第二次世界大戦の幕が切って落とされたのは、1939年9月1日。ドイツのポーランド侵攻が直接の起点とされている。
前回の記事にて述べた通り、同盟通信社の特派員・大屋久寿雄が欧州に駐留していたのは1938年10月から1940年3月までの15ヶ月間。ほぼ最前列といっていい場所で開戦の号砲に際会し、更にそれから半年以上、人類史上最大と言われたこの戦争を間近で眺めたことになる。
当初「中立」を声明した弱小国が、津波に押し流される松のような哀れさで否応なしに次々戦火に巻き込まれてゆく有り様も、彼はつぶさに目撃している。実際問題、周辺国家が存亡を賭けてなりふり構わず血みどろの争いを繰り広げている最中に、ただ一ヶ国、自分達だけ何処にも属さず、局外にて中立を保持し、安穏と暮らし続けて居たいなどと、そんな都合のいい要求が通る余地など何処にもないのだ。
もし強いて通したければ、実力を以って道を開鑿する必要がある。
しかしそんな力があるなら、そもそも「弱小国」と呼ばれたりはしなかったわけで。
弱さは罪というこの人間世界の原則は、国際社会に於いてより浮き彫りになるらしい。
エジプトもまた、そんな「罪深い」国の一つであった。
この国は1922年の革命で一応の独立を遂げたものの、大屋に言わせればそれは「半ば去勢された独立」で、憲法も内閣もハリボテに等しく、内実を糺せばなんのことはない、相も変わらずイギリスの属国のままであった。
保護国時代と同様、国内にはイギリス軍が駐留し、一朝事あらばこの武力を背景としてたちどころに英国公使が国の方針に容喙してくる。二十歳の峠を越すか越さないかの青年王、ファールーク一世にとってこの現状は到底満足のゆくものではない。
よって戦火が拡大し、北アフリカにまで戦線が形成されるに至ったとき。イギリスから対伊宣戦布告を火の出るほどに要求されても、ファールークは頑として首を縦には振らなかった。
エジプトの意志は不参戦に固められてゐた。エジプト当局は「イタリア軍のエジプト攻略は、エジプト内に駐屯する英国軍に対してなされるもので、エジプト自身に対してなされるものではないから、エジプトとしては何ら対伊宣戦布告の理由を持たない」といふ見解を固持して、英国の要求を終止却けて来た。(『バルカン近東の戦時外交』102頁)
王の目算はむしろこの機にドイツと接近、協力して国内から英国勢力を一掃することにあったらしい。
にも拘らず、同じ枢軸側であるイタリアを敵に回してどうするのか。彼の意図は露骨すぎるほどに露骨であった。
(Wikipediaより、ファールーク一世)
むろん、それを拱手傍観しているイギリスではない。
国家を分割することにかけては比類なき実績を有するこの紳士的な集団は、このときも遺憾なくその腕前を発揮した。ファールークに対しては「退位」を仄めかしつつ牽制し、同時に輿論へ工作を展開。たちどころに国内は参戦・非参戦で二分され、議会は連日大荒れを呈した。
が、さしもの大英帝国もいい加減ヤキが回ったのか。次第に国内情勢は、宣戦反対派へ傾きはじめる。
首相を務めるハッサン・サブリ、陸軍大臣サリフ将軍といった首脳陣の面々が、こぞって宣戦反対を主張していたことがやはり大きい。斯くして1940年11月14日、エジプト政府は非参戦態度持続の重大声明を内外に向かって発表することになる。
もしこの声明文が最後まで朗読されきっていたなら、その後の歴史がどう変化したかわからない。
が、そうはならなかった。大屋久寿雄が言うところの「全世界を不吉な想像に投げ込む奇怪な事件」の勃発によって、声明は中断されることになる。
何が起こったか。
事態そのものは単純である。声明文を読み上げていたエジプト首相、ハッサン・サブリが死んだのだ。
やをら演壇に上がって、ファールーク王の宣言文を、荘重な声で、一句一句にエジプトの安危を背負ふ責任こめた声で読みあげかかった首相ハッサン・サブリは、朗読半ばにして突如昏倒し、意識不明に陥ったまま数時間にして死んでしまったのである。まことに奇怪な事件である。更にそれから十二日ををいて、十一月二十七日、カイロからアレキサンドリアに行くため、まさに汽車に乗らんとしていた陸相サリフ将軍もまた、ハッサン・サブリ首相と同様な状態で急逝した。(103頁)
(カイロ)
首脳陣の立て続けの死。
おまけに死んだ両名が、いずれも参戦絶対不可論の急先鋒を張っており、エジプトの完全なる独立を内心密かに求めていた人物。
これを「不幸な偶然」と、疑いなく信じきることが出来るなら、そいつはきっと楽園にでも棲んでいるに違いない。むろん、現実主義者の大屋久寿雄は「英国の黒い陰謀」を疑っている。
とにもかくにも、この一件でエジプトの勢いはあからさまに衰えた。ファールーク王はその後もどうにか頑張っていたが、1942年2月、イギリス軍に宮殿を包囲され、「死か傀儡か」の二択を迫られるに及んでついに屈した。
英国は英国で、もはや紳士を気取っていられないほど追い詰められていた証左であろう。
追い詰められているだけに、彼らには狂気の相がある。ファールークがあくまで信念を貫かんとし、要求に肯んじなかったならば、彼らも本気で脅迫内容を実行に移したに違いない。
王にとっては、苦渋の、しかし已むを得ざる決断だったと言える。
が、この「屈した」ということが致命的な瑕疵となり、ファールークは国内の独立派から
――いざというところで踏ン張りの効かない、頼みにならぬ腰抜けの王。
と看做されて、求心力を急速に失墜。10年後に発生したクーデターで国を追われ、二度と再び故郷の土を踏めぬまま、1965年45歳で客死した。
無惨としかいいようがない。
彼の死から半世紀を経た今日でも、エジプトは不安定なままである。
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