穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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魂叫 ―ドイツ兵士の書簡撰集―


 ただならぬ本を手に入れた。


 表題は『最後の手紙』。その名の通り、第一次世界大戦当時のドイツに於いて前線の兵士が書き送った手紙類をまとめたものだ。


 帝政ドイツ版『世紀の遺書』といっていい。

 

 

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「俺に弾丸が当たるものか」と大見得を切ったその直後、腕と腹部にそれぞれ一発づつ喰らい、ばったり昏倒する士官がいたかと思えば、機関銃の猛烈な火箭を避けるため、血相を変えて飛び込んだ邸宅のキッチンでたまたま残されていた苺ジャムを発見し、その味わいがまた天上の蜜のように甘美であったと吐露する者もいたりして、その記述はときに血しぶきを幻視するほど生々しく、全編通して現実感覚に即しきった構成をしている。


 この戦争でも、いい若い者が山ほど死んだ。

 


 私の最後のご挨拶です! 若しも私が戦死の運命を辿るとしても、その場合には必ず、祖国の名誉を守らんがために、しかも勇敢なドイツ軍人として戦死したのだとお思ひになって御心をお慰め下さい。――御機嫌好う!(19頁)

 


 書き手のディートリヒ・ウィンテルは実に年齢26歳


 1914年8月28日、セダン附近に於いて戦死。


 よく似た文意の書簡を、我々はたとえば靖国神社遊就館あたりに於いて、容易に発見し得るであろう。生きて帰ろうなどとは思うな、国と君とに捧げた身、死んだつもりで戦い抜くぞ――そうした思潮は、なにも大日本帝国の独占物ではない。

 

 

World War II military equipment on display at the Yūshūkan in Oct 2008

 (Wikipediaより、靖国神社遊就館

 


 私にとって、私のすべての地上的幸福を祖国の祭壇に犠牲として供すことより大なる美事は存在し得ません。お別れも私にとっては困難ではありません。もしも壮烈なる戦死といふ、この人生最後の偉大なる幸福が私に与へられた暁には、あなたはあなたの息子ハンスが幸福な生涯を終ったといふことを確信して頂きたいと存じます。(35頁)

 


 こちらはいよいよ日本的だ。


 書いたのは、ハンス・グラーフ・フォン・デル・ゴルツ


 名前から推し量るに、名門の出であったろうか。弱冠19歳のこの若者が戦死したのは、1914年8月23日、ナミュール市近郊に於いてであった。


 みずから掲げた美の姿に、みごと殉じ切ったといっていい。


 あるいはそれともこの勇ましさは、子を喪う母の嘆きを少しでも軽減せしむべく、殊更に強気を装った、せめてもの心遣いであったろうか。


 今となっては謎であり、また永遠に謎のままにしておくのが相応しくも思われる。

 

 

Namur JPG02

 (Wikipediaより、ナミュールの街並み)

 


 あなたに私の今までの体験をすっかり申し上げることは、あまりにも長くなりすぎませう。全く人間離れのした努力をした後には、死んで了ひさうな退屈な時が続いたり、何日間もの見張番の後には、思ひ切って睡り続けたり、またこの上もない窮乏の後には、困るほど有り余る物資に恵まれたり、いつもかういふことを繰り返してゐるのです。例へばこの間だって、二日半といふものパン一かけらも、いや食べられるものがなんにも、いや実際根こそぎなんにも無かったことがあります。ところが昨日はまだ朝食だといふのに、赤ブドー酒に生卵、鶏肉のバタヤキ、タタール風のビフテキ、それにデザートとしてチョコレートと、三つ星印のコニャックといふ豪勢さです。今日もまだ物資は充分です。しかしあしたはもう何もないかも知れません。第一線の生活はこんなものです。(32頁)

 


 つくづく註文通りに運ばない、人界に於ける最大難事。


「どんなに完璧な計画も、実行に移した瞬間から崩れ始める」という一言は、戦争の本質をよく穿ったものだろう。


 前線暮らしの実情を赤裸々に書き綴ったこの手紙は最終的に、以下の如き結論へとたどり着く。

 


 私たちは死力を盡すことを固く決心してゐます。しかし一人々々の運命が何うなるかといふことは勿論分ったものぢゃありません。そして私に若しものことが有った時には、勇気をお持ちになって、その苦しみに打ち克って下さい。決して決して自殺のやうなことなどして下さらぬやうにお願ひします。わたしはここへ来ましてから、人生は肯定すべきもので、めいめいの人は勿論その人なりの生き方で生き抜かなければならないものだといふことを悟るやうになりました。(33頁)

 


 一連の文章をしたためてからおよそ三週間後、書き手のホルスト・ボイケルトマルヌ会戦の喧騒のさなか、ディートリヒ・ウィンテルと同じくわずか26年でその生涯に幕を下ろした。

 

 

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マルヌ川

 


 今はもう人々が、安閑と高い絶壁の上に坐り込んで、荒れ狂ふ怒濤が岩を噛むのを下に見ながら、部厚な議論倒れな本を書いてるやうな時ではありません。此の渦巻き荒れ狂ふ怒濤は、あらゆるものを引浚ひ、我々の身命も、恐ろしい人生の深淵に吸ひ込まれてしまふのです。物事についての議論には終止符が打たれ、そしてあらゆる理想は灼熱の中に於て燃え盡すか、又は鋼鉄よりも金剛石よりも堅固になるかです。たとひどんなに澄まし込んでちっぽけなマントを纏ひつけてゐようとも、今や暴風がそんなぼろぎれ・・・・のやうなものを吹き飛ばしてしまひ、そして戦争と云ふ血に渇いた劫火の前にその者の仮面が引剥れて、空威張りしてる馬鹿野郎なのか、それとも賢者なのか、又真の基督教徒なのか、或は偽善的な教会の奴僕なのか、はたまた法螺吹きの山師なのか、又は、真実の哲人なのかがはっきりすることでせう。(12~13頁)

 


 ラインホルト・ズィーボルツが己が見解を披露したのは1914年8月18日、20歳の峠を越したばかりのことである。


 同年代の頃の私に、これほど巧みに自己の思想を表白することが出来ただろうか?


 敢えて自問するまでもない。不可能だ。当時の記述を振り返るたび、いたずらに血気ばかりが先行しているのがありありと目につき、頭を抱えて丸まりたくなる。


 ラインホルトが戦死したのは翌年8月10日の砌、西部戦線の一角、ラ・バセ近郊に於いてであった。

 

 

La Bassée Hotel de ville

Wikipediaより、ラ・バセ) 

 


 享年、21歳。


 彼の血が滲み込んだであろう土地――フランス北東部のこのあたりには、たとえばアラス戦没者墓地など、当時を偲ぶ遺構・施設がそこかしこに点在し、訪れる者を厳粛な心に導いている。

 

 

幼女戦記 1 Deus lo vult

幼女戦記 1 Deus lo vult

 

 

 

 


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