先日の記事に引用した栗原広太著『明治の御宇』には、動物の話がふんだんにある。
たとえば馬だ。
機械力の未発達なこの時代、生活の随所に活用されていたのは動物力こそであり、特に牛馬は農耕・輸送・数多の面でなくてはならない存在だった。
人間と馬との関係は、今よりずっと密接だったといっていい。
他ならぬ明治天皇ご自身も馬をいと深く愛せられ、なんでも主馬寮の記録を参照すれば、一年のうちに御苑内の御馬場で御調馬あそばされた回数が、二百七十回を超えることすらあったということである(『明治の御宇』33頁)。
二日に一回では追っつかぬ、三日に二度は御乗馬せねば達成不能な数字であった。
まがきの菊の花も見えつつ
いさみたつ駒にうちのり吹上の
にはの雪見にいでしけふかな
二首とも陛下の御製である。
月の夜も雪の朝も馬と共に味わった。見事な岡惚れぶりといっていい。
時には陸軍将校を相手に競馬や打毬に興じ、郊外まで遠乗りに出掛けることも一再ならずあったというから、帝の英気溌溂たる男ぶりが自然と脳裏に描かれてくる。
晩年に至り、糖尿病を患って以降は特別な場合――観兵式や陸軍の演習など――しか鞍上の人とならなくなった陛下であるが、馬への愛情は些かも減ぜず、明治四十年には、
いくさのにはにたちしあら駒
このような歌を詠まれている。
二年前に終結した日露戦争――酸鼻を極めたあの戦いで、遠く満洲の曠野を駈け、砲弾の脅威と疫病の恐怖、飢餓の苦しみに晒されながら、それでもなお忠実に自己の役目を果たさんとした軍馬を愛でし歌であろう。
こうした陛下であるゆえに、その周辺に近侍する宮内官とて乗馬に無知ではいられない。
――乗馬の練習をせよ。
と直々の御沙汰を賜った者が、ことのほか多かったようである。
栗原氏もまた、その例の中に含まれた。
陛下の仰せなだけあって、随分と発奮したようである。
が、なにぶんずぶの素人のこと、
その練習中には、落馬をしたことも、一度や二度ではなかった。鞍に跨ったまま、厩舎の中に駆け込まれたこともあった。また疾走中急に停止せんとして、強く手綱をひいたはづみに、両足を鐙からはづしてしまひ、附近に立番をして居った、皇宮警手の手をかりて、やっと下馬したといふやうな、失敗や珍談はなかなかに多かった。(同上、34~35頁)
如何に意気が先行しても、技量はなかなか追随しない。他の宮内官達も、五十歩百歩であったろう。
これら素人どもの面倒をよく見たのが、墨流號なる十八歳の老馬であった。
東北地方は宮城の産。
四尺九寸五分雑種青毛の、至って性質の温順な馬――。
しかしながらこの馬がたどって来た半生は、尋常一様のものでない。
日清戦争に於いては征清大総督府の一向に加わり、大陸へ渡り、銃弾飛び交う戦場を縦横に馳駆した、軍馬としての経歴すら持つ。
墨流號の大人しさは、謂わば海千山千の、至って
それゆえに、初学者が乗る馬としてこれほど適当なものはないであろう。
私ばかりではない、苟も宮内官で馬術を学んだ者で、此の馬の世話にならぬものはなかった。(同上、39頁)
栗原氏は斯くの如くに述懐している。
さて、馬の寿命は平均して二十年から三十年。よく奉公してくれた墨流號ではあったが、年々老いの翳りは濃くなってゆき、彼が二十三の折、とうとう廃馬認定を受けてしまう。
明治四十一年も暮れかかった、師走のある日のことだった。
廃馬と定められた馬は、入札により民間に払い下げられるのが決まりである。
あるいは愛好家の手に渡り、幸福な余生を過ごせるかもしれない。
が、そうでない可能性もふんだんにある。全身で以って乗馬の手ほどきをしてくれた、恩師以外のなにものでもないこの馬を、いたずらに運命の手に委ねる心算は栗原氏に於いて皆無であった。
私は侍従の日野西資博子をはじめ、省内の同志と謀って義金を醵出し、特に藤波主馬頭の斡旋を煩はして、払下を受けた人に代償を与へて引取り、更に下総の或る篤志家に、余生を安楽にして天寿を完うせしめるやうにと、若干の養老資金を添へて、飼育を懇嘱したのであった。(同上、39頁)
一連の経緯を、明治天皇はふとしたことから聞き知って、いたく感じ入った御気色になり、栗原氏以下にお褒めの言葉を賜ったという。
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EXボスを務める彼女を、私は未だに撃破できない。
天正九年に京の都で営まれた織田信長の馬揃えを、正親町天皇はいたくお気に召されたとも聞くし、皇族と馬の関わりは存外深いものがある。
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