とんだ「拾い物」をしたことだ。
「プラネタリウムで美しい星の世界」
「有楽町」
「帝都に出来た新名所」
「東日天文館」
諸余の単語を綜合するに、昭和十三年十一月三日、東京日日新聞会館内に開かれた、天文普及施設の広告とみて相違ない。「日本初」の栄冠こそ大阪市立電気科学館に譲ったものの、東京初のプラネタリウムではあった。
オープンから僅か八年にして東京大空襲の惨に遭い、ナパーム弾に焼き尽くされて、再建不能を余儀なくされた悲劇的な経緯から、「幻のプラネタリウム」として今に至るも偲ぶ者が絶えないという。
裏面は時間割とライオン歯磨の宣伝となっているあたり、どういう層をメインターゲットに据えていたかがよくわかる。事実、東日天文館に啓発されて、斯道を征くと心に決めた天文学者は多いのだ。
これを挟んでいた本の方にも、また特筆すべき謂れがある。
昭和十五年発行、山本一清編『東西天文学史』なる古書。
神保町の片隅、年季の入った某古本屋のワゴンの中にこの一冊を見出したとき、私はほとんど瞬発的に、前頭葉に電気が走ったような気がして首を傾げた。
(はて、山本。――)
聞き覚えのある名前であった。
いや、正確には
愛読する高田義一郎の随筆で、私は確かにこの男の背景を網膜に映した筈である。それがあまりに個性的かつ愉快だったものだから、忘れないようルーズリーフに書き取りもした。
(とすれば、ここで逃すのは後悔となる)
速やかに購入し、帰宅してから、急いで例の「糟粕壺」をひっくり返し、目的の記述を探し求める。
果たして私の記憶は正しかった。昭和三年『らく我記』中に、確かに天文学者山本一清のエピソードが載っている。
以下、ちょっと長いが折角なので引用しよう。
此の頃新聞や雑誌や、通俗単行本に天文学の話を盛んに書く山本一清君といふ人は、京都帝国大学の新城博士の高足である若い天文学者だろうと思ふ。天文学者といふ者は暁の星の数より少いから大抵それに相違あるまいと考へるが、若し其の人ならば私が学生時代によく遊びに行った京都のTといふ下宿屋の二階で、学生時代を過した人である。
京都帝大の天文学講座が開かれてから丁度八年目に、始めて天文学専攻志願者がたった一人出来た。それがその人で、志願者第二世といふ者は、それから幾年目に出来たか出来なかったか私は知らない。それ丈で志願者の少ない事はわかるが、面白いのは学生一人に教授先生幾十人がゝりで仕上げた天文学者が、即ちその人で卒業早々もう一角の天文学者になったのは素晴しい。だからあんまり流行の題目ばかりに目をつけないで、特殊の趣味を選ぶ方が却って賢明な様にも思はれる。(519頁)
奇縁としかいいようがない。
こういう出逢いがあればこそ、神保町に入り浸るのはやめられないのだ。
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