座右の銘は、「不自由を常と思へば不足なし」東照大権現神君徳川家康公の遺訓と伝わる一節なのだ。


 実際問題、元帥の行状には家康的色彩が実に濃い。


 たとえば釣りにしてもそうだった。


 舞鶴司令長官時代、東郷は滔々と広がる蒼海原にはりを投げ込むことを何より好み、大江文蔵なる土地の船持ちと話をつけて、屡々船釣りに出たという。以下は、その大江老人の述懐。

 


…元帥は此頃、至って魚釣がお好きで、日曜毎に「親父居るか」と朝早くから鳥打帽に袴といふ姿で訪ねて来られ、海岸伝ひの千歳浜で一日中錨を入れて考へてるといふ風に、いつまでもぢっと糸を垂れて居られた。獲物がない時、場所を変へるやうに申上げると、
「人間は辛抱が肝心だ。時期が来なければ魚だってかゝるものではない」
 と云って居られた(232頁)

 

 

  どうであろう、「鳴かぬなら鳴くまで待とう」式の粘り強い性格が窺えまいか。

 

 

Maizuru bay

 (Wikipediaより、舞鶴湾)

 

 

 そういえば大久保利通徳川家康を尊敬していた。


 幕府を倒し、新日本を創造する権利を掴んだ薩人たち。中でも特に知名度の高い両名が、幕府創業主を敬慕している。この構図には、なんともいえない面白味が含まれている。

 

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東郷元帥と烈女たち ―乃木静子と東郷益子―

 

 東郷平八郎乃木希典を第三軍司令部に訪問したのは、明治三十七年十二月十九日のことだった。


 このとき、旅順要塞は未だ陥落していない。


 が、港湾内のロシア艦隊。こちらの方はほぼほぼ海の藻屑と化しきって、長く続いた攻囲戦にもどうやら一定の目処は立ちつつあった。


 そういう時局下に、二人は顔を合わせている。


 暫くの間、双方一言もなかったという。


 こみ上げてくるものが多過ぎたのだ。

 


 最初は二人とも言葉が出なくてな。唯、黙って手を握り合っただけよ。全く感慨無量ぢゃった。乃木は実によく戦った、最善を盡して戦ってゐたのぢゃ。可哀さうに伜二人まで戦死させて…乃木は全くいゝ男ぢゃった(昭和十年刊行、安部真造著『東郷元帥直話集』130頁)

 

 

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(乃木と東郷、英国へ向かう船上にて)

 


 会見後、包囲を続ける乃木を背に、東郷はいったん本土へ戻った


 宮城にて、明治大帝にこれまでの海戦の経過をつぶさに伏奏。その任を遂げ、再び戦地に赴く前に、


 ――せっかくだから。


 ということで、同郷の上村彦之丞を誘い、二人して乃木の留守宅を訪れ、奥方の様子を見舞っている。


 急な訪問に、しかし静子夫人は快く応対してくれた。


 三方に盃を載せ持って来て、手ずから銚子を傾けて、


「お祝い申し上げます」


 どうぞ一献、とすすめてくれる。


(なるほど、乃木の伴侶なだけはある)


 質素ながらも心づくしなもてなしに、しみじみ感じ入るものがあった。

 


 そこでわしは夫人の心中を思ひ戦場で乃木に會うた話や戦死せられた令息の勝典保典両氏へのお悔みを申した所、奥さんは少しも取乱す様子がなく落着いた態度で、
「伜共もどうやら御国に盡す事ができましたので何より本懐に存じます。又、これで戦死した沢山の兵士の父兄の方々にも申訳が立つやうにも存ぜられ、せめての心慰めでございます」
 かう健気に云ったが、実に烈女であると感心したよ(129~130頁)

 

 

Nogi Shizuko

 (Wikipediaより、乃木静子)

 


 烈女。――


 東郷平八郎の周囲には、この二文字を以って表される型の女性が多い。少なくとも私の目にはそのように印象されている。


 第一、母親からしそう・・だった。薩摩藩堀与三左衛門の三女であり、益子と名付けられたこの人が東郷吉左衛門実友という七つ上の男のもとに嫁したのは、実に20歳の砌であった。


