詳しくは、「子曰、夏禮吾能言之、杞不足徴也、殷禮吾能言之、宋不足徴也、文献不足故也、足則吾能徴之矣」。
孔子は夏の国の礼について、十分語ることが出来た。しかしながら夏の後に興った杞国については、詳しく検証することが出来なかった。
また殷王朝の礼についても彼は通暁していたが、殷の後に隆盛した宋については、やはり確かな研究を施せなかった。
これみな今日に伝わる文献が、圧倒的に不足しているゆえである。もし文献が十二分に保全され、今日に伝わっていたならば、わしはそこから更に知見を深めることが出来ただろうに、惜しいかな――と、大意をまとめればこんな具合か。
(孔子)
まこと、書物とは貴いものだ。孔子の嘆きはもっともである。
明治十一年の御製である。
陛下の御齢、26歳前後であろうか。
西南戦争が勃発し、西郷隆盛なる巨星が堕ちたその翌年。若き陛下が如何な想いでこの歌を詠んだか、その胸中に思いを馳せると、
上記に於いて杞や宋の文献不足を嘆いた孔子。そんな彼がみずからの死後、初めて中国全土を統一した秦の始皇帝の手によって、己の教えが記された書やそれを信じる学者たちが次々抹殺されたと知ったら、果たしてどんな顔をするであろうか。
とか、
とか川柳子に諷された、悪名高き焚書坑儒のことである。
この大弾圧の真っ只中で、しかし文献の貴重さを知る者たちは、なんとかこれを後の世代に繋がんと、実に涙ぐましい努力を重ねた。その結果、題に掲げた
――壁の中の書
という言葉が生まれたわけだ。
焚書坑儒の狂風去って久しい漢代のあるとき、孔子の旧宅の壁の中から、『古文尚書』や『古文孝経』といった書物が発見されたという故事である。
これを題材にした川柳というのも数多い。
秦の闇 魯国の壁で 明るくし
壁にされ ても末世まで 書は照らし
壁やれて 野暮な理屈が 生れ出で
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