脚を折ったら豚足を、モノが勃たなきゃオットセイの睾丸ないしは陰茎を。
病み苦しんでいる時は、患部と同じ部位をむさぼり喰うことで、恢復が
異類補類、同物同治の概念だ。
漢方、すなわち大陸由来の智慧として、一般には知られるが。――どうも、どうやら、この発想は、漢民族の専有物ではないらしい。
「古代ギリシャにもあった」
東京帝大薬学科の出身で、卒業後には技師として、製薬会社に腕をふるった――早い話が大正・昭和という時期の、クスリのエキスパートだった。
(八意永琳。薬と云えばこの人)
医史に通暁していても、さまで不思議はないだろう。むしろ当然の嗜みである。
彼は言う、
「ヒポクラテスが、
頭痛の患者に鳥の脳を煮て食せしめ、
肝臓疾患には驢馬、鼬、鼠、鳩あたりの肝臓を、
腎臓患者には兎の腎臓、あるいは牛の脾臓を、煮たり焼いたりして与え、
呼吸困難には狐の肺を、
眼疾には牛の目玉を喰わせたと、それぞれ伝えられている」
Ubisoft珠玉の名作、『アサシンクリード オデッセイ』にて再現されたヒポクラテスも、食と医療の紐帯を強調していたものだった。
信憑性は、それなり以上に高いのではあるまいか。
そういえば江戸時代の遊女なんぞも美白効果を期待して、湯浴みの際には蛇の脱け殻を以ってして肌を磨いたと聞き及ぶ。
世間並みの糠袋では満足できない、駄目なのだ。ありきたりな努力では、いつまで経っても群を抜けない。ただズルズルと埋れてしまう。それが厭なら、趣向を凝らせ。奇に走り、神を欺き、自然の意表を突いてでも、より美しくなってやる――。
彼女たちは正しい。
野心の炎に焼かれていてこそ人間だ。
上昇志向に幸あれである。姿勢自体は素晴らしい、文句をつける由もない。
ただ、留意しておくべきなのは、一ツ目的に必死になればなるほどに、その足元を掬わんとする奸譎狡知な連中も
――再び伊藤靖に戻ると、クスリというものにつき、彼は警告して曰く、
「薬、或は治療法には甚だしく流行が起るのを常とする。極く最近にしてもラジウム時代、カルシウム時代、ヴィタミン時代とも称すべき流行期の存在したのは誰しも認める処であらう。斯かる事実は薬がやゝもすれば世人に科学的に取り扱はれない証左でなければならない。此の故に薬は昔日にあっては宗教家なるものに利用され、現代にあっては商業主義に利用されるのみでなく悪用さへされるのである」
水素水、マイナスイオンに、クレベリン。
グルテンフリーに、ああ、そういえば、テスラ缶なんてわけのわからぬのもあった。
(viprpg『意味不明劇場』より)
以上を見てきた身としては、伊藤靖の言葉に対し、納得以外のなにものをも抱けない。
「人類の精神能力の退化と進化とを説くは、一つの妄想である」。チェンバレンの嘲笑が、呪いのように木霊する。
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