穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ヒトラーとメタクサス ―「平和的解決」を望んだ人々―

 

 前回までの流れを汲んで、もう少しギリシャ・イタリア戦争を眺めたい。


 初戦に於いて、ギリシャは確かに勝利した。


 それもただの勝ちではない、快勝だ。雪崩れ込んで来たイタリア軍を国境外へ叩き出し、更にアルバニア南部までをも占領する大戦果。


 しかしながらギリシャの首相、イオアニス・メタクサは知っていた。自分たちは、既に限界に達したのだと。

 

 

Ioannis Metaxas 1937

Wikipediaより、 イオアニス・メタクサス首相)

 


 当時のギリシャの人口はおよそ580万人。ここから捻出可能な戦力は、無理に無理を重ねたところで23個師団が限界だろうと大屋久寿雄は推定している。実際1941年4月30日の敗戦までにギリシャが動員した兵数は43万人とされ、一個師団を構成する人数が1万から2万人の間である事実と突き合わせて考えれば、大屋の見立ては決して的外れなものでない。


 これではとても戦線を更に拡大し、イタリア本土を衝いてムッソリーニ「城下の盟」を結ばせることなど出来はしない。


 現状維持が精一杯で、それでさえも日を追うごとにみるみる国力が摩耗してゆき、あちこちから悲鳴が噴出しつつある始末。


 おまけに頭上のルーマニアに集結中のドイツ軍ときたらどうであろう。数の膨大さもさることながら、練度に至っては異常の一言。イタリア一国相手ですら窒息しかかっている現状に、更にあんなものまで降り落ちて来ればどうなるか、結果はあまりにも目に見えていた。

 

 

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 こうなってしまえば、メタクサス首相が選べる道は二つに一つ。すなわち、

 


 英国の更に積極的な援助を得て、徹底的交戦に運命を賭するか、イタリアに対する勝利の栄冠をせめてもの自己慰安として、空しく枢軸の軍門に降るか。ギリシャは今や二者択一の重大岐路に直面したのである。(『バルカン近東の戦時外交』207頁)

 


 総玉砕か降伏か。どちらを選んでも碌な未来が待っているとは思えない。


 それでもなお、メタクサスは選ばなければならなかった。彼は一国の安危を司る首相である。どんなに追い詰められようと、「最悪の中の最善」を追求すべく全霊を注ぐ義務がある。


 果たしてメタクサスが選んだのはどちらの道であったのか。


 それは1941年1月初頭チャーチルギリシャに援軍を送ろうと申し出た際、辞儀は丁寧に繕いつつもあくまでこれを峻拒したメタクサスの姿勢を見れば、おおよそ察しはつくだろう。

 


 彼はドイツを仲介者に立て、イタリアと和睦しようとしていた。

 


 むろん、その代償として連合から枢軸への寝返りを余儀なくされるが、事ここに至っては已むを得ない。


 ヒトラーとしても、このメタクサスの姿勢に否はなかった。それどころか諸手を挙げて歓迎したいほどである。

 


 昨日までは最も忠実な英国の走狗として立ち働いたギリシャが、自発的に英国を去って、枢軸の陣営に降ったといふ事実が国際政局に与へる印象が、如何程独・伊側にとって有利なものであったかは想像以上であろう。(214頁)

 


 戦端を開くよりも和睦の仲立ちをした方が、明らかに政略上の利益が大きい。ヒトラーの秤は正確だった。

 

 

Bundesarchiv Bild 183-H1216-0500-002, Adolf Hitler

Wikipediaより、アドルフ・ヒトラー

 

 

 彼はギリシャ問題の平和的解決を熱烈に求めた。この点に於いて大屋久寿雄とデイヴィット・アーヴィングの観測は一致している。

 


 彼はギリシアに何の下心も持たなかったから、ギリシアが侵略者イタリアを追い出した以上、客人のイギリスも同じく出て行き、そうしてギリシアに対する“マリータ”作戦を取り消すことができるのを熱烈に希望した。彼はカナーリス提督を通じ、スペインとハンガリーの曖昧な外交通路を使って、ギリシアとイタリアの調停をしようと申し出た(『ヒトラーの戦争 1』368頁)

 


 しかしながら、ヒトラーの努力は結局のところ水泡に帰す。


 何故、彼は失敗したのか。


 その原因は、メタクサス首相の前触れなき死に見出せる。

 


 一月二十九日早朝、メタクサス首相は突然、大木の倒れるが如く突如として急逝したのである。公式には十数日以来疲労と尿毒症で病臥中であったが、突如やまいあらたまり急逝した、と発表されたが、時が時であり、環境が環境だったので、その日のうちにある種の疑惑がバルカン政界に電波の如く伝わった。(『バルカン近東の戦時外交』210頁)

 


 この「疑惑」とは、詰まることろ暗殺疑惑だ。


 誰がそれを、などというのは愚問に属する。彼が死に、ドイツの望む和平工作が頓挫すれば、一番喜ぶのは誰か、考えてもみるがいい。


 当然、いの一番に大英帝国の名が浮かぶ。

 

 

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 大屋久寿雄はこのあたりの機微を、「ドイツの欲するところが英国の好まざるところであるのは理の当然である」と表現している。


 更に大屋は先年11月に親独的なエジプト首脳部、ハッサン・サブリとサリフ陸相が相次いで急逝した一件に改めて触れ、枢軸側に寝返ろうとした人々がまるで呪いのように次々と死ぬこの現象の不自然さを指摘。「エジプトの場合とギリシャの場合と、その事情と言ひ環境と言ひ、あまりにも酷似してゐるのに、偶然の一致にしてはあまりの符合をただ不思議に思ふのである」と皮肉っぽく書いている。


