昭和十五年十月二十三日、大日本帝国、オットセイ保護条約の破棄を通告。
その一報が伝わるや、たちまち社会の片隅の、なんとはなしに薄暗い、陰の気うずまくその場所で、妙な連中が歓喜を爆発させていた。
猟師でも毛皮商でも、はたまた国際社会のすべてを憎む病的国粋主義者でもない。そういう「わかりやすい」連中ならば、態々「妙」など銘打たぬ。
彼らの正体――慈悲を交えず述べるなら、「不能者あるいは不能になりかけている者」。男性としての自分自身の機能に対し、深刻な危惧と不安とに苛まれている人々が、つまりこぞって快哉をひしりあげていたわけだ。
何故か。
敢えて論ずるまでもない。
オットセイが
繁殖期に突入すれば、たった一匹のオスにして、二・三十匹のメスを従え、ハーレムを築くは当たり前。
記録によれば百匹以上を己が支配に組み伏せた、とんでもない大物さえ存在していたそうである。
めしを喰うのも
ゆえにこそ、求めずにはいられないのだ。
――おれも再び、なんとかして、あのように。
と。
(viprpg『フレイミングリターンズ』より)
渇望はやがて「いかもの喰い」へとたどり着く。
医食同源と換言してもいいだろう。
オットセイの精巣をスキヤキにして喰わせる店は、条約破棄以前にも「知る人ぞ知る
しかしなにぶん需要に対し、供給量があまりに少ない。常設のメニューにあらざりしは勿論のこと、一見さんでは話にならず、値段もかなり高くつく。
賞味するには、相当以上の幸運と、執念、資力が前提として立ちはだかっていたわけだ。
「しかし、条約破棄とも相なれば」
オットセイの捕獲量はきっと上向くことだろう。
市場に流れる精巣も、日を追うにつれ増えてゆく。
我等がありつく機会とて、多くなるに違いない――と、この憐れなる人々は、肩を叩いて頷き合ったものである。
想像するだに気の毒な絵図、まこと儚き期待であった。
どうも彼らは条約破棄を、やりたい放題・獲り放題の宣言と、ごく単純に考えていたフシがある。
当然そんな筈はない。
IWC脱退後の商業捕鯨と同様に、条約破棄後も日本人は節度をもってこれを行い、濫獲は厳に慎んだ。
彼らの期待は、むなしくなった。
(viprpg『或る一つの闇のマインドリーダー』より)
なお、肝心要の、「オットセイの精巣のスキヤキ」自体の効果だが。
専門家からは、
「なんという馬鹿げきった代物だ」
と、これこの通り、辛辣な評価を受けている。
「微塵も理解していない――ホルモン剤の製造過程で、我々が払う注意・苦心が如何ほどか。有効成分の変質を可能な限り避けるため、どれだけ繊細な抽出法を確立させたと思ってる。熱を加え、醤油を加え、砂糖を加えて煮詰めるなどと、思いも寄らぬ烏滸事だ。論外、論外、論外である。そんな乱暴なやり方で効果覿面万々歳を叶えられては、それこそこっちの立つ瀬がないわ」
ぐうの音も出ぬ正論だった。
(Wikipediaより、すき鍋)
あったとしてもプラシーボ効果が関の山、ほんの一時の付け焼き刃に過ぎなかったに違いない。いわばオマジナイの亜種、より以上を期待するのは無理筋と。
いやはやなんとも世知辛い。
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