穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ロシア人の侮日感情 ―「日本人を皆殺しにせよ」―

 

※2022年4月より、ハーメルン様に転載させていただいております。

 

 開戦前の当地に於ける侮日感情の激しさときたら、そりゃもう箸にも棒にもかからない、度を逸しきったものだった。


 ロシア人たちは体格の有利を笠に着て「極東の猿」を嘲笑い、


「あのような矮躯から、どうして十分な気力体力が絞り出せるか」
「コサック騎兵の進むところ、日本軍は馬蹄の轟きを聞くだけで意気阻喪して、猛獅もうしの前の群羊の如くなるだろう」


 と、口々に楽観論を吹きまくる。


「我が兵一人で、日本兵十人に当たり得る」


 ドイツからの通信員、マックス・ベールマンに面と向かって、そう豪語してのける将校まで出現あらわれた。

 

 

Pymonenko U pohid 1902

 (Wikipediaより、コサック)

 


 どころではない。


 開戦間もない1904年3月のある日、満洲へ向かう旅路の途上、イルクーツクに立ち寄ったベールマンは、更に信じ難い光景を見た。


 当地きっての繁華を誇る、名の知れた大型レストランにて夕食を喫していた際である。


 有名店なだけあって、館内には既に二百名以上の将校連が詰めかけており、前途に控える戦に向けて英気を養う目的で、盛んに飲食を為しつつあった。


(これは面白い場に居合わせた)


 ひょっとすると、思わぬ特ダネが降って来るかも――そう期待したベールマン。


 態とゆっくり咀嚼して、丹念に料理を味わっている風を装い、その実全身を耳にして、軍人どもの会話に聴き入る。


 果たして、期待のものは訪れた。一人の歩兵大尉シャンパン片手に突然起立し、愛国の至情ほとばしる演説に長広舌をふるったあと、


「かくなる上は」


 末尾に付け足した台詞こそが凄まじい。


「我が部下の中隊には敵を捕虜とすることは決して許さぬ」


 大声で言ってのけたのである。


 明らかな鏖殺宣言だった。


 更にベールマンがぎょっとしたのは、この異常な事態を受けて周囲のロシア人たちが、まるで電流を通されでもしたかの如く一斉に椅子から立ち上がり、万歳ウラーを叫び、


「残らず日本人を殺すべし、捕虜を許さず」


 感動も露わに唱和してのけたことである。

 

 

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(この連中、正気なのか)


 交戦中の指揮官が、極度の興奮に衝き動かされて叫ぶのならば構わない。


 戦場は学生の決闘場ではないのだ。弾丸雨飛、交撃怒号の修羅場にあっては如何に恐怖すべき忍酷なる命令だろうと、これを残虐とは責められぬ。


 だがしかし、前線から遥かに遠く、生命の安全が担保され、冷静足り得る環境が十二分に整っているこのような場所では話は別だ。


暴戻にもほどがある)


 ベールマンは眉をひそめた。連中、アジア人を人間と看做していないのではあるまいか。


 その疑惑はハルピン到着後、いよいよ深められることになる。

 


 参謀本部附陸軍大佐某氏は、ハルピンに於いて、予及び某々露国通信員の目前にて、俘虜に対しては何らの憐情なしと公言した事があった。予は一層驚き怪しむだ。或る人は、斯かる事例をば恐らく酔余の語と為すであらう。然し露国新聞が日本人を人道に背反すと盛んに非難しつつ、露人自身斯かる有様であるのを見ては、之れを酔余の語とのみ黙認する事は出来ぬのである。(『戦記名著集 十一』503~504頁)

 


 要するに、ロシア人の想念に於ける日本人とは雑草か、いいとこ害虫に過ぎなかった。


 速やかに駆除して終わりだろう。そして我らはまた一段と領土を拡げ、栄光の階段を駈け上がる――。


 ところが、いざ蓋を開けてみればどうであろうか。害虫どころか、日本軍こそ猛虎の群も同然だった。


 彼らは戦えば必ず勝利し、破竹の勢いで満洲の曠野を攻め上る。ロシア人の衝撃は甚大だった。天地が覆るのを目の当たりにした、といっても言い過ぎにはあたるまい。かつて侮ったぶんだけ、彼らは日本軍を恐怖せねばならなくなった。


 それを象徴する椿事が、7月末のイルクーツクにて突発している。

 

 