 なお、メタクサス危篤の報を公使館から伝達されたドイツでは、その病状を見舞うべく、態々飛行機を仕立ててまで専門医をウィーンから派遣している。残念ながらこの医師が到着したとき、既にメタクサスは息を引き取っていたのだが、この一事からでもヒトラーが如何に彼を重要視していたかがわかるだろう。

 


 生前、メタクサスはギリシャを半ば独裁的に支配していた。

 


 その彼が突然死んだことにより、発生した社会的混乱の大きさは察するに余りあるといっていい。


 その混乱につけ入るように、イギリスは1月初頭に拒絶された援軍を、ここぞとばかりに送り込んだ。旗幟は鮮明に示されたのだ。メタクサスの後任で、生前彼の親友でもあったアレクサンドロス・コリジスは、その就任に当たって


メタクサス首相の偉大な事業と公正な政策とを、ただそのまま、忠実に踏襲して行くつもりである」


 と宣言したそうであるが、この声明がどこまで守られたかは大いに疑問の余地があろう。

 

 

AlexandrosKoryzis--P02018.027

 (Wikipediaより、アレクサンドロス・コリジス)

 


 結局、ヒトラーの熱望した「平和的解決」は実現せず、ドイツは1941年4月6日、“マリータ”と名付けられたギリシャ攻撃作戦を発動。僅か24日にして、イタリアがあれほど攻めあぐんだギリシャを陥落させた。


 これを大局的に俯瞰して、「イギリスの一人勝ち」と判断したのは日本人では大屋久寿雄のみだったに違いない。

 


 ギリシャが平和的手段によって枢軸陣に抱き込まれることだけは、何としても妨害しなければならぬと英国は考へたであらう。(中略)事態は愈々全面戦争へと拡大して来たのであるが、英国はまかり間違っても、例へばノルウェー作戦の時の如くギリシャを徹底的に破壊するといふ目的だけは達成することであらう。(214~215頁)

 


 ギリシャは確かに敗北した。


 しかしながらその敗北は、「迫り来る邪悪なファシズムの大波」に最後の一兵まで抵抗した「民主主義への殉教」と華々しく彩られ、目には見えない巨大な利益をイギリスに与えた。

 

 

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 老獪、これに過ぐるものはない。

 


 進撃以来僅か十日、独・伊軍は破竹の勢ひで、ユーゴを席捲し、ギリシャを蹂躙してをり、英国派遣軍は早くも退却の準備を急いでゐるが、しかし、英国は敗退してもまた、ナルヴィクやダンケルクの時と同様、「我勝てり」と叫ぶであらう。最初から「破壊することが目的」だったのだから。(276頁)

 


 日本中がナチスドイツの快進撃に浮かれる中で、その熱狂にすこしも和せず、秋の湖水さながらに澄み切った観察眼を光らせて、この文章をしたためた大屋の器量も凄まじい。


 いつの時代も、人物というのは居るものだ。

 

 

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ムッソリーニの大誤算 ―ギリシャ・イタリア戦争の内幕―

 

 ギリシャ海運で栄えた国である。


 国内にこれといって見るべき産業を持たない彼の国が、それでも富を求めるならばそれ以外の選択肢はなかったろう。アサシンクリード オデッセイ』中で描かれたように、遥か紀元前の古代から優れた造船技術を有し、美しきこと翠玉を溶き流したかの如きエーゲ海を自由自在に漕ぎ廻った、先祖の伝統に忠実であるしか――。


 このあたりの事情は、実は現代でも変わらない。保有船舶量を眺めればたちどころに瞭然たるべきことである。2017年のデータになるが、ギリシャ保有船舶量は三億九百万トンと、二位日本の二億二千四百万トンに大きく差をつけ、世界一位の栄冠を恣にしているのだ。

 

 

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エーゲ海ギリシャの街並み)

 


 もっとも如何に多くの船を持っていたところで、航路の無事が確保されねば何にもならない。
 こと近世ヨーロッパに於いて、それはイギリスとの親善なしには絶対に成り立たないものだった。


 なにしろ大英帝国は、「七つの海を支配」するほど強大な海軍力を持っている。その機嫌を損ねたが最後、ギリシャの船など一隻も港から出られなくなり、虚しく船底をフナクイムシに喰わせる以外なくなるだろう。


 よって、「その外交は伝統的に英国依存であった(『バルカン近東の戦時外交』190頁)


 第二次世界大戦の火蓋が切られた瞬間もこの関係に変動はなく、必然として戦火を被らざるを得ない。


 案の定、1940年10月28日イタリアから最後通牒が叩きつけられる破目になる。


 この最後通牒でイタリアは、ギリシャが表向き中立を標榜しながらその裏で、イギリス海軍に根拠地提供の利便を与えたことを指摘しており、再三警告したにも拘らず依然改める風がないと猛烈に批難、この上は武力に訴えるほかないと自己正当化を試みている。


 ギリシャギリシャでこの最後通牒を事実無根の言いがかりと強弁、すべてイタリアの捏造だと主張したが、前述の対英関係を鑑みる限りまんざら有り得ないことでもなさそうである。


 まあ、いずれにせよ真実は歴史の闇の中である。確かなことはギリシャがこの最後通牒を蹴り飛ばし、その三時間後にはギリシャアルバニア国境に集結していたイタリア軍が侵攻を開始したということだ。

 

 

Benito Mussolini (primo piano)

 (Wikipediaより、ベニート・ムッソリーニ

 


 大方の予想を裏切って、ギリシャは実によく戦った。侵入してきたイタリア軍あっという間に叩き出し、しかもそれのみにとどまらず、アルバニアへ逆侵攻をかけ12月中旬までの間に同地の四分の一を占領するという大戦果。


