こんな野郎も珍しい。
三原山の火口に飛び込み、火葬の手間を一挙に省き、文字通りひとすじの煙となって昇天する輩なら、ダースどころかグロス単位で存在していた昭和日本。
ところがこの日、古賀某なる二十三歳の会社員が飛び込んだのは、三原山にあらずして、それより西南西の方角に800㎞ほどいったところの、阿蘇山中岳第一火口だったのである。
(Wikipediaより、2009年の中岳火口)
彼が日夜起居していたのは佐賀県久留米市のうらぶれた下宿だったから、はるばる三原山まで行く手間を面倒がったのかもしれない。
安価に近場で片付けちまえということで。
薄明、朝靄をおしてえっちらおっちら斜面を登り、先着していた観光客を掻き分け掻き分け、最前列に出るが早いか、気合一番、えいやとばかりにI can flyをやってしまった。
当時の第一火口というのは、湯だまりがエメラルドグリーンの淵を湛えて、白煙がまるで羽衣のようにたなびき踊るというような、現在の如き穏やかさではとてもない。飛行機上からその様子を見た海南は、「盛んに黒烟を吹きあげて、この世からなる焦熱地獄」とおそれを籠めて書いている(昭和九年『通風筒』33頁)。
そんなところに身を投げたのだ。
(『アサシンクリード オデッセイ』より)
居合わせた者の誰一人として、彼の絶命を疑わなかった。不孝者めが、若い身空で、あれ勿体なやと、そんなことばかり言いさざめいた。
ところがどっこい、古賀青年の頭上には、悪運の星が輝いていた。
彼は生きていたのである。
狙ったわけではない。ただ我武者羅に跳ね飛んだ。にも拘らず、大地を離れた彼の身体は奇遇にも、火山灰の特に厚く堆積している場所をめがけて落下して、これが衝撃を大いに緩和、致命傷を負わずに済んだ。済んでしまった。
さりとてまったくの無傷でもなく。古賀の意識はしばしのあいだ頭蓋骨を脱け出して、そのあたりの虚空をふよふよ漂う破目になる。
やがて意識を取り戻したとき、この男の精神は、既に飛び降り前とは別物だった。
あとちょっと爪先をすべらせたなら、今度こそ火口にダイブして骨も残さずこの世に別れを告げられるのに、彼はそちらに目もくれず、熔岩の冷え固まった岩壁を遮二無二攀りはじめたのである。
一見支離滅裂に思えるが、こういう心理的経過を辿る自殺未遂者は割合多い。
たとえば菊池寛なども、もろにコレをテーマとした短編小説を書いている。「身投げ救助業」がすなわちそれだ。
身体の重さを自分で引き受けて水面に飛び降りる刹那には、どんなに覚悟をした自殺者でも悲鳴を挙げる。之は本能的に生を慕ひ死を怖れる
古賀某の内面も、だいたいこんな具合であったに違いない。
それにしても彼の置かれた状況は、際立って個性的であり過ぎた。
熱気に炙られ、硫黄臭にむせびつつ、ザイルもメットも、一切の道具を身に着けず挑む岩壁登攀――。
暴挙としかいいようがない。
これはこれで正気の沙汰とは程遠かった。
が、この無茶をみごと完遂しておおせたあたり、極限まで追い詰められた人間の爆発力とは凄まじい。
いわゆる「火事場の馬鹿力」の証明だった。
古賀が火口から這い出したとき、時刻は午後六時を少し回って、空には宵闇が満ちつつあった。
最後の体力をふりしぼり、茶屋の扉を乱打する。応対に出た従業員がすわ亡霊かと早とちりして腰を抜かしかけたというから、彼の
(Wikipediaより、中岳遠景)
のち、警察の取り調べに対し古賀某は、
「全く無我無中だったので、自分でもどうしたのかさっぱり分かりません。今から考へるとあの恐ろしい火口に飛び込んで、よくもはひ上がれたと不思議でなりません。思ひ出してもぞっとします」
と供述している。(『通風筒』34頁)
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