Irkutsk-Passagirsky

Wikipediaより、イルクーツク旅客駅) 

 

 

 日本軍が遼陽へと集結しつつあるこの時分、ベールマンはハルピンを離れてこの地に在り、たまたま一部始終を目撃した。


 なんでもその日、「ソブラニー」なる倶楽部では盛んに賭け事が行われ、歓喜と失意が交錯し、ルーブル紙幣がめまぐるしく乱舞していたそうである。


 イルクーツクではごくありふれた光景といって差し支えない。


 常軌を逸しだしたのは、にわかに駈け込んで来た憲兵隊長の一言に因る。異様に引き攣った形相で、彼はこう喚いたのだ。


「日本人が攻めて来た」


 と――。

 


 憲兵隊長殿の親しく語る所に依れば、隊長はチタとイルクーツクとの間に於ける八ヶ所の地から公報を得た。其れから昨夜鉄道停車場と鉄橋との上に空中高く一二の軽気球飛行し、互に燈火の信号を交換し、且つ強力なる探照燈を放射して下界を測量するのを実見したとの報告に接したといふ。(478頁)

 

 

Prokudin-Gorskii-25

 (Wikipediaより、シベリア鉄道、カマ川を越える鉄橋)

 


 倶楽部はたちまち、灰神楽の立つような騒擾ぶりに見舞われた。


 混乱はあっという間に波及する。驚くべき素早さで、間もなく街中がこの一件を知るに至る。


 こうなってはもう駄目だ。噂が噂を呼んで、誰にも収拾がつけられなくなる。案の定、


「日本軍は気球に大砲を積んで空からの攻撃を敢行し、全市を破壊し鉄道を爆破する計画だ」


 噴飯ものの流言が、まことしやかに囁かれるという展開に。


 ベールマン以下記者連は、大別して四つの理由を提出し、これがまったくの戯言であると証明せんと試みた。

 


一、日本人はイルクーツクには何等の欲するところがない。
二、東京の参謀本部はロシアの参謀本部よりも詳密なる満洲及び東部シベリア地図を有するが故に、いまさら夜陰に乗じて測量製図を為す必要がない。
三、学者の説に依れば現今の軽気球を以ってして気球上から砲撃を行う事は全然不可能である。
四、現今未だそのような飛行自在の軽気球はない。

 


 常識的かつ精確な分析といっていい。


 が、むなしかった。過熱しきったロシア人の脳髄は記者や政府が鎮静策を施すほど、却って疑いを強める方に突っ走り、恐怖のあまり荷物をまとめ家族を連れて、西へ西へと疎開する者まで出はじめた。

 


 要するに目下軍事探偵の捜索は最も厳格を極め、日本人の勝利は人々の神経を悩殺する原因となったのである。曾て開戦の初めには人々は頗る日本人を軽蔑したが、今や日本人は何事も為し得ざる事なき者と思考され土中にも空中にも水中にも日本人が潜伏する如く考へられて、彼等を恐怖する状況はさながらモウエルホフ氏のガスパロン(筆者註、モーリス・ラヴェルの『ガスパール』か)と称する歌中にある如く天下到る所に日本人の伏在する地無きが如く思惟されて居る。(481頁)

 

 

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(東鶏冠山砲台跡)

 


 日露戦争の意義は、まことに重大と言わねばならない。


 それはまさに、世界史的な変革だった。人間たるを証明し、未来を切り拓いた一戦だった。この点、どんなに強調してもし過ぎるということはないだろう。

 

 

 

 

 


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裏側から見た日露戦争 ―ドイツ通信員の記録より―

 

※2022年4月より、ハーメルン様に転載させていただいております。

 

 帝政ドイツの通信員、マックス・ベールマンは呆然とした表情で、ハルピンの街頭に突っ立っていた。これはまことに、戦時下に於ける光景か。

 


 市内は到る処遊戯歓楽に耽り、二ヶ所の劇場は孰れも喜劇を演じて居り、舞踏場は孰れも醜業婦に充たされ、倶楽部といふ倶楽部は会員が集って盛に賭博に溺れ、幾枚の百ルーブル紙は惜し気もなく甲から乙に支払はれて居る。又路上には美服を纏ひ、盛装を凝らせる将校官吏の妻子等、華奢なる馬車を東西に馳せ、(中略)各所の飲食店内はシャンペンの流れ河をなすの有様であった。(『戦記名著集 十一』405頁)