 この奇蹟に、全世界が目を見張ったものである。


 面白いのは不覚をとった当のイタリアの反応だ。同盟通信社の特派員・屋久寿雄は当時の国内情勢を、次のように書いている。

 


 イタリアのギリシャ作戦失敗が決定的なものとなった時、多くのイタリア人は当時のギリシャ駐在イタリア公使グラッツィを銃殺に附すべきであると激昂して叫んだ。一部ではグラッツィ公使の処刑説すら伝へられた。更にチャーノ外相が外相としての公職の傍ら、一航空少佐として前線に出動した事実を捉へて、彼の失脚であり、懲罰であるとする説も行はれた。(199頁)

 


 何故、斯くも凄まじき批難が外務省に寄せられたのか。


 それは開戦前この連中が、ギリシャには十分離間工作を施しており、イタリア軍が進撃すればそれだけでもう街道沿いのギリシャ人というギリシャ人は寝返りを打ち、美女に囲まれ美食と美酒でもてなされ、さながら赤絨毯の上を歩くような快適さで首都までたどり着けるだろうと宣伝していたからだという。

 


 グラッツィはイタリアの対ギリシャ政策決定といふ重大国策決定に際し、「イタリアにして断乎たる態度に出るならば、ギリシャは論なく、無抵抗でその要求の前に屈するであらう」と言ふやうな趣旨の報告のみを寄せてゐたと、イタリア人は憤慨するのである。更に或る者は一歩を進めて、「若しギリシャが不明にして抵抗の挙に出るやうなことがあれば、かねて工作懐柔してをいた反政府組織が即時蹶起して、クーデターを敢行し、以ってイタリアの作戦に協力する筈だから、何れにせよイタリアの要求貫徹はさして困難でない」といふやうな確信に満ちた報告もなされた、と言ふのである。(200~201頁)

 

 

Galeazzo Ciano01

 (Wikipediaより、外務大臣ガレアッツオ・チャーノ)

 


 もしこれが真実だとするならば、エマヌエーレ・グラッツィという人物は職務の重責に堪えかねてとうに精神を破綻させていたに違いない。


 輝かしき成果を次々と、しかもイタリアへの事前相談なく独断で打ち立ててゆくヒトラーに、かねてより忸怩たる思いを味わっていたムッソリーニである。


 狂人グラッツィの甘言は、たまらなく魅力的に聴こえただろう。今度こそはこの俺が、ヒトラーの鼻をあかしてやれると。


 実際イタリアのギリシャ侵攻はまったく彼一手で計画され、行われ、ドイツにさえも直前まで伏せられていたがために協調を欠くこと甚だしく、それどころか仰天したヒトラーが慌てて制止したにも拘らず、顧みる気配もなく独走したムッソリーニヒトラーは強烈な不快感を催したという。


 これはデイヴィット・アーヴィングの名著ヒトラーの戦争』にも該当する記述があることで、

 


 ムッソリーニきにすべて終わると楽観的だったが、ヒトラーのスタッフのだれひとりとして、このギリシア冒険を第一級の規模の戦略的誤謬だと思わない者はなかった。ヒトラーの副官のひとりは、ヒトラーが「すべてのドイツの連絡スタッフと大使館付武官をののしり、彼らは周辺の高級レストランに通じているが、世界で最悪のスパイだ」といったと記し、「これで彼の考えている多くの計画がおじゃんになる」とほのめかした。(『ヒトラーの戦争 1』335~336頁)

 

 

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 ムッソリーニがこのとき見せた楽観が、ともすれば外務省から齎されたご都合主義の塊めいた報告に支えられていたかと思うとほとんど噴飯ものである。


 ギリシャを侮り、戦争というほどのことも起こるまいとたか・・を括ったこの気分は、どうやら進撃している将校達にも共通したものだった。

 


 ロイター通信社のバルカン在勤記者で私が親しくしてゐたS君は、ギリシャ戦以来三ヶ月従軍もし、アテネ政界にもふれた男であるが、彼の説によると、捕虜になったイタリア軍下級将校は異口同音に「戦争ではなしに、無血進駐だと自分たちは聞かされてゐた」と称してゐるとのことであった。「命令不徹底のため或は第一線に於ては多少の抵抗があるかも知れないが、意に介する必要はない。第二線以後はアテネ政府の命令が徹底してゐる筈だから迅速な進駐が出来る筈である」とも聞かされた、とイタリア将兵は述懐してゐたとのことである。この情報は英国系のものであるから警戒を要するが一応の参考にはならう。(『バルカン近東の戦時外交』202頁)

 


 ところが蓋を開けてみればどうであろう、無血進駐どころかギリシャは死に物狂いの修羅と化し、国を挙げて総反撃してくる始末。


 イタリア人が怒り狂うのも無理はない。事前の触れ込みと現実との間に、天国と地獄にも匹敵する差があった。


 軽い気持ちでおっぱじめた戦争は、ついに独力では収集のつけようがなくなって、結局尻をドイツに拭ってもらう無様を晒す。


 外務大臣ガレアッツオ・チャーノはかつてアドルフ・ヒトラーを指し、「本物の狂人」と罵ったそうだがこの一件に関する限り、狂気に脳を犯されていたのは明らかにチャーノの方である。

 


 歴史は賢者・名君の独占物では決してなく、ときとしてとんでもない愚か者が、一切の自覚なきままにその梶棒を握るのだ。

 

 

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弱小国の悲愴 ―第二次世界大戦下のエジプト情勢―

 

