自動車がツチノコ並みに珍奇なる、都会人といえど滅多にお目にかかれないほど稀少な代物であったころ。
横浜正金主催の夜会に、支那人のさる大官を招待したことがあった。
迎えに出されたのは、二頭立ての大型馬車。馬車が遠ざかり、やがて再び戻って来たとき、会場前に居合わせていた客たちはこぞって驚きに目を見張った。
件の支那人大官の下乗姿が、果たしてこれを「下乗」と呼んでいいのかどうか迷うほど、徹底的に自主性を欠いていたからである。馬車から降りるのに、彼は自分の力をまったくといっていいほど使わなかった。彼が伴って来た四人の侍婢がまめまめしく働いて、彼の体重を入口まで運び込んだ。
ある者は手を曳き、ある者は後ろから腰を押し、しかもそれらの力学的作用によって大官の神経に些かも不快感が伝わらぬよう繊細な作業を心懸ける有り様ときたらどうであろう。同質量の爆薬を運んでいたとしてもここまでの緊張は有り得なく、ほとんど鬼気に近いものを発散していた。
――はて、あの大官は、さては足でも悪いのか。
そんな話は聞いたことがなかったが――と、人々が首を傾げていると、はたせるかな当の支那人は階段下で侍婢と別れるや否や、見違えるほどしっかりした足取りで階段を上り、颯々と会場へ入って行ったではないか。
――なんだ、足が悪いわけではなかったのか。
衆人は改めて瞠目せざるを得なかった。自分で歩けないのでないならば、はて、あの大仰な所作はいったい何だったのだろう。
この謎に、波多野承五郎は明快な答えを出している。
それは数百年かけて凝り固まった、儒教の悪弊に他ならないと。
支那朝鮮では、労働は卑賤の人のみがするべきであると言ふ立前から、士君子と言はれる上流階級の人は、狩猟のやうな荒々しい事をしないのは勿論、一挙手一投足で出来る事すら、僕婢の手を藉りねばならぬと信ぜられて居る。(中略)苟くも支那の大官であり乍ら、自分で馬車を降りるなどと言ふ卑賤なる事はすべきでない。手を執らせ腰を押させる事が貴人の面目であるのだから、斯うしたのだ(『梟の目』77~78頁)
(Wikipediaより、波多野承五郎)
狩猟と乗馬が出来なければ一人前とは認められない、英国紳士道を男子の模範と設定し、日本にも輸入しようと熱心だった波多野のことだ。
こうした大陸人的気質を目の当たりにするたびに、顔を覆いたくなるほど辟易させられたことだろう。そして恩師の言葉の正統性を実感したに違いないのだ。すなわち、福沢諭吉の主張した、脱亜論の正しさを。――
反面教師とするためか、波多野は他にもあれこれと大陸の景色を点描している。
朝鮮でも併合前の大官は、身の廻りの細事までも僕婢にやらせることになって居た。例へば内宴を開いた時などには、侍坐の
海峡一枚隔てただけでなんという文化の違いであろう。
朝鮮半島では下手をすると支那本土よりも強烈な、儒教原理主義的色彩にお目にかかれる。以下の如きは、その一証拠といっていい。
尚、朝鮮では尿瓶が生活上の必要道具になって居る。それは長い冬の間、
それにつけても、こうした「大陸人気質」を目の当たりにするたび思い出すのは第16代アメリカ合衆国大統領、エイブラハム・リンカーンの金言である。
1841年の夏、奴隷制度のひときわ激しいケンタッキー州を旅行したリンカーンは、次のような手紙を友人に送った。
…ケンタッキーを旅行中ある人から聴いたことだが、彼は「例え貴方が土地や金や銀行の株券や債券を沢山持っていたとしても、貴方をよく知らぬ初対面の人などは、貴方をそれほど金持ちだとは思いますまい。けれども奴隷を供につけて歩けば誰でも貴方は奴隷を蓄え得る程の財産家であるとすぐ思います。これが自分は金持ちであるとアピールする最良の方法です。青年が結婚でも申し込んだ暁には、娘の両親がまず訊ねるのは何人の黒奴を所有しているかということです」と言った。
ケンタッキーでは今日も我も我もと奴隷所有の競争をしている。
奴隷以上にありがたい財産はないと信じているのだ。
この悪傾向は白人の堕落を助長し、神聖なる労働を卑しむ事となった。
リンカーンがおそれ、国を戦火に包んででも到来を防いだ社会の姿。それはまさに、同時期の支那・朝鮮の現実そのものではなかったか。
この対照の皮肉さは、見方によってはほとんど戯画的なまでである。
職業に貴賤なきことを、我々は大いに戒心せねばならないだろう。さもなくば、歴史の過ちを繰り返す愚人の謗りは免れ得ない。
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