 

 

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(話が違う)


 ベールマンが予てより想像していた戦地とは、こういうものでは断じてなかった。


 聴きたいのは客引きではなく突撃喇叭の音である。


 期待していたのは感奮決死の勇士たちの姿であって、飲む・打つ・買うの三拍子を極める以外に興味のない将校連や、穴の開いた靴を履き、肉の削げた頬をひっさげ、レストランやホテルの中まで物乞いに来る兵卒たちの惨状ではない。


 前線には程遠かれど、ハルピンとは満洲の関門、日露戦争に於けるロシア軍作戦地の脊髄にも喩うべき要衝なのだ。少しは硝煙の香りが漂ってきてもよさそうなのに、街に瀰漫しているのは商売女の化粧粉と、ケバケバしい香水と、こってり煮あげた支那料理の臭気のみとはどういうことか。


(俺は戦争を調べに来たんだ)


 歓楽街の乱痴気騒ぎの取材なぞ、頼まれてもするものか――と、わけもわからず叫び出したい気分に駆られた。


(さっさと前線に身を移したい)


 とは、当然のように念願している。


 少なくとも遼陽まで行かないことには話にならない。本来の任務を果たすなど、夢のまた夢であったろう。


 ところがその宿望を、露骨に妨害する勢力がある。この地を統べる、ロシア官憲そのものだった。

 


 欧州輿論の代表者たる吾等通信員は己の意志に反して、止むなくハルピンに抑留されて居る事最早六週間に及むだ。奉天遼陽の二頭司令部は吾等をして公益を計る事も、一己の私見を発表する事も共に許さなかった。(中略)吾等の嚢中は日々払底になり、胸中不愉快にのみ襲はれて結局愚に帰ると思ふ程である。(426頁)

 

 

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 極東ロシアと「抑留」の二文字の間には、よほど深い絆があるらしい。


 この地で受けた通信員への対応を、ベールマンは「囚人に対する仕打ち」と手厳しくも批難している。


 なにしろ街中で写真を撮ろうとカメラを取り出すや否や、たちまち憲兵がすっ飛んできて鬼のような形相でこれを禁ずる。その対応の早さから、少なくとも二人以上の人員を常に尾行させているとしか考えられない。


 また、ハルピンから発する電報はすべて、ロシア語で以って記すべしと規定されたのも業腹だった。どう考えても、検閲を容易にするためだろう。


(監獄学をよく応用していやアがる)


 苦っぽく笑う以外になかった。


 ところがある日、にわかに一つの快報が。


 これまで通信員に耳栓・目隠し・猿轡を強要していた当局が、急遽それらを取り払い、奉天への前進命令」を下したのである。

 

 

奉天大広場-全満洲名勝写真帖

Wikipediaより、奉天大広場) 

 


(さてこそ!)

 

 ベールマンの胸は弾んだ。


 もとより発行部数の栄誉のためなら命もいらぬ、特ダネ探して弾丸雨注もなんのそのな連中である。降って湧いたこの好機に、飛びつかない者はなかった。たちどころに通信員の大移動が展開される。

 


 然し移転と共に又艱難刻苦の時が来た。吾等が奉天に到着すると幾何いくばくもなくして遼陽に赴くべしとの命令に接したのである。既にして遼陽に至れば又奉天に帰るべしとの事、再び奉天に帰れば又してもハルピンに帰るべしと命ぜられたのであった。(427頁)

 


(これはいよいよ、囚人扱いも極まった)


 一連の無意義な往復を、ベールマンはそう解釈した。


 近世へと時代が進むに従って、監獄の在り方も変化する。単なる収容施設ではなく更生施設へ、部屋に閉じ込めておくばかりではなく、時には日に当て、運動をさせ、囚人の筋骨を満足させてやらねばなならない。


(そういうことだ)


 ただでさえ尽きかけていたロシア政府への愛想が、底を割った瞬間であろう。


 ベールマン一行の奉天・遼陽ピストン行に関して、とある参謀将校は以下の如くに弁明している。


「諸君は我が輩がまだ化粧を終らず、衣服を改めずに寝衣を着て居る時分に此の地に来たのである。願くば一ヶ月後に再び来給へ、其の時諸君は真に歓迎せられるだらう」


 既に戦端は開かれているにも拘らず、なんとのびやかな口吻だろう。


 案の定、突っ込みを入れる者が出た。


「寝衣が若し清潔であるならば、之れを改めずに客に接しても差支はあるまい」


 むろん、参謀将校は黙殺した。

 