 第二次世界大戦の幕が切って落とされたのは、1939年9月1日。ドイツのポーランド侵攻が直接の起点とされている。


 前回の記事にて述べた通り、同盟通信社の特派員・屋久寿雄が欧州に駐留していたのは1938年10月から1940年3月までの15ヶ月間。ほぼ最前列といっていい場所で開戦の号砲に際会し、更にそれから半年以上、人類史上最大と言われたこの戦争を間近で眺めたことになる。


 当初「中立」を声明した弱小国が、津波に押し流される松のような哀れさで否応なしに次々戦火に巻き込まれてゆく有り様も、彼はつぶさに目撃している。実際問題、周辺国家が存亡を賭けてなりふり構わず血みどろの争いを繰り広げている最中に、ただ一ヶ国、自分達だけ何処にも属さず、局外にて中立を保持し、安穏と暮らし続けて居たいなどと、そんな都合のいい要求が通る余地など何処にもないのだ。


 もし強いて通したければ、実力を以って道を開鑿する必要がある。


 しかしそんな力があるなら、そもそも「弱小国」と呼ばれたりはしなかったわけで。


 弱さは罪というこの人間世界の原則は、国際社会に於いてより浮き彫りになるらしい。


 エジプトもまた、そんな「罪深い」国の一つであった。

 

 

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 この国は1922年の革命で一応の独立を遂げたものの、大屋に言わせればそれは「半ば去勢された独立」で、憲法も内閣もハリボテに等しく、内実を糺せばなんのことはない、相も変わらずイギリスの属国のままであった。


 保護国時代と同様、国内にはイギリス軍が駐留し、一朝事あらばこの武力を背景としてたちどころに英国公使が国の方針に容喙してくる。二十歳の峠を越すか越さないかの青年王、ファールーク一世にとってこの現状は到底満足のゆくものではない。


 よって戦火が拡大し、北アフリカにまで戦線が形成されるに至ったとき。イギリスから対伊宣戦布告を火の出るほどに要求されても、ファールークは頑として首を縦には振らなかった。

 


 エジプトの意志は不参戦に固められてゐた。エジプト当局は「イタリア軍のエジプト攻略は、エジプト内に駐屯する英国軍に対してなされるもので、エジプト自身に対してなされるものではないから、エジプトとしては何ら対伊宣戦布告の理由を持たない」といふ見解を固持して、英国の要求を終止却けて来た。(『バルカン近東の戦時外交』102頁)

 


 王の目算はむしろこの機にドイツと接近、協力して国内から英国勢力を一掃することにあったらしい。
 にも拘らず、同じ枢軸側であるイタリアを敵に回してどうするのか。彼の意図は露骨すぎるほどに露骨であった。

 

 

Kingfarouk1948

 (Wikipediaより、ファールーク一世)

 


 むろん、それを拱手傍観しているイギリスではない。


 国家を分割することにかけては比類なき実績を有するこの紳士的な集団は、このときも遺憾なくその腕前を発揮した。ファールークに対しては「退位」を仄めかしつつ牽制し、同時に輿論へ工作を展開。たちどころに国内は参戦・非参戦で二分され、議会は連日大荒れを呈した。

 


 が、さしもの大英帝国もいい加減ヤキが回ったのか。次第に国内情勢は、宣戦反対派へ傾きはじめる。

 


 首相を務めるハッサン・サブリ陸軍大臣サリフ将軍といった首脳陣の面々が、こぞって宣戦反対を主張していたことがやはり大きい。斯くして1940年11月14日、エジプト政府は非参戦態度持続の重大声明を内外に向かって発表することになる。


 もしこの声明文が最後まで朗読されきっていたなら、その後の歴史がどう変化したかわからない。


 が、そうはならなかった。大屋久寿雄が言うところの「全世界を不吉な想像に投げ込む奇怪な事件」の勃発によって、声明は中断されることになる。


 何が起こったか。


 事態そのものは単純である。声明文を読み上げていたエジプト首相、ハッサン・サブリが死んだのだ。

 


 やをら演壇に上がって、ファールーク王の宣言文を、荘重な声で、一句一句にエジプトの安危を背負ふ責任こめた声で読みあげかかった首相ハッサン・サブリは、朗読半ばにして突如昏倒し、意識不明に陥ったまま数時間にして死んでしまったのである。まことに奇怪な事件である。更にそれから十二日ををいて、十一月二十七日、カイロからアレキサンドリアに行くため、まさに汽車に乗らんとしていた陸相サリフ将軍もまた、ハッサン・サブリ首相と同様な状態で急逝した。(103頁)

 

 

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(カイロ)

 


 首脳陣の立て続けの死。


 おまけに死んだ両名が、いずれも参戦絶対不可論の急先鋒を張っており、エジプトの完全なる独立を内心密かに求めていた人物。


 これを「不幸な偶然」と、疑いなく信じきることが出来るなら、そいつはきっと楽園にでも棲んでいるに違いない。むろん、現実主義者の大屋久寿雄は「英国の黒い陰謀」を疑っている。


 とにもかくにも、この一件でエジプトの勢いはあからさまに衰えた。ファールーク王はその後もどうにか頑張っていたが、1942年2月、イギリス軍に宮殿を包囲され、「死か傀儡か」の二択を迫られるに及んでついに屈した。


 英国は英国で、もはや紳士を気取っていられないほど追い詰められていた証左であろう。


 追い詰められているだけに、彼らには狂気の相がある。ファールークがあくまで信念を貫かんとし、要求に肯んじなかったならば、彼らも本気で脅迫内容を実行に移したに違いない。
 王にとっては、苦渋の、しかし已むを得ざる決断だったと言える。


