本邦新聞カラー刷りの草分けは、どうも武藤山治と、彼を社長に戴いて以後の時事新報に見出せるらしい。
昭和八年四月二十五日のコラムにて、武藤はこんな記述を残した。
…一方ラジオは、日夜音楽を放送して耳によい感じを与へる今日の世の中に、新聞紙が全面真黒の装ひで朝夕読者に
私はかやうに考へて、本紙に色刷の研究設備未だ足らざる昨年十一月頃から強ひて色刷を試み次第に進歩して昨今は可なりの程度にまで達した。
我国は色刷の元祖である。版画に秀でたる我が国民は新聞色刷に於ても、外国人に負けぬ天才的技倆がある。今後大いに進歩して世界新聞紙色刷をリードすること疑ひがない。(昭和八年発行『思ふまま』328~329頁)
モノクロを「喪服を着て人の家を訪問するのと同じ」とは、またなんとも巧い表現をするではないか。
実感に即すること限りない。ああ、ゲームボーイポケットからゲームボーイカラーへと、携帯ゲームに色が宿ったあの瞬間の大衝撃を思い出す。
『星のカービィ』『カービィ2』『コロコロカービィ』『風来のシレンGB 月影村の怪物』『砂漠の魔城』『ゼルダの伝説 夢を見る島』――青春を支えた名作たちよ。
時計やテレビリモコン等々、家電器具からこっそり電池を拝借してまでのめり込んだものだった。やがて露見し、親から大目玉を頂戴しても、まったく懲りずにまたやった。すると今度はゲーム機自体を取り上げられて隠されて――そんな鼬ゴッコの数々も、今となっては懐かしい。
あれから既に二十
一貫といえば。――
と、やや強引ながら話頭を武藤山治と新聞紙とに引き戻す。
悪名高い、にも拘らず未だに廃絶しきれていない、あの「押し紙」の因習も、武藤が時事新報のトップに立った昭和七年の段階で、既にしっかり業界内に根を張り切っていたらしい。そういう描写が、昭和八年七月二日の記事にある。
地方の販売店の使ふ言葉に「積み紙」といふのがある。これは本社から唯紙数増加のため、無理に積み送って来る其紙を積んで置いて屑屋に売るから、之を「積み紙」と云ってゐるのである。こんな販売方法が新聞社仲間には通常のことゝして行はれてゐる。これをやらなければ紙数維持が出来ないと云ふことであった。併しながら私は断然本社の販売は之を廃止した。(350頁)
掛け値なし、百年続く問題であるというわけだ。
武藤山治は昭和九年、暗殺されてこの世を去った。
時事新報が経営悪化で廃刊したのはそれからおよそ二年後のこと。
敗戦間もない昭和二十一年に復活を遂げはしたものの、やはり業績ふるわなく。昭和三十年、産経新聞に合併・吸収されている。
その産経が、ついこの間まで「押し紙」絡みで裁判沙汰をやっていた。
皮肉といえばこれほど皮肉な構図はない。何をやっているんだと、武藤山治も草葉の陰で呆れていよう。同社に武藤の精神が受け継がれんことを切に願う。
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