 

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(ハルピン市、聖ソフィア教会)

 


 この一件の後、少なからぬ通信員が失意を胸に欧州へと引き揚げた。

 


 事是に至っては外国人通信員に行動の自由と言ふものは全然ないのである。されば苟も常識ある者は寧ろ本国に帰るに如かずと思ひ、吾等の内仏独人各二名及び米人一名都合五名は実際貴国の途に上った。此の他にも将に帰国せむとする者もある。加ふるに満洲は吾等にとって甚だ危険である。何となればウィーン某新聞通信員は二週間前奉天司令部より急遽帰国を命ぜられ、同地からモスクワに至る迄は沿道の憲兵に監視された。(448頁)

 


 が、ベールマンは諦めなかった。


 執念といっていい。


 彼はその後も「甚だ危険」な満洲に留まり、ハルピン―イルクーツク間を彷徨し、僅かながら漏れ聴こえてくる戦場音楽に耳を澄まし続けるのである。

 

 

文庫 戦争プロパガンダ10の法則 (草思社文庫)

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与謝野夫妻と山本実彦 ―屏風の歌に在りし日を偲ぶ―

 

 晩年、渋沢栄一は、論語を書きつけた屏風をつくり、その中で寝起きすることを何よりの愉快としたらしいが、改造社社長、山本実彦も似たような逸話を持っている。


 彼の場合、屏風に墨を入れたのは、与謝野鉄幹と晶子の夫妻に他ならなかった。

 

 

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(左から、晶子、鉄幹、山口知事、山本)

 


 数多に及ぶ日本の近代歌人群中に於いてなお、屈指の知名度を誇るであろうこの両名と山本は、実のところかなり深い縁で結ばれていた。大正八年、赤坂の三河屋なる料亭で雑誌「改造」創刊の祝宴を開いたときにも鉄幹の姿がちゃんとあり、

 

 

桃色に壁をぬらむと思ふなり
うつつなき身を投げてよるため

 


 の即興をものして贈ったというから、付き合いの長さが窺えるだろう。


 その返礼、というわけでもなかろうが。


 昭和四年、山本実彦は与謝野夫婦を鹿児島見物に招待している。霧島山を筆頭に各地の史跡・名勝を観光して廻る最中、山本は彼らに少しも不快な感を抱かせず、のびのび詩情に浸れるようにと甲斐甲斐しく心を砕いた。

 


 われわれが霧島山麓の栄之尾温泉についたのは七月二十三日の夕暮であった。(中略)与謝野さん夫妻は宿屋のかみしもをつけた待遇より、地方色を味ふことを喜ばれるので、私どもはできるだけその希望に副ふやうにつとめたのであった。たとへば栗飯や芋飯をたべさすことや、古びた黒ヂョカ(焼酎を温めるとき用ふる小薬缶の代用をなす土瓶)で芋焼酎を呑ましたり、箸戦ナンコ(短かい箸を一人で三本づつ用ゐて、二人一しょに拳中に匿して箸数のあてッこをして酒をのむ)をして見せたりしたことが、殊の外の喜びであった。(『人と自然』284~286頁)

 

 

Kirishima Onsen01n4592

Wikipediaより、霧島温泉郷) 

 


 山本も世間の荒波に散々揉まれた苦労人なだけあって、このあたりの接待技術は一廉のものといっていい。


 果たして効果は覿面だった。一行の栄之尾温泉滞在はたった四日の短きに過ぎなかったにも拘らず、その僅かな期間中、与謝野鉄幹103首、晶子の方は173首、霧島を題材にした歌をそれぞれ詠んだ。


 驚異的なレコードである。


 その中から特に秀逸な出来の句を手前勝手に撰んでみると、

 

 

霧島の雲あるたにはんの木に
まじりて赤し沙羅しゃらのむら立

沙羅の花おほなみ池へ行く路の
ふかき林の霧まじり散る

大浪の池の岩垣そのなかに
鳴きてこだます山ほととぎす

湯に打たれ荒木の小屋の片隅に
あぐらを組めば渓白みゆく

高千穂は中空にあり我が行くは
虹のいろする西の切厓きりざし

 


 だいたいこんなところであろう。

 

 

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(大浪池にて)

 