 が、この「屈した」ということが致命的な瑕疵となり、ファールークは国内の独立派から


 ――いざというところで踏ン張りの効かない、頼みにならぬ腰抜けの王。


 と看做されて、求心力を急速に失墜。10年後に発生したクーデターで国を追われ、二度と再び故郷の土を踏めぬまま、1965年45歳で客死した。


 無惨としかいいようがない。


 彼の死から半世紀を経た今日でも、エジプトは不安定なままである。

 

 

 

 

 


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特派員、大屋久寿雄 ―「欧州情勢、複雑怪奇」に挑戦した日本人―

 

 ここ最近、『バルカン近東の戦時外交』という古書を興味深く読んでいる。


 出版は、昭和十六年五月三十日。


 著者の名は、大屋久寿雄くすお


 1938年10月、風雲急を告げつつあるバルカンに同盟通信社の特派員として派遣されたこの大屋という人物は、以後1940年3月までの15ヶ月間、イスタンブールに、アンカラに、ブカレストに、ベオグラードに、ソフィアに、アテネに、ローマに、パリに、はたまたベルリンにと欧州中を飛び回り、同時代の日本人がともすれば「複雑怪奇」と理解を放棄しがちであった彼の地の情勢を解き明かすべく、眼を光らせ観察力を総動員して事に当たった男であった。


 本書はその仕事の総決算といってよく、情報分析の精確さと論理展開の鋭さたるや尋常一様のものでない。

 

 

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 たとえば「国際道徳と個人道徳との混同は絶対に避けねばならぬ」という、この透徹した現実主義はどうであろう。

 


 国にとって最も大切なことは「国を亡さぬ」ことである。個人道徳に於てすら正当防衛と言ふ自己保存の必要から殺人を無罪としてゐる如く、国家としては国を亡さぬためには当然如何なる手段もまた許さるべきである。それを個人道徳の鏡にあてて、或は無節操と言ひ、或は裏切りを責めるのは、自己の節操を立て通し得る強大国の、然らざる弱小国に対する無理解であり、弱小国を利用せんとして利用しそこねた強大国の女々しい恨事である。(17~18頁)

 


 目的のためなら手段を選ばず、且つそれを当然とする一連のマキャベリスト的見解は読んでいて非常に快い。スルスルと、抵抗なくあたまに入ってくる感じがするのだ。
「中立」に対する見解についても、耳を傾けるべきものがある。

 


 弱小国は今次大戦に際して、何れも先を争って中立維持を声明した。(中略)しかし、彼らの中立維持声明は単に彼らがそれを欲すると言ふ意志表示をしたにすぎないのであって、彼らが自分自身の力で中立を維持し得る、といふのとはまた全く別のことなのであった。
 中立を維持し通すためには、外部からの圧迫や誘惑を、断乎として退けるに必要な実力を持ってゐることが肝要である。この実力がなければ、或は心ならずも中立を放棄しなければならなくなるかもしれないのである。(15~16頁)

 


 平和、平和と念仏のように唱えて居れば本当に平和がやって来る。そんな虫のいい話は夢想家の脳内にしか存在しない。国際社会が徹底的な力の世界ということを、大屋はよく理解していた。
 正義人道の美名など、所詮はそうした生の姿の毒々しさを隠すべく、体よく利用されるだけの装飾品に過ぎないことを。


 この点、アメリ中国の対立が日に日に深まる現代に生きる我々も、しかと胸に刻んでおく必要がある。

 

 

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 ソヴィエトロシア「地下水のやうだ」と表現するに至っては、慧眼も極まったと言うべきだろう。共産国家に絶えず付随する薄暗さ、人目につかぬ地の深みからちょろりちょろりと滲み渡り、徐々に根元を腐らせて、ついには如何なる大廈高楼だろうとこれを覆してしまう悪質さ。なるほど特性という特性が、いちいち地下水と符合する。

 


 単に独・伊・英・仏と言はず、世界中の強国を根こそぎ疲弊衰退させて、世界赤化の大野心を実現することだけがソ連の狙ひであり、従ってこの目的に有用か有害かによってソ連式徳義の標準は定る。それ以外のことはその時まかせの便宜主義で適当に片附けていいのであるし、事実片附けてゐる。だから今日の言葉と明日の約束が矛盾してゐても少しも構はない。周囲の情勢が変化してゐるのに、昨日と今日と、明日と常に同じ言葉を用ひるならその方がいけない、と言ふのがソ連の考へ方である。(7~8頁)

 


 厄介極まるこの「地下水」の浸潤を、大日本帝国はよく防いだといってよかろう。三・一五事件四・一六事件等に代表される、特別高等警察の度重なる大規模検挙で、国内の赤色革命勢力をほぼ全滅に追い込めたのはまことにめでたい限りであった。


 少なからぬ犠牲を払いながらも、特高が挙げた数々の功績。実に彼らこそ、日本国にとっての恩人と言うことが出来るだろう。


 もっともその努力とて敗戦後、日本を二度と足腰立たぬところまで弱体化させんと目論んだGHQの策動により、ことごとく水泡に帰すのだが。

 

 

Flag of the Soviet Union

Wikipediaより、ソ連国旗) 

 

 

 あの占領軍はこともあろうに特高が折角牢にぶちこんでおいたアカどもを、軒並み解き放って自由の身とし、連中が


天皇制を廃止せよ!』
『労働者農民の政府を作れ!』
『大土地所有の没収!』
『世界労働者農民の祖国ソ連を守れ!』


 などと書かれたビラを撒き、インターナショナルを歌いながら大通りを練り歩く手助けをした。


 やがてはそれが、我が身さえも蝕む毒となることを知らないままに。

 


