二十年周期で伊勢神宮は一新される。
二つの正宮、十四の別宮、鳥居、御垣、装束、神宝等々、果ては宇治橋に至るまで、一切合切総てがだ。
その造営のために用いられる木材は、悉皆檜でなければならぬと『明治の御宇』にて栗原氏は書いている。
それも檜であればどこの山のものであっても構わぬというわけでなく、
(Wikipediaより、ヒノキ林)
初耳ゆえ、気になって調べてみたところ、確かに氏の仰る通り、およそ三百年前の江戸徳川の時代から、新宮御造営の用材は木曽に求めるならわしとある。初期に於いては宮川や五十鈴川の上流に聳える山々からこれを調達していたが、なにしろ二十年ごとに一万本近い檜を消費するのだ。やがて枯渇し、かわって熊野近隣の森林にこれを求めるようになり、現在の体制に至ったらしい。
ところがその木曽の檜も、このままの調子で推移すればいずれ払底するのではないか――そんな不安があるとき関係者の胸に兆したという。
たしか明治四十二年の御造営の時であったと記憶するが、巨大の檜がしだいに減少して、遠い将来を慮れば、木曽御料林のみに御杣山を求めることは、能きぬやうになる惧れがある旨を、聞召された明治天皇は、この事を深く御軫憂遊ばされて、内務大臣や宮内大臣などに、篤と考究して百年の計を立てよと、御沙汰あらせられたばかりでなく、特に侍従を木曽御料林に遣はされ、又台湾の檜材を御取寄になり、その樹質を検査せしめたまふなど、殊の外に大御心を労させ給ひしことは、まことに畏き極みであった。(『明治の御宇』171~172頁)
式年遷宮のクライマックス、完成した新宮に、浄闇の中、御神体が渡らせられる「遷御の儀」。
最も重要なこの儀式の際、御神体をお収めする器さえもが、檜から組み立てられねばならぬのだ。良質な檜の欠乏は伊勢神宮の存亡に関わる。これは決して誇張ではない。
その後の経緯を探ってみると、大正十二年、かつての如く宮の近辺――宮域林から御用材をまかなえるよう、檜の人工林を計画的に管理し育ててゆく「神宮森林計画」が発足している。
二百年先を見据えた、実に遠大な計画だ。甲斐あって、平成二十五年に執り行われた第六十二回式年遷宮では、およそ七百年ぶりに宮域林からの用材供給を達成したとのことである。
百年の計を立てよと命じた明治帝も、きっとご満足なさっているに違いない。
伊勢神宮について、『明治の御宇』からもう一つ触れておきたいことは、そのお膝下で販売されている銘菓「赤福」のことである。
明治三十八年十一月だ。ポーツマス条約が批准され、日露両国間の平和克復が揺るぎもなく確かめられると、この喜ばしき報せを御奉告申し上げるべく、陛下の御参拝が決定された。
それに先立ち、下検分のため伊勢に派遣された官員が、栗原氏その人だったのである。
彼の地に滞在中、宿の者から氏は興味深い話を聞いた。「宇治橋の畔で売ってゐる、赤福といふ餡コロ餅(同上、262頁)」がたまらなく美味いという評判である。
早速取り寄せて試味したところ、果たして噂に違わぬ甘美な味わい。気に入ること一方ならず、旅館に居る間は昼夜を分かたず赤福を喰ってばかりいたそうな。
その姿を、同伴者の日野西資博がしっかり見ていた。
墨流號の老後を安んずるため義援金を拠出した、あの子爵である。
彼は帰京後この顛末を、陛下に対して物語り、
――栗原がそれほど病みつきになったものならば。
ということで、いざ行幸あらせられた際には赤福なるその菓子を、御慰みに天覧に供し奉るべしと直ちに注文が下された。
さて、いよいよ本番と相成って、滞りなく参拝の儀が完了し、行在所の神宮司庁にひと息つかせられた時である。一行の各員に、御祝酒がふるまわれた。
窮したのは栗原氏である。実を言うと氏は際立った下戸の体質に出来ていて、日頃酒を嗜まぬ上に、日中の空腹時が手伝って、呑めばどれほど酔うか見当もつかない。
しかしながらこれほど目出度い酒を呑まぬわけにもいかないだろう。不敬どころの騒ぎではない。意を決して呑み干した。
果然、酒気は総身に滲み渡り、それが証拠に四肢は指先まで真っ赤になって、ほとんど座に堪えかねる態すら示した。
予てより注文しておいた、「赤福」が運ばれて来たのはこの時である。それを目にした栗原氏は、酔いの勢いも手伝って、
顔もからだもすべてあか福
如上の狂歌を即興で詠み、一座を楽しませたという。
それから此の店では、光栄の赤福と称して大いに売り出し、今でも非常に繁盛して居ると聞き及んでゐる。(同上、264頁)
筆者はまだ、赤福を喰ったことがない。
俄然興味が掻き立てられた。どんな味をしているのか、いつか確かめてみたいと思う。
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