 一事が万事、この調子で、一行は膨大な数の歌を生産しながら旅路を進めた。


 山本の生家を訪ねたときは、

 

 

実彦がつねに語れる母刀自の
いまさぬ今日も家をだに見ん

大気なる我が実彦がをさなくて
物読みし家竹の涼しき
 


 昵懇ぶりをありありと示す、この二首を。


 川内せんだいを眺めては、

 

 

ほのぼのと川内川のゆふばえの
薔薇色をしてめぐりたる船

山すこし遠のくごとく夕空を
木立と橋のうへに置くかな

いと赤く大河のはての西海に
入る日を見つつわが涙おつ

ゆたかにも満ちたたへつつかつ動く
川内川の夕風を愛づ

 


 なお、鉄幹の句は黒色で、晶子の句は赤色で分けている点、諒解されたし。

 

 

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(川内川)

 


 斯くて出来上がった薩摩行の歌の束。帰京後山本は与謝野夫妻に特に頼んで、その中から各々100首ずつ撰んでもらい、綺羅星にも比すべきその歌群を、手ずから屏風に書いてもらった


 もし現存していれば、その価値は計り知れない域であろう。


 昭和十年、鉄幹が息を引き取り、通夜を終えたその晩も、山本はこの屏風をじっと見据えて、在りし日の追憶に没頭している。

 


 あの時分寛さん(筆者註、鉄幹の本名)は頑剛無比だった。暑いさかりにもかかはらず霊峰高千穂を踏破し、大浪池、蝦野ヶ原、白鳥山、四十八谷を跋渉して宿に帰ってからもすこしのくたびれも見せずわれわれと戯談に夜をふかし、芋焼酎を酌んだりされたものだった。そして与謝野さんが山に登らるる前夜、私は絹茸にあてられてひどい腹痛を覚え同伴ができなくて、却って客人たる両人から夜遅くまで慰問されたことをまざまざと思ひ出すのだ。(286~287頁)

 

 

吉兆宝山 [ 焼酎 25度 鹿児島県 720ml ]
 

 

 

 

 
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昭和十一年の森林窃盗 ―山本実彦の記録から―


 改造社の文庫本なら、私も何冊か持っている。


 例えば、ここに掲げた二冊。菊池寛の『無名作家の日記 他二十三篇』に、横井時冬『日本商業史』

 

 

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 手に取ると、紙とは異なる滑らかな触感が伝わってくる。よく磨き上げられた胡桃の殻が、あるいは近しいやもしれぬ。


 改造文庫は昭和四年に創刊し、同十九年に幕を下ろしたシリーズだ。あの時代にプラスチックなどある筈もなし。この手触りは、すなわち布張りゆえのそれだろう。


 岩波文庫との差別化を図り、あつらえられたこの工夫。だいぶヘタりつつあるといえども、その特徴は未だ失われてきっていないのだ。


 この文庫の出版元――改造社が誕生したのは大正八年、欧州大戦終結の年まで遡る。


 鹿児島の雄、山本実彦を中心としてのことだった。

 

 

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(後ろ姿の山本実彦)

 


 私は目下、この山本が昭和十二年に世に著した、『人と自然』という題名の本を読んでいる。


 そこから汲み取れることは、どうやらこの人、かなりの旅好きだったらしい。


 北海道の阿寒湖でマリモを観察したかと思えば、態々冬季の金精峠に挑戦し、大島では三原山の火口を眺め、小金井の夜桜に陶然とする――。


 そうした紀行文の類が、本書の大半を占めている。


 特に印象的だったのは、雌阿寒岳に登った際の一幕だ。北海道東部、釧路市足寄町に悠々と跨る標高1499mの活火山。蚊軍の襲撃に苦しめられつつ、その五合目までなんとか登りつめた山本は、山小屋を発見したのを幸い、一息つこうと扉を開ける。


 しかしながら中で彼を待っていたのは、意想外にもほどがある光景だった。

 


 だまりこくった山の監守が独りで何か懸命に書きものをしてをる。それは登山者の住所名簿であったが、何がためにそんなものをつくらねばならないのか。登山者のうちの不心得者が高山植物を盗取するのが多いため、わざわざねずの番を置いてあることがわかった。日頃のもやもやする俗念を清浄するための山登りである私に、山の上でも紳士の泥棒があることや、醜い生の闘争への場面をきかされて不愉快な思ひをさせられた。(20頁)