 戦後、特高ほど誤解され、いわれのない批難を受けた組織というのも珍しかろう。
 このことについてはまたいずれ、稿を改めて書きたく思う。

 

 

君主論 - 新版 (中公文庫)

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リンカーンの戦慄 ―「労働蔑視は亡国の基」―

 

 自動車がツチノコ並みに珍奇なる、都会人といえど滅多にお目にかかれないほど稀少な代物であったころ。


 横浜正金主催の夜会に、支那人のさる大官を招待したことがあった。


 迎えに出されたのは、二頭立ての大型馬車。馬車が遠ざかり、やがて再び戻って来たとき、会場前に居合わせていた客たちはこぞって驚きに目を見張った。


 件の支那人大官の下乗姿が、果たしてこれを「下乗」と呼んでいいのかどうか迷うほど、徹底的に自主性を欠いていたからである。馬車から降りるのに、彼は自分の力をまったくといっていいほど使わなかった。彼が伴って来た四人の侍婢がまめまめしく働いて、彼の体重を入口まで運び込んだ。

 

 

Kanagawa prefectural museum of cultural history01s3200

Wikipediaより、旧横浜正金銀行本店) 

 


 ある者は手を曳き、ある者は後ろから腰を押し、しかもそれらの力学的作用によって大官の神経に些かも不快感が伝わらぬよう繊細な作業を心懸ける有り様ときたらどうであろう。同質量の爆薬を運んでいたとしてもここまでの緊張は有り得なく、ほとんど鬼気に近いものを発散していた。


 ――はて、あの大官は、さては足でも悪いのか。


 そんな話は聞いたことがなかったが――と、人々が首を傾げていると、はたせるかな当の支那人は階段下で侍婢と別れるや否や、見違えるほどしっかりした足取りで階段を上り、颯々と会場へ入って行ったではないか。


 ――なんだ、足が悪いわけではなかったのか。


 衆人は改めて瞠目せざるを得なかった。自分で歩けないのでないならば、はて、あの大仰な所作はいったい何だったのだろう。


 この謎に、波多野承五郎は明快な答えを出している。
 それは数百年かけて凝り固まった、儒教の悪弊に他ならないと。

 


 支那朝鮮では、労働は卑賤の人のみがするべきであると言ふ立前から、士君子と言はれる上流階級の人は、狩猟のやうな荒々しい事をしないのは勿論、一挙手一投足で出来る事すら、僕婢の手を藉りねばならぬと信ぜられて居る。(中略)苟くも支那の大官であり乍ら、自分で馬車を降りるなどと言ふ卑賤なる事はすべきでない。手を執らせ腰を押させる事が貴人の面目であるのだから、斯うしたのだ(『梟の目』77~78頁)

 

 

HATANO Shogoro

 (Wikipediaより、波多野承五郎)

 


 狩猟と乗馬が出来なければ一人前とは認められない、英国紳士道を男子の模範と設定し、日本にも輸入しようと熱心だった波多野のことだ。
 こうした大陸人的気質を目の当たりにするたびに、顔を覆いたくなるほど辟易させられたことだろう。そして恩師の言葉の正統性を実感したに違いないのだ。すなわち、福沢諭吉の主張した、脱亜論の正しさを。――

 


 反面教師とするためか、波多野は他にもあれこれと大陸の景色を点描している。

 


 朝鮮でも併合前の大官は、身の廻りの細事までも僕婢にやらせることになって居た。例へば内宴を開いた時などには、侍坐の妓生キーサンが盃を大官の口の傍まで持って行く。肉でも菜でも妓生にふくめて貰ふ。斯う言ふ風にせねば大官らしく思はれないのは勿論、素性卑しき成上り者としていやしめられたのであった。(78頁)

 


 海峡一枚隔てただけでなんという文化の違いであろう。
 朝鮮半島では下手をすると支那本土よりも強烈な、儒教原理主義的色彩にお目にかかれる。以下の如きは、その一証拠といっていい。

 


 尚、朝鮮では尿瓶が生活上の必要道具になって居る。それは長い冬の間、温突オンドルに閉ぢ籠ってゐる事から起った習慣だが、又、便所に通ふと言ふ労作を避ける事が貴人の態度であると考へたからだ。宴席の時でも人前で平気で尿瓶を用ゐるのだ。要するに貴人は奴隷若しくは奴隷に等しき者を沢山使ふ可き筈だと言ふ立前から、こんな事になったのだ。(79頁)

 

 

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 それにつけても、こうした「大陸人気質」を目の当たりにするたび思い出すのは第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの金言である。


 1841年の夏、奴隷制度のひときわ激しいケンタッキー州を旅行したリンカーンは、次のような手紙を友人に送った。

 


 …ケンタッキーを旅行中ある人から聴いたことだが、彼は「例え貴方が土地や金や銀行の株券や債券を沢山持っていたとしても、貴方をよく知らぬ初対面の人などは、貴方をそれほど金持ちだとは思いますまい。けれども奴隷を供につけて歩けば誰でも貴方は奴隷を蓄え得る程の財産家であるとすぐ思います。これが自分は金持ちであるとアピールする最良の方法です。青年が結婚でも申し込んだ暁には、娘の両親がまず訊ねるのは何人の黒奴を所有しているかということです」と言った。
 ケンタッキーでは今日も我も我もと奴隷所有の競争をしている。
 奴隷以上にありがたい財産はないと信じているのだ。
 この悪傾向は白人の堕落を助長し、神聖なる労働を卑しむ事となった。就中なかんずくこの悪風に染まり易いのは思慮分別に乏しい青年である。国家の柱石となるべき青年が労働を蔑視し、惰弱に流るることは実に寒心すべきである。

 

