前回までの流れを汲んで、もう少しギリシャ・イタリア戦争を眺めたい。
初戦に於いて、ギリシャは確かに勝利した。
それもただの勝ちではない、快勝だ。雪崩れ込んで来たイタリア軍を国境外へ叩き出し、更にアルバニア南部までをも占領する大戦果。
しかしながらギリシャの首相、イオアニス・メタクサスは知っていた。自分たちは、既に限界に達したのだと。
当時のギリシャの人口はおよそ580万人。ここから捻出可能な戦力は、無理に無理を重ねたところで23個師団が限界だろうと大屋久寿雄は推定している。実際1941年4月30日の敗戦までにギリシャが動員した兵数は43万人とされ、一個師団を構成する人数が1万から2万人の間である事実と突き合わせて考えれば、大屋の見立ては決して的外れなものでない。
これではとても戦線を更に拡大し、イタリア本土を衝いてムッソリーニに「城下の盟」を結ばせることなど出来はしない。
現状維持が精一杯で、それでさえも日を追うごとにみるみる国力が摩耗してゆき、あちこちから悲鳴が噴出しつつある始末。
おまけに頭上のルーマニアに集結中のドイツ軍ときたらどうであろう。数の膨大さもさることながら、練度に至っては異常の一言。イタリア一国相手ですら窒息しかかっている現状に、更にあんなものまで降り落ちて来ればどうなるか、結果はあまりにも目に見えていた。
こうなってしまえば、メタクサス首相が選べる道は二つに一つ。すなわち、
英国の更に積極的な援助を得て、徹底的交戦に運命を賭するか、イタリアに対する勝利の栄冠をせめてもの自己慰安として、空しく枢軸の軍門に降るか。ギリシャは今や二者択一の重大岐路に直面したのである。(『バルカン近東の戦時外交』207頁)
総玉砕か降伏か。どちらを選んでも碌な未来が待っているとは思えない。
それでもなお、メタクサスは選ばなければならなかった。彼は一国の安危を司る首相である。どんなに追い詰められようと、「最悪の中の最善」を追求すべく全霊を注ぐ義務がある。
果たしてメタクサスが選んだのはどちらの道であったのか。
それは1941年1月初頭、チャーチルがギリシャに援軍を送ろうと申し出た際、辞儀は丁寧に繕いつつもあくまでこれを峻拒したメタクサスの姿勢を見れば、おおよそ察しはつくだろう。
彼はドイツを仲介者に立て、イタリアと和睦しようとしていた。
むろん、その代償として連合から枢軸への寝返りを余儀なくされるが、事ここに至っては已むを得ない。
ヒトラーとしても、このメタクサスの姿勢に否はなかった。それどころか諸手を挙げて歓迎したいほどである。
昨日までは最も忠実な英国の走狗として立ち働いたギリシャが、自発的に英国を去って、枢軸の陣営に降ったといふ事実が国際政局に与へる印象が、如何程独・伊側にとって有利なものであったかは想像以上であろう。(214頁)
戦端を開くよりも和睦の仲立ちをした方が、明らかに政略上の利益が大きい。ヒトラーの秤は正確だった。
彼はギリシャ問題の平和的解決を熱烈に求めた。この点に於いて大屋久寿雄とデイヴィット・アーヴィングの観測は一致している。
彼はギリシアに何の下心も持たなかったから、ギリシアが侵略者イタリアを追い出した以上、客人のイギリスも同じく出て行き、そうしてギリシアに対する“マリータ”作戦を取り消すことができるのを熱烈に希望した。彼はカナーリス提督を通じ、スペインとハンガリーの曖昧な外交通路を使って、ギリシアとイタリアの調停をしようと申し出た(『ヒトラーの戦争 1』368頁)
しかしながら、ヒトラーの努力は結局のところ水泡に帰す。
何故、彼は失敗したのか。
その原因は、メタクサス首相の前触れなき死に見出せる。
一月二十九日早朝、メタクサス首相は突然、大木の倒れるが如く突如として急逝したのである。公式には十数日以来疲労と尿毒症で病臥中であったが、突如
この「疑惑」とは、詰まることろ暗殺疑惑だ。
誰がそれを、などというのは愚問に属する。彼が死に、ドイツの望む和平工作が頓挫すれば、一番喜ぶのは誰か、考えてもみるがいい。
当然、いの一番に大英帝国の名が浮かぶ。
大屋久寿雄はこのあたりの機微を、「ドイツの欲するところが英国の好まざるところであるのは理の当然である」と表現している。
更に大屋は先年11月に親独的なエジプト首脳部、ハッサン・サブリとサリフ陸相が相次いで急逝した一件に改めて触れ、枢軸側に寝返ろうとした人々がまるで呪いのように次々と死ぬこの現象の不自然さを指摘。「エジプトの場合とギリシャの場合と、その事情と言ひ環境と言ひ、あまりにも酷似してゐるのに、偶然の一致にしてはあまりの符合をただ不思議に思ふのである」と皮肉っぽく書いている。
なお、メタクサス危篤の報を公使館から伝達されたドイツでは、その病状を見舞うべく、態々飛行機を仕立ててまで専門医をウィーンから派遣している。残念ながらこの医師が到着したとき、既にメタクサスは息を引き取っていたのだが、この一事からでもヒトラーが如何に彼を重要視していたかがわかるだろう。
その彼が突然死んだことにより、発生した社会的混乱の大きさは察するに余りあるといっていい。
その混乱につけ入るように、イギリスは1月初頭に拒絶された援軍を、ここぞとばかりに送り込んだ。旗幟は鮮明に示されたのだ。メタクサスの後任で、生前彼の親友でもあったアレクサンドロス・コリジスは、その就任に当たって
「メタクサス首相の偉大な事業と公正な政策とを、ただそのまま、忠実に踏襲して行くつもりである」
と宣言したそうであるが、この声明がどこまで守られたかは大いに疑問の余地があろう。
結局、ヒトラーの熱望した「平和的解決」は実現せず、ドイツは1941年4月6日、“マリータ”と名付けられたギリシャ攻撃作戦を発動。僅か24日にして、イタリアがあれほど攻めあぐんだギリシャを陥落させた。
これを大局的に俯瞰して、「イギリスの一人勝ち」と判断したのは日本人では大屋久寿雄のみだったに違いない。
ギリシャが平和的手段によって枢軸陣に抱き込まれることだけは、何としても妨害しなければならぬと英国は考へたであらう。(中略)事態は愈々全面戦争へと拡大して来たのであるが、英国はまかり間違っても、例へばノルウェー作戦の時の如くギリシャを徹底的に破壊するといふ目的だけは達成することであらう。(214~215頁)
ギリシャは確かに敗北した。
しかしながらその敗北は、「迫り来る邪悪なファシズムの大波」に最後の一兵まで抵抗した「民主主義への殉教」と華々しく彩られ、目には見えない巨大な利益をイギリスに与えた。
老獪、これに過ぐるものはない。
進撃以来僅か十日、独・伊軍は破竹の勢ひで、ユーゴを席捲し、ギリシャを蹂躙してをり、英国派遣軍は早くも退却の準備を急いでゐるが、しかし、英国は敗退してもまた、ナルヴィクやダンケルクの時と同様、「我勝てり」と叫ぶであらう。最初から「破壊することが目的」だったのだから。(276頁)
日本中がナチスドイツの快進撃に浮かれる中で、その熱狂にすこしも和せず、秋の湖水さながらに澄み切った観察眼を光らせて、この文章をしたためた大屋の器量も凄まじい。
いつの時代も、人物というのは居るものだ。
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