穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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御稜威かがやく地の事情


 ちょっと信じ難いような話だが――。


 京の街では昭和三年に至るまで、江戸時代が生きていた。なんと牛車が街中を相も変わらず往行し、その巨体が、体臭が、日々の暮らしの風景に、ごくさりげなく溶けていた。

 

 

(昭和初頭の京都駅)

 


 牛車といっても貴人が使う、籠に簾に蒔絵にと、漆を塗られ黒光りする車体を更に装飾して彩った、高級車輛のことでない。


 もっと簡素な、米だの酒だのなんだのと、重量のある荷物を運ぶ、輸送車輛の方を指す。


 そもそも論を展開すれば、何かにつけて守旧を好む住民の気質も手伝って、京都は他の諸都市に比較くらべ、発展の遅れた街だった。


「時流に取り残されている」ということが、いっそ、却って、もう、逆に、みやこびと・・・・・らの変態的なアイデンティティですらあった。


 福澤諭吉は逸早くこのあたりの機微を嗅ぎ、明治十七年段階で、『時事新報』の社説欄にて、

 


「…神戸の人民と大阪の人民とを対比するに、神戸人は奔馬の如く大阪人は睡牛の如く、神戸人は夜叉の如く大阪人は菩薩の如し。更に進て京都に入れば、其の人民は肥満したる豚の如く、又耳目鼻口の慾を遺忘したる仙人の如しとは、我々が常に聞く所の評語にして、其差異の著大なる、決して学者の慧眼をやとひてこれを知ることを要せざるなり」

 


 と、毎度ながらも鋭すぎる毒舌を、縦横無尽にふるってくれたものだった。

 

 

(京都洛北八瀬の里)

 


 福澤諭吉緒方洪庵門下生であり、大阪適塾OBであり、彼の地に対して薄からぬ愛着ないし思い入れがあったはずにも拘らず、それでもこういうことを言う。


 たまらぬ自由精神だった。


 まあ、それはいい。


 停滞する京の街。――その象徴が、路面舗装状況である。


 なんと京都ここでは大正十二年に至るまで、およそ近代的といっていい舗装工事が実行されたことがない。


 これは当時の市の助役、安川和三郎などが特に嘆いた点である。京都の道路は「何れも甚だ粗悪なる砂利道で、幅員も甚だ狭く、自動車のすれちがひにも困難なる有様であった」と。


 そりゃあ牛車が違和感皆無で景色に混ざりもしただろう。

 

 

(「京都の中の最田舎」、平野宮北町の景)

 


 脳の構造が単純な環境保全狂信者なら、この光景を前にして、あるいは喝采するかもしれない。おお素晴らしい、これぞ自然と人間が共存する都市である、と。


 が、幸にして安川助役は、およそその種の反文明的毒電波に汚染されてはいなかった。


 京都の道路状況は、昭和三年、天皇陛下即位式――「御大典」をきっかけに、急速な改善・発展を見る。そのあたりの消息を、再び安川和三郎に探ってみると、

 


「近時における交通量の増加、殊に自動車の増加は道路の必要を痛感せしめてゐたが、外の本邦大都市に比して、比較的遅れた京都では、その近代的舗装は大正十二年、最繁華な京極通においてなされたのが嚆矢である。それ以来交通量の多いところについて年々僅かづゝの舗装がなされたが、昭和三年御大典に先だって烏丸御道筋、及び河原町通が舗装されて以来、漸く市民に舗装の便利と必要を痛感せしめ、昭和四年度から十ヶ年の継続事業として市内主要道路、四十五万三千二百九十坪の舗装が計画されて着手中である

 


 誇らしげに――あるいはヤレヤレやっとだよ、と、安堵に胸を撫でおろしつつ述べている。

 

 

四条通

 


 ――「よき道はよき車を齎す」


 フォードの警句そのままに、道路事情の改善に伴い、京都の自動車台数も一気に倍まで跳ね伸びた。昭和二年の一〇六三台から、御大典を間に挟んで昭和四年ともなると、二六四二台に増えている。


 この機械力の伸長が、京都の街から動物力を――牛車の姿を、ついに拭い去ってしまった。


 京都に対する皇族の影響力の夥しさを思わずにはいられない。

 

 

(清涼殿内部)

 


 明治大帝の東遷により沈みに沈んだこの街が、新帝即位の儀式によって嘘のように一皮むける。


 御稜威かがやくところであった。

 

 

 

 

 


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