 

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 リンカーンがおそれ、国を戦火に包んででも到来を防いだ社会の姿。それはまさに、同時期の支那・朝鮮の現実そのものではなかったか。


 この対照の皮肉さは、見方によってはほとんど戯画的なまでである。


 職業に貴賤なきことを、我々は大いに戒心せねばならないだろう。さもなくば、歴史の過ちを繰り返す愚人の謗りは免れ得ない。

 

 

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波多野承五郎の英人評 ―今村繁三との談話から―

 

 欧州大戦の余燼が未だくすぶっていた時代――。


 ロンドン西郊に泰然と聳える男子全寮制のパブリックスクールイートン・カレッジに長年奉職した老教師が、日本国を訪れた。


 この歓迎役を務めたのが今村繁三。青年時代イギリスに留学、ケンブリッジ大学で文学士の学位を受けた今村は、むろんイートン・カレッジについてもよく知っていた。

 

 

今村繁三-肖像画

Wikipediaより、今村繁三) 

 


 創立が1440年まで遡れる由緒正しさ、重厚なるゴシック様式から成る校舎、両手の指を総動員してなお足らぬほど多くの首相を出している実績。すべて、すべて今村の脳細胞に刻まれている。
 成蹊園――現在の成蹊大学に続く――を財政的に支援していた今村としては、是非とも何か話を引き出し、今後の資本としたかったろう。そこでまず、


「あなたの教鞭の下に立った人には、偉い人が沢山居ます」


 と水を向け、彼の教育上に於ける功績、如何に大かを讃美した。


 ところがこの老教師は少し視線を動かしただけで顔色も変えない。やがてゆるゆると、色の薄れた唇を開いて発した言葉は、


イートンから偉い人が沢山出たと言う事は、当り前の事で誇りとするに足らぬ」


 という、彼の気位が想像の十倍も高いことを思わせるようなものだった。


「ただ、誇るべきは」

 

 と、恐縮する今村をよそに老人は続ける。


「今回の欧州戦争で討ち死にしたのは、イートン出の者が最も多かったということだ」
「どのような精神教育の方針から、そのような事になったのでしょう」
「自分は今日まで、イートンボーイに公的精神パブリックスピリットを吹き込むことにのみ努めて来たが、英国紳士修養の本源は、イートンだけで捏ね上げたのでは勿論ない」
「では」


 その「本源」は何処にあるのか、と、今村はこれこそ彼から得たかった肝心要、値千金の教訓ゆえに、執拗な詮索を敢えてした。


 ――わかりきったことを。


 老教師は単純な数学の公式を問われたような面持ちで、


「無論、家庭である」


 と答えたという。

 

 

Eton Chapel 20040214

 (Wikipediaより、イートン・カレッジのチャペル)

 


 以上は波多野承五郎が、今村繁三の口から直接聞いたエピソードだ。


 前回の記事でも触れた通り、波多野は慶応義塾の出身。今村も英国に渡る前、慶應義塾幼稚舎に通っていた経歴がある。


 ある種の先輩後輩と言ってよく、その縁で親しく話を交わすこともあったのだろう。

 

 

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(慶応大学の銀杏並木)

 


 英国紳士と言ふ言葉は、ヨーロッパで男子の典型のやうに考へられて居る。夫れは真面目で、率直で、真剣味のある中にユーモアの気分を湛えて居る磊落型の性格を有する人の事だ。英人をジョンブルの綽名で呼んで居る。ブルとは牡牛だ。剛健にして且つ鈍重味があるところから、斯う言はれたのだ。(『梟の目』90頁)

 


 英国人を評価すること頗る高く、日本人も彼らの長所を積極的に取り入れてゆくべきだとかねてより主張していた波多野である。
 今村繁三の話に随分と感銘を受けたらしく、

 


 英国紳士が男子の典型だと言はれるのは、一は、鈍重なる磊落気分に満ちて居るからであるが、学問は飯を食ふ為の学問ではない、品性を作りあげる為に、イートンにも行けばケンブリッジ、オックスフォードにも入るのだと言ふ観念があるからだ。而してここに所謂品性とは英国特有の家庭を土台として之に公的精神を吹込ませて作りあげられたのだ。此内容を有せずして、徒に英国紳士風を装ふも沐猴にして冠するのだと言ふべきだ。(92頁)

 


 このように自説を発展させている。

 


 EU離脱が承認された欧州議会で衝撃的な――まことに衝撃的な――演説をファラージ党首がぶちかまし、なにかと話題を呼んでいる今日。こうした記述を、改めて掘り返すのもいいだろう。


 波多野や今村を魅了したジョンブルらしさ。その本質と、それが今のイギリスにどれほど残っていることか。じっくりと見届けさせて貰いたい。

 

 

慶應義塾大学の「今」を読む

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給料自粛の不文律 ―官尊民卑の激しき時代―

 

 このころ「官」が如何に強大なりしかを象徴するエピソードとして、「給料自粛の不文律」が挙げられる。


 これがいったいどういうものか。慶応義塾の出身で、実業家にして衆議院議員波多野承五郎の筆を借りてお目にかけよう。

 


 其頃の三菱や郵船は勿論、日本銀行でも重役使用人に対する給与が貧弱であった。夫れは政府の官吏を目安として割り出されたからだ。例へば重役は大臣と同じ月給を貰っては相済まぬ。先づ次官あたりの程度に遠慮して居らねばならぬ。他の使用人は局長以下それぞれ比準する所がなければならぬと言ったやうな、考で、給与が出来て居た。(昭和二年刊行『梟の目』43頁)

 