 

 

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雌阿寒岳遠景)

 


 高山植物の盗掘は、現代日本社会に於いても有志の頭を悩ませる、深刻な問題の一つである。


 登山中、たまたま目についた美しい花。


 記念にと深い思慮なく手を伸ばす。


 そうした「おみやげ盗掘」もあれば、端から転売目的で道具を携え入山し、文字通り「根こそぎ」持って行く不届き者も後を絶たない。2017年の福島県では、浄土平に100ヶ所以上の盗掘跡が確認された。


 インターネットの普及によって販路もまた拡大し、誰もが下手人になり得る現代いまと違って、山本実彦の昔に於いては大抵犯人は知れていた。案の定と言うべきか、植木屋に多かったそうである。


 大方得意の資産家にでも売り込んで、小金を稼いでいたのだろう。


 この連中は、多くの場合、団体で来た。


「御来光を拝むのだ」


 そう言い繕って夜の間に山へと入り、闇に紛れて大仕掛けに盗ってゆく。そのやり口をこんこんと聞き知った山本は、


「心の曲ったものはかくて山の太陽すらも冒涜するのだ」


 と、憤りを露わにしている。

 

 

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 (Wikipediaより、雌阿寒岳と阿寒富士)

 


 暗視装置を積み込んだヘリコプターが空からの巡回を行っている、今日の北海道を知ったなら、山本の腹立ちも少しは紛れるだろうか。


 いや、案外逆に、一段と辟易を募らせそうだ。そうまでせねばこの犯罪を止められないのか、山の自然を破壊して、種を絶滅の危機に追いやってまでみずからの懐を肥やさんとする、さもしい人間性の持ち主が、まだそんなにも多いのか、と――。


「人間の金に対する欲心は、愛国心よりも強い」。


 三土忠造の言葉だ。


 高橋是清の薫陶を受けた彼である。


 大いにもっともと言わねばならない。愛国心に於いて既に然り、いわんや自然愛に於いてをや、だ。

 

 


 山本実彦はこの後も、六~七合目の間あたりで入り込んだ石室に於いて、ビール瓶や弁当の包みがそこいらじゅうに散乱している「正視するにたへない狼藉ぶり」に遭遇し、


 ――これで山の道徳もすさまじい。


 と、心の底から嘆息している。

 

 

  

 

 


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迷信百科 ―自殺者の魂、その行方―


 なにゆえ人は、みずから命を絶ってはならぬのか?


 この命題に、過去多くの民族が、


 ――自殺者の魂は、決して極楽に往けないからだ。


 と回答してきた。


 彼らに死後の安息なぞは訪れず、殺人犯や強姦魔――恥を知らない人面獣心の罪人どもと同様に、地獄の底で獄吏どもからむごたらしい業罰を受ける破目になるからだ、と。

 

 

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 恫喝であろう。


 恐怖心を刺激して特定の行動を抑止するのは一般的で、それだけに効果的な方法だ。


 あるいは自殺を呪いの一種と認定し、その亡魂は鬼となり、土地に災いを齎すと信じた手合いも少なくなかった。


 アラバマ・インディアンなどもそのクチで、部族の中から自殺者が出るとその理由如何に拘らず、即座に死骸を河川に投げ込む古俗があった。


 決して埋葬はしない。


 死霊が自身の骸をよすがに、のこのこ地獄から這い出て来ては困るからだ。水の流れで穢れを雪ぎ、後難を避けようとするあたり、どこか神道にも通ずる発想で趣深い。


 カンボジアの奥地に住まう先住民族の間でも、また似通った事情から、自殺者の屍は祖先の墓に入れることをよしとせず、ジャングルの奥深くに投げ棄てて、獣が喰うに任せたという。

 


 なにもこうした風習は、世に云う「未開部族」の間でのみ通用してきた迷信ではない。

 


 哲学者にして人類学者、フィンランドヘルシンキの産、エドワード・ウェスターマークの調査によれば、ヨーロッパでもある時期までは遺憾なく行われてきたものだった。

 

 

Edward westermarck

 (Wikipediaより、ウェスターマーク)

 


 スコットランドエディンバラでは1598年まで入水自殺した女性の死体を――ぶくぶくに膨れ、ともすれば遺族の眼を以ってすら面影を発見し難いその物体を――市中引き回しにした上に、絞首台に晒すという酷烈無惨なならわし・・・・があった。

