反応に困る光景だった。
当家――海江田邸に長年仕えるお抱え車夫の松吉が、眉間の
発見者は異様な感に打たれたが、かといって見なかったふりをして、そのまま行き過ぎるというわけにもいかない。
「松吉、その不機嫌はどうしたわけだ」
なるたけ平静な声色を心がけて訊いてやる。
すると松吉、血走った眼をかっと見開き、
「これが不機嫌にならいでか」
反駁すること、ほとんど噛みつくが如くであった。
「考へてみな。海江田家のお嬢様ともあらうものが、あんな小っぽけな、裏長屋みたいな家に押しこめられ、お可哀さうでならねえや」(『東郷元帥直話集』158頁)
言い終えるや、肩をふるわせ、涙をぽろぽろこぼしたというから、明治十一年十月三日のこの佳き日、彼が「お嬢様」を輿入れのため送り届けた海軍中尉の家というのは、よほどみすぼらしい外観だったに違いない。
同行した海江田夫人も、ほぼ同一の不安に襲われていた。なにしろ海江田家といえば、維新志士でも屈指の古参、海江田信義こと有村俊斎――桜田門外の変で井伊直弼の首をあげた有村治左衛門の兄に相当――を当主に戴くだけあって、貫目の重さは尋常一様のものでない。
幕末、薩摩で「精忠組」を結成し、西郷隆盛や大久保利通、税所篤に吉井友実等々と、錚々たる面子を相手に国事を語り血を熱くした俊斎は、いまや九段下に堂々たる屋敷を構え、庭の一角に工事を施し土俵を築き、贔屓の力士を大勢呼んで相撲をとらせ、縁側からそれを眺めて愉しんで、何ら憚らないほどに強力な威光を放射していた。
――その海江田家の、長女テツ子が嫁いだ先が。
庭の向こうがいきなり線路で、汽車が通過するごとに地震の如く全体が揺れる、お世辞にも良物件とは言い難い借家に平気の平左で棲んでいる、32歳の海軍中尉というのだからギャップもまた凄まじい。
(えらいところに娘をやってしまった)
夫人の不安はもっともだった。
神ならぬ人の身、よもやこのご亭主どのが、30年後にはツァーリ自慢のバルチック艦隊を対馬沖で迎え撃ち、これに完勝、「東洋のネルソン」として世界的名声を博す漢になろうとは、夢寐にも思わなかったに違いない。
もっとも当のテツ子はというと、生来楽天的に出来ているのか、これまでとはまるで違ったこの環境にむしろ湧き立つようなよろこびがあり、好奇心を抑えかね、瞳を輝かせていたのだが。
良縁に恵まれたといっていい。
むろん、双方にとってである。
(Wikipediaより、東郷元帥、妻テツと)
これ以外にも、家に関して東郷平八郎には逸話が多い。
彼が借家住まいから脱出するのは結婚からおよそ四年後、明治十五年のことである。麹町の物件を買い取り、一国一城の主になった。
が、上六番町のこの家屋とて、決して豪壮な屋敷とは言い難い。
それどころか購入当時は、あからさまな
――どうでしょう、資金は融通しますので。
一度土地をまっさらにして、新しく建て替えてはどうか、と提案したことがある。
悪い話ではない。
が、平八郎は謝絶した。
「わしはわしの力で建てるまでは、これで我慢するよ」
というのが断りの口上だったらしい。
東郷平八郎という人は、とにかく借金をしたがらない人だった。
その烈しさは、もはや生理的といっていい。
日露戦争後に、赫々たる元帥の英名にひきかへ、住宅があまりにも見すぼらしい、日本の国民は、元帥をあんな陋屋に住はせて黙ってゐるのかと外国人に批難されてはなるまい、との国家的の立場から、時の枢密顧問官だった九鬼隆一男、東京市長奥田義人、帝国大学教授菊池大麓、その他知名の諸氏が発起人となり、五十万円を出し合って、新邸を建てようとの計画を立てその交渉に来られた折が、
「それは失礼ぢゃがお断りする、
ときっぱり辞退されたので、折角の案も立ち消えになった事もある。
元帥邸は明治四十四年に、古い家をそのまゝにして今の西洋館を新しくつぎ足し、地所も最初は三百坪ばかりだったのを三回に渡ってふやすといふ風に、資力に応じて少しづつ殖やしてゆくといふいかにも着実なやり方である。(172頁)
(庭仕事中の東郷元帥(左)、右は次男実氏)
借金をすることが人間として一人前の証のように思われているアメリカ人気質とは、差異天淵もただならぬものがあったろう。
が、それもむべなるかな。なにせ元帥の座右の銘は、「不自由を常と思へば不足なし」。東照大権現神君徳川家康公の遺訓と伝わる一節なのだ。
実際問題、元帥の行状には家康的色彩が実に濃い。
たとえば釣りにしてもそうだった。
舞鶴司令長官時代、東郷は滔々と広がる蒼海原に
…元帥は此頃、至って魚釣がお好きで、日曜毎に「親父居るか」と朝早くから鳥打帽に袴といふ姿で訪ねて来られ、海岸伝ひの千歳浜で一日中錨を入れて考へてるといふ風に、いつまでもぢっと糸を垂れて居られた。獲物がない時、場所を変へるやうに申上げると、
「人間は辛抱が肝心だ。時期が来なければ魚だってかゝるものではない」
と云って居られた(232頁)
どうであろう、「鳴かぬなら鳴くまで待とう」式の粘り強い性格が窺えまいか。
幕府を倒し、新日本を創造する権利を掴んだ薩人たち。中でも特に知名度の高い両名が、幕府創業主を敬慕している。この構図には、なんともいえない面白味が含まれている。
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