穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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好悪は理屈を超越す ―原稿用紙と鈴木三重吉―

 

 奇癖といえば、鈴木三重吉を外せない。


 この漱石門下の文学者、児童雑誌『赤い鳥』の主宰人に関しては、最初の方でわずかに触れた。そう、欧州大戦勃発時、「愉快な戦争」なるドギツイ題の稿をしたため、

 


 ――私は世界的の大戦争になって来たのがわけもなく愉快でたまりません。


 ――政府も観戦将校と共に観戦文学者を欧州に送るといゝですね。東洋に戦争が波及したら、少なくとも日本の軍艦へはひとりづゝ文学者を乗せて戦争を見せるといゝと思ひます。平生だって時々招待して乗せて歩くといゝと思ひます。いろいろの意味で国家とわれわれと双方に効果があるんですがね。


 ――日本も早くどこかとやらないかな。そして軍艦へだけは乗せないかなあ。これは真面目で国家の問題にする価値があるぢゃありませんか。

 


 こんな具合に、前代未聞の物凄すぎるつらあて・・・・を嬉々としてやったあの彼だ。


 如何にも大正・昭和の文学者という感じがする、性格の偏りっぷりであったろう。

 

 

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 さて、そんな鈴木三重吉だが。――実のところこの男、原稿用紙に文字を書くのが大の苦手に他ならなかった。


 感性がするどすぎる所為であろう。


 どうもこの男、おろしたての原稿用紙に処女雪を見るような錯覚を託していたらしい。


 誰の足跡もついていない清澄なる銀世界。その静寂にいっそ神威すら覚え、破るべからずと怖じ憚るのと同様に。真っ白な紙面に向き合うと、その単調の美しさ、ひいては手触りの滑らかさについつい魅せられ、そこにペンを走らせるのがひどく無粋な行為に思えて仕方なかったそうである。


 だから、

 


…わざわざ一二行いたづら書きをしてそれを前にのべたように直線でぬりつぶして、それを五六枚用意してから文章を書きはじめる。それが比較的筆がずんずん進んで次の一枚に移る時に、最う真白い紙しかなくなると、又その勢が挫折して書けなくなる時がある。(『鈴木三重吉全集 第五巻』114頁)

 


 こんな「対策」を編み出す必要があったわけだ。

 

 

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 傍から見れば徒労も徒労、阿呆らしくもある所業だが、本人は至って真面目であり、切実である。


 笑うべきではないだろう。そも、あらゆる真面目な努力というのは、その当事者の心に添えない第三者の瞳には、なべて滑稽に映るものではなかろうか。


 私とて妙な性癖の七つや八つは持っている。


 自覚しているだけでそれだから、現実には更に数倍に及ぶだろう。


 その中から鈴木三重吉と似通う要素を抽出すると、たとえば文字の好き嫌いがあげられる。


 いったい鈴木は「玄関」という文字の並びを忌み嫌うこと毛虫よりも強烈で、作品に登場させるのを努めて避けた。どうしても描写が必要な場合は主に「上り口」と書き、結果文章全体の語感が損なわれても敢えて顧みなかった。


「関係」という単語は普通に使っているあたり、「玄」と「関」とがそれぞれ独立している間なら、まだ辛うじて我慢の範囲内らしい。しかしながら組み合わさるともう駄目だ。たちまち拒絶反応を起こして吹っ飛ぶ。

 

 

Akai-Tori first issue

 (Wikipediaより、『赤い鳥』創刊号)

 


 私の場合、「無論」という単語に対し似たような生理を抱えている。だからここまで書き連ねてきた文の中でも、常に平仮名で「むろん」と書いて使用を避けた。何故と問われてもどうにも答えようがない。

 

 

 ――好きだ嫌ひだといふのに、理屈がつくやうでは、実は真物にあらず。ただ何となく好きだ、何となく嫌ひだといふのが、ほんとうの好きなり、嫌ひなり。

 

 

 畢竟、高島米峰のこの喝破に縋る以外になく思われる。


 物事の好悪なんぞというのは、まったく超理屈的の境地にあるのだ。

 

 

 

 

 


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