国家とマグロの生態は微妙なところで通い合う。どちらも前進を
「足るを知るの教は一個人の私に適すべき場合もあらんかなれども、国としては千萬年も満足の日あるべからず、多慾多情ますます足るを知らずして一心不乱に前進するこそ立国の本色なれ」。――福澤諭吉の『百話』に於いて、私は特にこの一条が好きである。
およそ国家の発展に、「もうここらでよか」のセリフは大禁物だ。目指す地平を見失い、ただただ惰性の現状維持に腐心しだしてしまったら、その瞬間からはや既に、斜陽衰退の中に居る。そう心得て構うまい。
(『賭博破戒録カイジ』より)
かつての日本は目的意識が鮮明だった。明治に於いては「富国強兵」、「文明開化」、「列強に追いつけ・追い越せ」が、昭和二十年以降にも「灰からの復活」、「工業立国」、「高度経済成長」が、誰の目にも分かり良い時代正義がそれぞれあって、国民の希望や情熱を容易くひとすじに纏め得た。
ところが今や、そういう万人に首肯され掲げらるべき大義がない。何に気血を燃やせばいいのか、何のための成長か、明快な
見ようによっては、これほどまでに戦慄すべき時代もまたと無いだろう。冷汗三斗の感覚だ。個のポテンシャルは地に落ちて、もはやほとんど取り返しがつかなくなりつつあるんじゃないかと嫌な想像が駆け巡る。
(飛騨高山レトロミュージアムにて撮影)
福澤諭吉はおよそ人間というものを、
――飽くことを知らぬ欲のかたまり。
と定義した。「人の心は萬慾の府にして、唯人の持前に従ひ其慾の発する所を異にするのみ。…(中略)…畢竟人生の情慾は制止すべきものにあらざれば、要は唯その方向を転じて之を緩和するか、又は此れを彼れと比較して害の少き方に導くに在るのみ」云々と、やはり『福翁百話』でだ。
これを逆に辿るなら、「何か」を求めて瞳から火を噴きそうになっている、五慾に骨まで焼け焦げて活動している間こそ、人間が本当に人間らしく在れる
(人間らしいふるまい)
「西洋の諸強国より海外の地に兵士を屯在せしむる其地には、必ず娼妓のあらざるはなし。若しも然らざるときは、政府の筋より密に賤業婦の往来に便利を与へて必要に応ずと云ふ。娼妓の害大ならざるに非ずと雖も、之を禁じて却て兵士の気を荒くするの害は更に大なるものあるが故に、其利害を比較して扨こそ娼妓の醜業を黙許することなり」
これなどまさに「情欲の矛先を少しでもマシな方角へ転ぜんとする努力」であろう。
福澤諭吉の言葉には、まったく心癒される。
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