――あのころの江戸は酷かった。
遠い目をして老爺は語る。
彰義隊の潰滅直後、「明治」と改元されてなお、人心いまだ落ち着かず、荒れに荒れたる百万都市の有り様を。
その追憶を、落ち窪んだ眼窩の底に満たし、言う。
私の十五六の時分ですから、今から六十年ばかり前だったでせう。お粥もろくに食べられぬ時があった。大勢広場に集まって蓆旗を立てゝお粥を啜った。彼処の家はまだあるだらう、今日はどこに行かうと朝から集ってそんな相談ばかりして居た。小さな地主なんか、広場に出て来てお粥をたいて御機嫌をとらなくてはならないし、物持面をして居る旦那様なんか打ち殺されてしまふと云ふ有様だった。
掠奪団の光景である。
昭和二年に出版された『漫談明治初年』からの抜粋だ。
タイトルからして、おおよその内容は察せると思う。
昭和二年――西暦にして一九二七年。幕末・維新の風雲を実感として知る人々がまだ辛うじて存在し得た、瀬戸際とも呼ぶべき時代。日本民族伝統の「もったいない精神」が躍如として発動したのは想像するに難くない。本当に絶えてしまうより
そういう貪欲さが凝って形を成した書物といっていい。
引用を続ける。
実際話よりひどかった。襷がけで大勢が出かけて地主だなんて威張ってる家からとって来て食った。その頃は米はたった一升八銭しかしないのにそんなことをしなくては食へなかったのです。幕府が倒れる頃ですからお救ひ米なんてものもなく実に哀れなものでした。
(大名屋敷の跡で遊ぶ子供たち)
福澤諭吉は観たであろうか、この惨憺たる景況を。
可能性はなくもない。上野戦争の砲声が遠雷の如く轟こうとも講義を続行したという、慶應義塾の誇りたる例の逸話が示すまま、当時の彼は江戸に在り、文明注入に勤しんでいる状態だった。
なら、機会はある。そして実際、
それにつけても、江戸の、東京の、関東一円の心臓部の只中で、零細民が必死に粥を啜り込む。
美味くもない、水っぽいのを、しかしながら生存のため、目の色変えて。
この有り様はどうにもこうにも昭和二十年前後――戦中・戦後の絶望的な貧窮を連想せずにはいられぬものだ。やるせなく胸が詰まるというか、暗澹たる気分に襲われ、見えない重石が肩に乗る。
歴史は繰り返すというが、こいつを再演することだけは断固勘弁願いたい。
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