 以来、子宝にも恵まれて、41歳までの間に五男一女をもうけている。


 そのひとりひとりを、益子は誠心誠意愛情籠めて撫育した。

 


 夜分用事があって愛児達の寝室を通る時も、刀自は決してその枕元は通らず、必ず、足元を迂回した。将来、御国の為に、忠節を盡すべき大事な子等の頭上を歩む如きは之を軽んずることゝなるから、親といへども慎むべきだ、と自らを戒め、且つ愛児等に自重の念を起こさしむるに努めたといふのは有名な話である。(16頁)

 


「感化」こそが教育の要諦であると、この人はどうやら知っていたらしい。


 毎朝この母に髪を整えてもらったことも、平八郎にはかけがえのない記憶となった。

 


 母は清水で手を清め、兄から順々に梳るのであったが、刀自は、一人一人、必ず新しい元結でしっかと結び、我子等が世俗の汚れに染まらぬやう、心から祈願をこめたので、その母の温き心の訓へに少年達は感涙に咽んだといふ事である。(同上)

 


 が、それからの益子の前途には、その愛児たちのほとんど全部に先立たれるというとてつもない試練が待っていた。

 

 

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(東郷益子)

 

 

 長女・次男は共に夭折、三男壮九郎実次西南の役で西郷方に附き、奮戦して勇名を馳せたが城山の戦いでとうとう討死


 五男の四郎左衛門実武はというと、若干17歳にして戊辰戦争に従軍し、会津若松城を攻めたが陣中悪疫を罹患して、そのまま儚くなってしまった。


 結局のところ、長生したのは長男四郎兵衛実猗と、四男仲五郎実良のただ二人。このうち長男四郎兵衛は、三男壮九郎と同様に西南の役では西郷方に身を投じ、辛うじて命は拾ったものの、


 ――ひとたび叛軍についた以上は。


 今更勤めも恐れ入る、と、こういう理屈で身を慎んで、如何に周囲から勧められても二度と再び表舞台に上がろうとせず、郷里鹿児島に逼塞したまま明治二十年に朽ちている。


 東郷益子は同三十四年まで生きたから、またしても我が子の遺骸を見送らなければならなくなったというわけだ。


 彼女が遺して逝けたのは、ただひとり四男仲五郎実良――後に海軍の「神」と仰がれ、日本全国誰一人として知らぬ者のいなくなる、平八郎のみであったというこの事実。


「母は苦しかったことじゃろう」


 いかにも厳かな、沈痛を交えた表情で、「沈黙の提督」は呟いている。

 

 

TōgōHeihachirōUniform

Wikipediaより、東郷平八郎

 

 

 平八郎が安部真造に語ったところに依るならば、三男壮九郎が戦死した折、大勢の戦友たちといっしょくたに「仮埋め」された息子の遺骸を、彼女はなんと、素手で掘り起こしたそうである。


「鍬で掘って、我子の遺骸にその先でも触れては可哀そうだと思ったのじゃろう」


 母の心中を、元帥はそのように解読した。


 余人を交えず、我が両の手のみでひたすらに土を掻いたので、たちまち指は血だらけになった。


 が、当時の益子にとって肉体的苦痛などがなんであろう。やがて毛布に包まれた壮九郎を発見し、東郷家の墓所に持ち帰って鄭重に埋葬したときやっと、わずかながら安んずることが出来たという。

 

 

Battle of Shiroyama

Wikipediaより、城山の戦い) 

 


 驚くべきは、これほどの目に遭ってなお、彼女が西郷隆盛を少しも怨んだ気配がないということだ。

 そういう湿っぽい感情を、益子はおくびにも出さなかった。

 


 朝軍に抗した罪はいか様に弁ずるとも免れぬところであるが、西郷先生の御志は決して一身の利害の為ではなかったと思ふ。他日の正論はよく西郷先生の御心底を明らかにするであらう。それはともあれ、たとへ賊名を負へばとて、一生の恩人に殉じた我子のことを思へば、親としては萬斛の涙なくてはならぬ。(18頁)

 

 
 よほど人間が練れていなくば、上の言葉は出てこない。


武家の女」の、その精華と呼んでいいのではなかろうか。子は親を映す鏡と云う使い古された格言が、途端に新鮮な舌触りを帯びてくる。まさしくこの母にしてこの子あり、だ。

 

 

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