穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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総督府のひとびと


 鉄道部の村儀むらよしは、とにかく色の黒い男であった。


 おまけに顔の彫りも深い。


 弥生人との交配を経ず、縄文人がそのまま現代に生き残ってしまったような骨柄で、それだから外来客が総督府内で彼を見かけたりすると、


「生蕃(原住民)を官途に就かせているのか」


 いくらなんでも時期尚早、性急に過ぎる措置ではないか――と。


 危惧と驚愕を綯い交ぜにして迫るのが、半ば約束事になっていた。


 しかるのち、彼が純然混じりっ気のない日本人だと聞かされて、繰り返し驚けるという寸法である。

 

 

Tsou youth of Taiwan (pre-1945)

 (Wikipediaより、台湾原住民の一氏、ツォウ族の青年)

 


 ある種の名物男といっていい。


 しかし当人の胸中たるや、果たしていかばかりであったろう。


 蔭ながら苦痛に思っていたのか、それとも「猿」と呼ばれた太閤秀吉の故事に倣って、なあに渡世の道具としては中途半端な美形よりこちらの方が優れていらァ、一度見たら忘れられない面だからなと、開き直りの気持ちでいたのか。


 今となっては知る由もない。台湾総督府鉄道部事務官、村儀保の真意など――。

 

 

Government-general of Taiwan

Wikipediaより、台湾総督府

 


 彼はまた、出張先でもこの外見的特徴で、思わぬハプニングを惹き起こしている。


 明治の末ごろ、フィリピンに渡った際の出来事だ。


 村儀はまず第一に、マニラの日本大使館を訪れた。挨拶を済ませて辞去せんとすると、今夜はホテル・ノワールに泊まるといい、住所は此処だ、君が行くことは既に向こうに通知してあると、いちいち手配りのいいことである。


「これは」


 かたじけなしと好意を謝して、指定された場所へ向かった。


 ところがいざフロントに立ってみるとどうであろう。受付との会話が、どうも滑らかに運ばないのだ。互いに伝えたい内容の半分も交換できていないようで、村儀は内心冷や汗をかいた。つい先年、鉄道員必携鉄道英語会話』(明治四十年)なる小冊子の編纂に関わった身であるというのに、この無様さはどうであろう。きまりが悪いことこの上なかった。

 

 

The Escolta - The Broadway of Manila (1899)

 (Wikipediaより、1899年マニラの通り)

 


 いっそ自己嫌悪に陥りそうな村儀の前で、しかし事態は思わぬ方向に急転する。


 徒労感に辟易しつつあったのは、受付も同様だったらしい。顔を顰めて振り向きざま、奥へ向かってそれは流暢な日本語で、


「旦那どうもおかしな奴が飛び込んで来ました、英語は英語らしいが、なにを言ってやがるのかサッパリ分からないので……」


 こんなことを言い出したから、村儀は顎をすとんと落とし、そのまま閉じられなくなった。


 呆然とする彼をよそに、奥からこれまた紛れもない大和言葉が跳ね返る。


「どんな男だい?」
「イヤにドス黒いからモロの土人ですかな」
「馬鹿、そんな奴ァさっさと断れ、ぐずるようなら叩き出せ」
(あっ、これはいけねえ)


 暢気に口を開けたままではまずいと、村儀保次、気付かざるを得なかった。


 このままではミンダナオとかパラワン島くんだりでコーランを崇める原住民と誤解され、棒で追われる破目になる。急ぎ舌を旋回させて、


「待て待て、お前ら日本人かい、俺は台湾の村儀だ、領事館から報せが届いているだろう」


 日本語で以ってまくし立てると、


「うへあ!」


 よほど動顛したのであろう。鳥類の叫喚ひとつを残して、受付は奥に飛び込んだ。

 

 

Agung 11

 (Wikipediaより、モロ族の男性)

 


 ――以上の如きエピソードが、大正十五年刊行、下村海南『思ひ出草』に載っている。


 これまで何度か触れてきた通り、海南は大正四年から台湾の民政長官として砕身した人物で、彼が着任した当時、この逸話はまだ十分な鮮度を保って職員の口に膾炙されていたのであろう。

 
 自然と海南の耳にも入った。


(フィリピンか。――おれにも覚えのあることだ)


 とっさに想起されたのは、ベルギー留学時代の思い出である。


郵便貯金制度の調査」という名目のもと、逓信省から派遣された海南だったが、この男が真に調べていたのはむしろ、ビリヤードの技術こそであったらしい。山田三次郎、久野安雄、松村貞雄といったような留学仲間を引き連れて、ブリュッセルの街に繰り出し、連日連夜、球を突いてばかりいた。

 

 

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 悪い遊びに嵌ったと、そういって差し支えないだろう。耽溺したといっていい。たちまち馴染みの店ができ、店主とも親しく話すようになる。


 その一軒で、あるときこんなことを耳打ちされた。

 


…主人はお前のコンパリオット――同国人――が遊びに来たといふ、人数は三四人で昨日も来た今日も来たといふ、日本人が十名足らずしか居ないブリュッセルで、吾々が知らぬ筈が無い、不思議な事だと思ふたが、たうとう或る晩に其コンパリオットなるものと落ち合ふた。主人の指す球台を囲んで成程同じ毛色眼色の男が四名計り居る、思はずツカツカと傍へ出かけて
「皆様は何日御越しになりました?」
 返事がない。
ブリュッセルに逗留して居るのです?」
 未だ返事がないウンともスンとも返事無しで、怪訝な顔をして居るから、ハテナと思ふて、
エスク・ブ・ヂャポネー?(お前は日本人?)」
 と直説法にたづねて見ると日本語が通じない筈である。
「ジュ・スイ・フィリッピン!(わたしはフィリピン人です)」(『思ひ出草』25~26頁)

 

 

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(左から、湯浅倉平、山川端夫、下村海南)

 


 海南のベルギー留学は明治三十一年から始まったこと。


 日露戦争もまだだというのに、国外に出たアジア人が日本人を名乗りたがる風潮は、このころ既に珍しくなかったそうである。

 

 

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