ギリシャは海運で栄えた国である。
国内にこれといって見るべき産業を持たない彼の国が、それでも富を求めるならばそれ以外の選択肢はなかったろう。『アサシンクリード オデッセイ』中で描かれたように、遥か紀元前の古代から優れた造船技術を有し、美しきこと翠玉を溶き流したかの如きエーゲ海を自由自在に漕ぎ廻った、先祖の伝統に忠実であるしか――。
このあたりの事情は、実は現代でも変わらない。保有船舶量を眺めればたちどころに瞭然たるべきことである。2017年のデータになるが、ギリシャの保有船舶量は三億九百万トンと、二位日本の二億二千四百万トンに大きく差をつけ、世界一位の栄冠を恣にしているのだ。
もっとも如何に多くの船を持っていたところで、航路の無事が確保されねば何にもならない。
こと近世ヨーロッパに於いて、それはイギリスとの親善なしには絶対に成り立たないものだった。
なにしろ大英帝国は、「七つの海を支配」するほど強大な海軍力を持っている。その機嫌を損ねたが最後、ギリシャの船など一隻も港から出られなくなり、虚しく船底をフナクイムシに喰わせる以外なくなるだろう。
よって、「その外交は伝統的に英国依存であった(『バルカン近東の戦時外交』190頁)」。
第二次世界大戦の火蓋が切られた瞬間もこの関係に変動はなく、必然として戦火を被らざるを得ない。
案の定、1940年10月28日、イタリアから最後通牒が叩きつけられる破目になる。
この最後通牒でイタリアは、ギリシャが表向き中立を標榜しながらその裏で、イギリス海軍に根拠地提供の利便を与えたことを指摘しており、再三警告したにも拘らず依然改める風がないと猛烈に批難、この上は武力に訴えるほかないと自己正当化を試みている。
ギリシャはギリシャでこの最後通牒を事実無根の言いがかりと強弁、すべてイタリアの捏造だと主張したが、前述の対英関係を鑑みる限りまんざら有り得ないことでもなさそうである。
まあ、いずれにせよ真実は歴史の闇の中である。確かなことはギリシャがこの最後通牒を蹴り飛ばし、その三時間後にはギリシャ・アルバニア国境に集結していたイタリア軍が侵攻を開始したということだ。
(Wikipediaより、ベニート・ムッソリーニ)
大方の予想を裏切って、ギリシャは実によく戦った。侵入してきたイタリア軍をあっという間に叩き出し、しかもそれのみにとどまらず、アルバニアへ逆侵攻をかけ12月中旬までの間に同地の四分の一を占領するという大戦果。
この奇蹟に、全世界が目を見張ったものである。
面白いのは不覚をとった当のイタリアの反応だ。同盟通信社の特派員・大屋久寿雄は当時の国内情勢を、次のように書いている。
イタリアのギリシャ作戦失敗が決定的なものとなった時、多くのイタリア人は当時のギリシャ駐在イタリア公使グラッツィを銃殺に附すべきであると激昂して叫んだ。一部ではグラッツィ公使の処刑説すら伝へられた。更にチャーノ外相が外相としての公職の傍ら、一航空少佐として前線に出動した事実を捉へて、彼の失脚であり、懲罰であるとする説も行はれた。(199頁)
何故、斯くも凄まじき批難が外務省に寄せられたのか。
それは開戦前この連中が、ギリシャには十分離間工作を施しており、イタリア軍が進撃すればそれだけでもう街道沿いのギリシャ人というギリシャ人は寝返りを打ち、美女に囲まれ美食と美酒でもてなされ、さながら赤絨毯の上を歩くような快適さで首都までたどり着けるだろうと宣伝していたからだという。
グラッツィはイタリアの対ギリシャ政策決定といふ重大国策決定に際し、「イタリアにして断乎たる態度に出るならば、ギリシャは論なく、無抵抗でその要求の前に屈するであらう」と言ふやうな趣旨の報告のみを寄せてゐたと、イタリア人は憤慨するのである。更に或る者は一歩を進めて、「若しギリシャが不明にして抵抗の挙に出るやうなことがあれば、かねて工作懐柔してをいた反政府組織が即時蹶起して、クーデターを敢行し、以ってイタリアの作戦に協力する筈だから、何れにせよイタリアの要求貫徹はさして困難でない」といふやうな確信に満ちた報告もなされた、と言ふのである。(200~201頁)
もしこれが真実だとするならば、エマヌエーレ・グラッツィという人物は職務の重責に堪えかねてとうに精神を破綻させていたに違いない。
輝かしき成果を次々と、しかもイタリアへの事前相談なく独断で打ち立ててゆくヒトラーに、かねてより忸怩たる思いを味わっていたムッソリーニである。
狂人グラッツィの甘言は、たまらなく魅力的に聴こえただろう。今度こそはこの俺が、ヒトラーの鼻をあかしてやれると。
実際イタリアのギリシャ侵攻はまったく彼一手で計画され、行われ、ドイツにさえも直前まで伏せられていたがために協調を欠くこと甚だしく、それどころか仰天したヒトラーが慌てて制止したにも拘らず、顧みる気配もなく独走したムッソリーニにヒトラーは強烈な不快感を催したという。
これはデイヴィット・アーヴィングの名著『ヒトラーの戦争』にも該当する記述があることで、
ムッソリーニは
ムッソリーニがこのとき見せた楽観が、ともすれば外務省から齎されたご都合主義の塊めいた報告に支えられていたかと思うとほとんど噴飯ものである。
ギリシャを侮り、戦争というほどのことも起こるまいと
ロイター通信社のバルカン在勤記者で私が親しくしてゐたS君は、ギリシャ戦以来三ヶ月従軍もし、アテネ政界にもふれた男であるが、彼の説によると、捕虜になったイタリア軍下級将校は異口同音に「戦争ではなしに、無血進駐だと自分たちは聞かされてゐた」と称してゐるとのことであった。「命令不徹底のため或は第一線に於ては多少の抵抗があるかも知れないが、意に介する必要はない。第二線以後はアテネ政府の命令が徹底してゐる筈だから迅速な進駐が出来る筈である」とも聞かされた、とイタリア将兵は述懐してゐたとのことである。この情報は英国系のものであるから警戒を要するが一応の参考にはならう。(『バルカン近東の戦時外交』202頁)
ところが蓋を開けてみればどうであろう、無血進駐どころかギリシャは死に物狂いの修羅と化し、国を挙げて総反撃してくる始末。
イタリア人が怒り狂うのも無理はない。事前の触れ込みと現実との間に、天国と地獄にも匹敵する差があった。
軽い気持ちでおっぱじめた戦争は、ついに独力では収集のつけようがなくなって、結局尻をドイツに拭ってもらう無様を晒す。
外務大臣ガレアッツオ・チャーノはかつてアドルフ・ヒトラーを指し、「本物の狂人」と罵ったそうだがこの一件に関する限り、狂気に脳を犯されていたのは明らかにチャーノの方である。
歴史は賢者・名君の独占物では決してなく、ときとしてとんでもない愚か者が、一切の自覚なきままにその梶棒を握るのだ。
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