 たかが民間企業の重役ふぜいが、畏れ多くも堂々たる日本政府の大臣様より高い給料をもらうなど不敬千万、慎みやがれというわけだ。今からすれば馬鹿馬鹿しいにも程があろうが、その馬鹿馬鹿しい内容が正気で罷り通っていたのが明治初頭という時代であった。

 

 

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 福沢諭吉官尊民卑の四字熟語を新たに作り、その弊風を打破せよと絶叫したのも頷ける。

 

 

蒔かぬ果報を寝て待つよりも
起って働け我手足

何をくよくよあのお武家
人の稼ぎを見て暮す

仁義道徳くそでもくらへ
ごじきしながら青表紙

 


 斯くの如き端唄を口ずさんでまで、人々の心に独立自尊の精神を励起せしめんとした福沢だ。
 如何に「立って働」いたところで官吏の給料を越えられぬ、所謂「天井」が設けられている社会など、彼にはどうあっても我慢ならないものだったろう。


 この「給料自粛の不文律」は、やがて三井家使用人の増棒が実現されたのを皮切りに順次打破されてゆくのだが、それでも暫くのうちは猶も政府に遠慮して、あれこれ「特別手当」にかこつけて実質的な増棒を行うところがほとんどだったそうである。

 

 

Mitsui Main Building

 (Wikipediaより、三井本館)

 


 ――斯くも強大な「官」の保護を。


 全面的に受けていたのが陸運元会社に他ならず、経営陣が軒並み案山子程度の頭脳あたまの持ち主でもない限り、同社の繁栄は約束されたも同然だった。


 むろん、吉村甚兵衛佐々木荘助も、無能とは程遠い「切れ者」である。


 政府の保護に甘えるのみにあらずして、これを活用する術を、熱心に研究する勤勉さをも持ち合わせていた。

 


 ではその「保護」の内容を、幾つか詳しく眺めてみよう。

 


 たとえば明治五年九月。政府内のある人物が、


「郵便はなにも書簡に限らず、小包も運ぶようにしたらどうか」


 そのように提案したことがある。
 おそらくは何の気なしのこの発言に、しかし駅逓頭前島密は極めて敏感に反応した。

 


「今陸運元会社をして物貨転送の業を許し、尚ほ駅逓寮に於て小包類の転送を為さば、其の許す所の物貨転送は唯空名のみ。依て是等は一切陸運元会社をして之を輸送せしむべし」(『国際通運株式会社史』86頁)

 


 貨物の運送を独占させるってえな名目で、連中に郵便業を棄てさせたんだ。今更約束を違えられるか――暗にそう言わんばかりの論調でこの提案を封じ込め、同時に次のような建白書を作成し、陸運元会社の特権が今後脅かされぬようはからっている。

 


 郵便事務上に於て、当然支給すべき各地郵便取扱所脚夫賃の運送及び郵便切手鬻売代金の収納は、陸運元会社に命じて之を授受せしめ、連月其の運賃を交付すれば、凡そ郵便の通ずる地は、月々必ず正確なる宰領往復を為すを以て、脚夫賃金の交附、切手代金の領収、金子入書状の転送等、別に費用を要せずして運輸の道を開き、始めて国内一般郵便方法の完全を得るのみならず、会社も亦遍く物貨転送の便法を得るを以て僻陬辺境と雖も、人間交際欠くべからざる小包物転送の利益を興すべし(87頁)

 


 ATMなど影も形も見当たらないこの時代、駅逓寮から各郵便局へ支給金を交付するには、また各地で販売した郵便切手の売上金を駅逓寮が収納するには、やはり人が直接手に携えて、それを運ぶ必要があった。

 

 

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 毎月発生するこの仕事。本来ならば駅逓寮自身が負担すべき任務だろうが、前島密敢えてこれを陸運元会社に委託。その都合上、金子入書状――今で言う現金書留の如きもの――の運送許可すら与えるという、まさに破格の待遇で迎えた。

 


 ――郵便事業から手を引きさえしたならば、代わりに貨物運送業に関して政府は支援を惜しまない。君達飛脚連の独占と為し、駅逓寮からも屡々仕事を回してやろう。

 

 

 


 上の記事にて言及した、前島と佐々木の利権交換。


 あの発言を、前島は律義に守り通したといっていい。この建白書はつつがなく太政官に容れられて、陸運元会社には数多の仕事が、しかも安定して舞い込んで来るようになり、社員はますますその運送技術を習熟させる。


 ずぶずぶの関係とはこういうものであったろう。政商が儲かると言われるわけだ。

 

 

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 前回の記事にて言及した「陸運会社の強制解散」に関しても、陸運元会社の上役連は一年前から耳打ちされて知っていた。


 ――近く政府はこのように動く予定である。


 だからその際、速やかに全国の物流網を掌握できるように準備しておけ。


 そのような内示があったという。


 この官命を全うすべく、会社はたとえば「物貨取扱規則」を制定。今後宙に浮いた数多の人材を吸収する展開が予想されるが、そうなったとしてもサービスの質が低下することなきように、新入社員にも古参連にも二十ヶ条からなるこの規則集を遵守さすべく手配している。


 この二十ヶ条中、とりわけ面白いのは十一番目だ。

 


十一、物貨配達の日、其領受人の不在等を以て、配達再三に及ぶものは、毎度其配達賃の一倍を収むべし。

 


 この時代からもう既に、「荷受人の不在」は重大な問題だったらしい。


 現代の運輸業者の方々も、ひょっとしたらこれぐらいの――その都度、運賃がかさむという――ペナルティは科してやりたいと念願しながら不在票を突っ込んでいるのではなかろうか。

 

 

独立自尊 ──福沢諭吉と明治維新 (ちくま学芸文庫)

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