穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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昭和十一年の森林窃盗 ―山本実彦の記録から―


 改造社の文庫本なら、私も何冊か持っている。


 例えば、ここに掲げた二冊。菊池寛の『無名作家の日記 他二十三篇』に、横井時冬『日本商業史』

 

 

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 手に取ると、紙とは異なる滑らかな触感が伝わってくる。よく磨き上げられた胡桃の殻が、あるいは近しいやもしれぬ。


 改造文庫は昭和四年に創刊し、同十九年に幕を下ろしたシリーズだ。あの時代にプラスチックなどある筈もなし。この手触りは、すなわち布張りゆえのそれだろう。


 岩波文庫との差別化を図り、あつらえられたこの工夫。だいぶヘタりつつあるといえども、その特徴は未だ失われてきっていないのだ。


 この文庫の出版元――改造社が誕生したのは大正八年、欧州大戦終結の年まで遡る。


 鹿児島の雄、山本実彦を中心としてのことだった。

 

 

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(後ろ姿の山本実彦)

 


 私は目下、この山本が昭和十二年に世に著した、『人と自然』という題名の本を読んでいる。


 そこから汲み取れることは、どうやらこの人、かなりの旅好きだったらしい。


 北海道の阿寒湖でマリモを観察したかと思えば、態々冬季の金精峠に挑戦し、大島では三原山の火口を眺め、小金井の夜桜に陶然とする――。


 そうした紀行文の類が、本書の大半を占めている。


 特に印象的だったのは、雌阿寒岳に登った際の一幕だ。北海道東部、釧路市足寄町に悠々と跨る標高1499mの活火山。蚊軍の襲撃に苦しめられつつ、その五合目までなんとか登りつめた山本は、山小屋を発見したのを幸い、一息つこうと扉を開ける。


 しかしながら中で彼を待っていたのは、意想外にもほどがある光景だった。

 


 だまりこくった山の監守が独りで何か懸命に書きものをしてをる。それは登山者の住所名簿であったが、何がためにそんなものをつくらねばならないのか。登山者のうちの不心得者が高山植物を盗取するのが多いため、わざわざねずの番を置いてあることがわかった。日頃のもやもやする俗念を清浄するための山登りである私に、山の上でも紳士の泥棒があることや、醜い生の闘争への場面をきかされて不愉快な思ひをさせられた。(20頁)

 

 

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雌阿寒岳遠景)

 


 高山植物の盗掘は、現代日本社会に於いても有志の頭を悩ませる、深刻な問題の一つである。


 登山中、たまたま目についた美しい花。


 記念にと深い思慮なく手を伸ばす。


 そうした「おみやげ盗掘」もあれば、端から転売目的で道具を携え入山し、文字通り「根こそぎ」持って行く不届き者も後を絶たない。2017年の福島県では、浄土平に100ヶ所以上の盗掘跡が確認された。


 インターネットの普及によって販路もまた拡大し、誰もが下手人になり得る現代いまと違って、山本実彦の昔に於いては大抵犯人は知れていた。案の定と言うべきか、植木屋に多かったそうである。


 大方得意の資産家にでも売り込んで、小金を稼いでいたのだろう。


 この連中は、多くの場合、団体で来た。


「御来光を拝むのだ」


 そう言い繕って夜の間に山へと入り、闇に紛れて大仕掛けに盗ってゆく。そのやり口をこんこんと聞き知った山本は、


「心の曲ったものはかくて山の太陽すらも冒涜するのだ」


 と、憤りを露わにしている。

 

 

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 (Wikipediaより、雌阿寒岳と阿寒富士)

 


 暗視装置を積み込んだヘリコプターが空からの巡回を行っている、今日の北海道を知ったなら、山本の腹立ちも少しは紛れるだろうか。


 いや、案外逆に、一段と辟易を募らせそうだ。そうまでせねばこの犯罪を止められないのか、山の自然を破壊して、種を絶滅の危機に追いやってまでみずからの懐を肥やさんとする、さもしい人間性の持ち主が、まだそんなにも多いのか、と――。


「人間の金に対する欲心は、愛国心よりも強い」。


 三土忠造の言葉だ。


 高橋是清の薫陶を受けた彼である。


 大いにもっともと言わねばならない。愛国心に於いて既に然り、いわんや自然愛に於いてをや、だ。

 

 


 山本実彦はこの後も、六~七合目の間あたりで入り込んだ石室に於いて、ビール瓶や弁当の包みがそこいらじゅうに散乱している「正視するにたへない狼藉ぶり」に遭遇し、


 ――これで山の道徳もすさまじい。


 と、心の底から嘆息している。

 

 

  

 

 


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