東郷平八郎が乃木希典を第三軍司令部に訪問したのは、明治三十七年十二月十九日のことだった。
このとき、旅順要塞は未だ陥落していない。
が、港湾内のロシア艦隊。こちらの方はほぼほぼ海の藻屑と化しきって、長く続いた攻囲戦にもどうやら一定の目処は立ちつつあった。
そういう時局下に、二人は顔を合わせている。
暫くの間、双方一言もなかったという。
こみ上げてくるものが多過ぎたのだ。
最初は二人とも言葉が出なくてな。唯、黙って手を握り合っただけよ。全く感慨無量ぢゃった。乃木は実によく戦った、最善を盡して戦ってゐたのぢゃ。可哀さうに伜二人まで戦死させて…乃木は全くいゝ男ぢゃった(昭和十年刊行、安部真造著『東郷元帥直話集』130頁)
(乃木と東郷、英国へ向かう船上にて)
会見後、包囲を続ける乃木を背に、東郷はいったん本土へ戻った。
宮城にて、明治大帝にこれまでの海戦の経過をつぶさに伏奏。その任を遂げ、再び戦地に赴く前に、
――せっかくだから。
ということで、同郷の上村彦之丞を誘い、二人して乃木の留守宅を訪れ、奥方の様子を見舞っている。
急な訪問に、しかし静子夫人は快く応対してくれた。
三方に盃を載せ持って来て、手ずから銚子を傾けて、
「お祝い申し上げます」
どうぞ一献、とすすめてくれる。
(なるほど、乃木の伴侶なだけはある)
質素ながらも心づくしなもてなしに、しみじみ感じ入るものがあった。
そこで
「伜共もどうやら御国に盡す事ができましたので何より本懐に存じます。又、これで戦死した沢山の兵士の父兄の方々にも申訳が立つやうにも存ぜられ、せめての心慰めでございます」
かう健気に云ったが、実に烈女であると感心したよ(129~130頁)
(Wikipediaより、乃木静子)
烈女。――
東郷平八郎の周囲には、この二文字を以って表される型の女性が多い。少なくとも私の目にはそのように印象されている。
第一、母親からして
以来、子宝にも恵まれて、41歳までの間に五男一女をもうけている。
そのひとりひとりを、益子は誠心誠意愛情籠めて撫育した。
夜分用事があって愛児達の寝室を通る時も、刀自は決してその枕元は通らず、必ず、足元を迂回した。将来、御国の為に、忠節を盡すべき大事な子等の頭上を歩む如きは之を軽んずることゝなるから、親といへども慎むべきだ、と自らを戒め、且つ愛児等に自重の念を起こさしむるに努めたといふのは有名な話である。(16頁)
「感化」こそが教育の要諦であると、この人はどうやら知っていたらしい。
毎朝この母に髪を整えてもらったことも、平八郎にはかけがえのない記憶となった。
母は清水で手を清め、兄から順々に梳るのであったが、刀自は、一人一人、必ず新しい元結でしっかと結び、我子等が世俗の汚れに染まらぬやう、心から祈願をこめたので、その母の温き心の訓へに少年達は感涙に咽んだといふ事である。(同上)
が、それからの益子の前途には、その愛児たちのほとんど全部に先立たれるというとてつもない試練が待っていた。
(東郷益子)
長女・次男は共に夭折、三男壮九郎実次は西南の役で西郷方に附き、奮戦して勇名を馳せたが城山の戦いでとうとう討死。
五男の四郎左衛門実武はというと、若干17歳にして戊辰戦争に従軍し、会津若松城を攻めたが陣中悪疫を罹患して、そのまま儚くなってしまった。
結局のところ、長生したのは長男四郎兵衛実猗と、四男仲五郎実良のただ二人。このうち長男四郎兵衛は、三男壮九郎と同様に西南の役では西郷方に身を投じ、辛うじて命は拾ったものの、
――ひとたび叛軍についた以上は。
今更勤めも恐れ入る、と、こういう理屈で身を慎んで、如何に周囲から勧められても二度と再び表舞台に上がろうとせず、郷里鹿児島に逼塞したまま明治二十年に朽ちている。
東郷益子は同三十四年まで生きたから、またしても我が子の遺骸を見送らなければならなくなったというわけだ。
彼女が遺して逝けたのは、ただひとり四男仲五郎実良――後に海軍の「神」と仰がれ、日本全国誰一人として知らぬ者のいなくなる、平八郎のみであったというこの事実。
「母は苦しかったことじゃろう」
いかにも厳かな、沈痛を交えた表情で、「沈黙の提督」は呟いている。
平八郎が安部真造に語ったところに依るならば、三男壮九郎が戦死した折、大勢の戦友たちといっしょくたに「仮埋め」された息子の遺骸を、彼女はなんと、素手で掘り起こしたそうである。
「鍬で掘って、我子の遺骸にその先でも触れては可哀そうだと思ったのじゃろう」
母の心中を、元帥はそのように解読した。
余人を交えず、我が両の手のみでひたすらに土を掻いたので、たちまち指は血だらけになった。
が、当時の益子にとって肉体的苦痛などがなんであろう。やがて毛布に包まれた壮九郎を発見し、東郷家の墓所に持ち帰って鄭重に埋葬したときやっと、わずかながら安んずることが出来たという。
(Wikipediaより、城山の戦い)
驚くべきは、これほどの目に遭ってなお、彼女が西郷隆盛を少しも怨んだ気配がないということだ。
そういう湿っぽい感情を、益子はおくびにも出さなかった。
朝軍に抗した罪はいか様に弁ずるとも免れぬところであるが、西郷先生の御志は決して一身の利害の為ではなかったと思ふ。他日の正論はよく西郷先生の御心底を明らかにするであらう。それはともあれ、たとへ賊名を負へばとて、一生の恩人に殉じた我子のことを思へば、親としては萬斛の涙なくてはならぬ。(18頁)
よほど人間が練れていなくば、上の言葉は出てこない。
「武家の女」の、その精華と呼んでいいのではなかろうか。子は親を映す鏡と云う使い古された格言が、途端に新鮮な舌触りを帯びてくる。まさしくこの母にしてこの子あり、だ。
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