 

 自殺を「国家に対する罪悪なり」と規定した、古代ギリシャの思潮を継承するものだろう。罪には報いがなければならない。次なる罪の発生を抑止するため、わかりやすくおそろしい報いが。


 そこから北西、北大西洋に面した漁村群では、自殺者の霊が海と田畑に飢饉を呼び込むと信ぜられ、その遺体は何処か山奥、海も田畑も決して見えない展望の悪い場所に埋められたという。


 また、やはりスコットランドの一地方では、首をくくるなり手首を切るなり、兎にも角にも家の中にて自殺した者が出た場合、そいつの死体を運び出すのに、ドアの使用を厳禁した区域もあった。


 ドアという、正しい・・・出入りの経路を採ると、死霊がそれを記憶して、帰って来てしまうという危惧による。


 かといって死体をそのまま放置して、腐るに任せるなど論外の沙汰。


 では、どうするのかというと――単純明快、壁に穴をぶち開ければよい。


 搬出作業後、穴は手早く埋められる。後々になってよしんば死者が彷徨い出ても、こうしておけばその足取りは壁の前で止められて、家の中には入れないと、彼らは信じていたようだ。

 

 

Edinburgh Castle from the south east

 (Wikipediaより、エディンバラ城

 


 祟りを避けるためだけに斯くも七面倒な手順を踏んで、少なからぬ工費を費やす。


 人類進歩の軌跡とは一直線では有り得なく、足踏みしたり、右往左往の屈曲に満ち満ちていると、つくづく実感させられる。

 

 

貞子vs伽椰子

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大震災下のビブリオマニア ―穴を掘る者、阿部秀助―

 

 由々しき事態が進行している。


 未読の古書が切れそうなのだ。


 世に垂れ込める大暗雲、忌々しいコロナ禍により、贔屓にしている神保町の古書店が、片っ端から休業していることに因る。日本どころか世界でも有数だった「本の街」は、今や繕いようのないシャッター通りと化してしまった。

 

 

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 事態が更に長期化すれば、二度と再びシャッターを上げられなくなる――店を畳まなければならなくなるケースとて出現あらわれそうな形勢だとか。書痴の端くれを気取る私にとって、この現実は甚だ辛い。なんたることかと首を左右に振りたくもなる。

 若葉萌え、生命の勢いづく季節というに、私の視界は色彩を奪われたような寂しさだ。


 仕方がないので、同じ書痴の話でもして気分を紛らわすことにしよう。大正十二年九月一日相模湾北西部を震源として発生した、マグニチュード7.8の巨大地震――関東大震災の、まさに只中。


 文京区は弥生町の一角で、突如奇妙な振る舞いに及んだ人物がいた。


 向こう鉢巻き、尻からげという格好で、血眼になってシャベルをふるい、庭の地面を掘り返すのは阿部秀助なる四十男。道路工事の人足めいた姿であるが、本来の彼は慶応義塾大学教授、堂々たる経済史学者に紛れもない。

 

 

Keio University Library,1912

 (Wikipediaより、明治45年の慶應義塾

 


 頭脳労働専門の彼が、なにゆえ避難もそっちのけにして、似合わぬ筋肉労働に耽っているのか?


 知れたこと、蔵書を守護まもり抜かんがためである。


 同じく慶應義塾の経済学者、高橋誠一郎の証言に依れば、この時点で教授が個人所有していた書籍の数は、ゆうに三千冊を超えたらしい。天井を摩し、礎石さえも沈ませかねない、この「知」と「文化」の結晶が、建物の倒壊や火災といったつまらぬ事情で失われるなどあってはならない悲劇であろう。

 

 思うだに胸が張り裂ける。

 人力の及ぶ限りを尽くして防がねばならない。


 そう覚悟したればこそ阿部秀助は、余震の恐怖も呑み込んで、庭に穴を掘っていたのだ――三千冊すべてを埋め切れるだけの大穴を。

  

 

Takahashi Seiichiro1

 (Wikipediaより、高橋誠一郎

 


「危地に於いてこそ人の地金は露れる」とは、俗間に広く伝わるロジックである。


 その筆法に則るのなら、阿部秀助という人は、筋金入りのビブリオマニアであることをこれ以上ないほど見事に証明してのけた。真に尊敬すべき先達である。


『近世商業史』『総合経済地理』等々、阿部秀助のによる書籍は数多いという。


 コロナ禍が明けた暁には、神保町をブラつくついで、探してみるのもいいだろう。嗚呼本当に、早く終熄せぬものか。

 

