穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

落日近し ―戦場心理学瑣談―


 ここに手紙がある。


 差出人は名もなき軍医。支那事変の突発後、召集に応じて大陸へ馳せた無数のひとり。黄塵乱舞す彼の地から、山紫水明、日本内地の医友へと書き送ったものである。


 内容に曰く、

 


 近頃内地からの慰問団や慰問文・新聞・雑誌などから受けるものに共通した概念がある、一例をあげると、勤勉力行・貯蓄報国・スフ入り国防服・モンペ姿の令嬢・日の丸弁当、といった類のものである。どれ一つとりあげてみても悪いものは一つもない。然し、生活態度が多種多様な大きな社会に於て、短時日の間に判で押したやうな変化は考へられぬ。之がかけ声だけであるとすれば困ったものであるし、私共、前線の者を励ますためであるとすれば、誤りもまた甚だしいものである。例へば、日の丸弁当がいゝとしたところで、三度の食事に、これで充分と云ふ訳にはいかんだらうし、そのやうな事を誇張するのは卑屈な気持である。

 

 

 


 達意の文章といっていい。


 戦地にあって、よくまあこれほど冷静に、水のような観察力を発揮できたものである。


 医者の随筆は面白い、理路整然と進むこと、流石は解剖実習を積んだだけのことはある、と。


 これまで数次にわたって嘆称したが、今回みつけたこのこれも、どうやら例外でないようだ。


 手紙は更にこう続く。

 


 私共が南京米と乾野菜で生活してゐる時、銃後の人が鮨を喰ふたときいても、何とも思ひはしない。また私共が熱風の中を行軍する時、銃後の人々が、海水浴やハイキングに行ったときいても何とも思ひはしない。相互に分に応じた生活といふものがあるのであって、真摯な道を辿ることが目下の際の大切なことではあるまいか。

 


 災害のたびに何処からともなく湧いてくる、あの不謹慎厨と通称される種族には、ぜひともここのくだりについて再三朗読してもらいたい。

 

 

 


 私共の残して来た家族や兄弟や友達が、私共を慰めんがためにいろいろ苦行をされるとしたら、私共の慰安になりはしない。私共は紋切型の慰問で喜びを覚える程、単純ではないのだ。命をかけた生活をしてゐる時の人間の心は、平常以上に複雑なものである。

 


 至言であろう。


 そうだ、前線心理は単純ではない、一筋縄ではくくれ・・・ない。


 複雑怪奇を極めるそれを、しかし把握するために、アメリカなどでは国家規模のプロジェクトを興したものだ――それこそ第一次世界大戦の段階で、既に。


 一九一七年、対独宣戦布告直後、国立学術研究会議心理学部門に新たに置かれた、十三の委員会がそれ・・である。


 その細目をみてゆくと、

 


(Ⅰ)軍事と関係のある心理学上の文献調査委員会
(Ⅱ)徴募兵の心理学的検査に関する委員会
(Ⅲ)航空の心理学的問題に関する委員会
(Ⅳ)特殊の技能を必要とする任務に採用せらるべき人材選定委員会
(Ⅴ)陸海軍に於ける慰問に関する委員会
(Ⅵ)軍事に必要な視覚上の問題に関する委員会
(Ⅶ)軍事教練及び軍律に関する教育学的・心理学的諸問題への対策委員会
(Ⅷ)無能力者の心理学的問題に関する委員会
(Ⅸ)感情の安定、恐怖及び自律に関する委員会
(Ⅹ)ドイツ系に戦争気分を喧伝することに関する委員会
(Ⅺ)軍事上重要なる聴覚に関する委員会
(Ⅻ)虚偽検査に関する委員会
(XIII)軍隊教育に心理学を応用することに関する委員会

 


 本気にも程がある布陣であった。

 

 

アメリカに於ける学生への軍事訓練)

 


(Ⅹ)のドイツ系とは、アメリカ国内に居住するドイツ人らを指しているに違いない。


 まさに総動員、「水も漏らさぬ」の見本のような態勢だ。


 一方日本はどうかというと、一次大戦から二十年弱を経過した支那事変の段階に至ってもなお、「全国の帝大心理学教授全部を合しても辛うじてコロンビア大学一校の心理学教授数に達するに過ぎない有様」であるから、悪い意味で比較にならない。


「これでどうやって欧米に追いつけばいいんだ」と、数少ないスペシャリスト、小保内虎夫が悲痛な叫びを上げている。

 

 

Detroit Photographic Company (0671)

Wikipediaより、1900年頃のコロンビア大学

 


 ああ、今年もまた、八月十五日がやってくる。


 この時期になると、どうしてもこういうことを書きたくなるのだ。


 つまりはそういうわけである。

 

 

 

 

 


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