 

 

 

 


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ロシアンセーブル物語 ―シベリア開発を支えた毛皮―

 

 黒貂くろてんこそは、実にシベリアを象徴する野生獣でなければならない。


 ロシア人の東進にかける熱情は、屡々「本能の域」と評された。「不可避的傾向」とみずから告白したこともある。なるほど僅か100年前後の短期間中にウラル以東の無限に等しいあの曠野を征服し、オホーツク沿岸にぶちあたってもまだ飽き足らず、ついにはベーリング海峡を押し渡ってアラスカまで進出してのけたあたりをみるに、その貪婪な欲念は、もはや妄執の相すら帯びつつあったといってよかろう。

 

 

BeringSt-close-VE

 (Wikipediaより、ベーリング海峡

 


 シベリアは過酷な環境だが、何もまったき無人境というわけではない。


 土着の先住民族がそこかしこに点在し、中には「王国」を名乗る大規模集団さえ存在していた。「シベリア」という名称自体、その国名の借用に過ぎぬと主張する声もあるという。


 そんな彼らを、征服者たるロシア人がどう扱ったか。


 ひとえ「苛烈」の二文字に尽きている。

 


 ロシアのシベリア政略は、その規模においても、その謀略においても、数ある白人の罪悪史中では、イギリスの海上発展と共に、有色人種に加へられた白人帝国主義の双璧だと喝破した論者もあるが、これは断じて酷評ではないと思ふ。(『シベリアの自然と文化』86頁)

 


 ロシア人たちは容赦がなかった。


 自身の征路を塞がんとする不届き者に対しては、常に「ほとんど信じられない暴行と破壊」を加えたという。


 数える気力も無くなるほどの屍が積まれ、価値あるすべてが略奪された。


 そうして半死半生に陥っている土着民の頭上には、更に納税の義務が降り落ちてきたからたまらない。


 この新税の中、特に重視されたのが、ヤサークと呼ばれる現物税。当時のシベリアでは無尽蔵に捕まえられた、黒貂の毛皮を納めよというに他ならなかった。

 

 

Sables

 (Wikipediaより、黒貂)

 


 体長せいぜい半メートルほど、肉もさして多くないこのいきものの毛皮はしかし、類稀なる手触りと光沢に恵まれており、非常に古くから高級品として珍重された。


 ヨーロッパの市場に持ち込めば、たちどころに金貨の山に化けたろう。事実、帝政ロシア年間収入の三分の一を、この黒貂の毛皮が担っていた時期もある。


「ロシアのシベリア開発は黒貂によって支えられた」


 とか、


「ロシア人は黒貂を追って、シベリアを奥へ奥へと進んでいった」


 とかいった数々の評価も、あながち的外れではないわけだ。


 それだけにその乱獲ぶりは燎原の火に匹敵するものがあり、黒貂はどんどん個体数と生息域を縮小してゆく憂き目に遭った。


 1900年には5万枚の毛皮がモスクワに届けられたと記録にあるが、この数字とて最盛期から比べれば、よほど目減りしているだろう。欧州大戦前夜にまで時計の針を進めると、これが更に先細りして、1万枚に届くかどうかというところにまで落ちている。


 シベリア鉄道の完成により、輸送の手間は遥かに緩和されたのにも拘らず、だ。いよいよ枯渇の気配が感ぜられて痛ましい。

 


 最近にはこの貴重な動物が殆んど根こそぎされて、カマ及びペチョラ両河の上流、西部シベリアの北方、時々は東部シベリアの森林中に発見する位だ。その他では、シベリア南部の山中から狩り出すこともあるやうだが。(274頁)

 


 いずれにせよ、微々たるものだ――と、尾瀬敬止も嘆息しながら書いている。

 

 

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(A・コワリスキー画、猟人)

 


 シベリア産の黒貂の毛皮はロシアンセーブルの名で知られ、現在でも毛皮の中の毛皮、文句なしの最高級品として熱烈に持て囃されている。

 

 

シベリア最深紀行――知られざる大地への七つの旅

シベリア最深紀行――知られざる大地への七つの旅

  • 作者:中村 逸郎
  • 発売日: 2016/02/19
  • メディア: 単行本
 

 

 

 


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