穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ニューギニアの日本人 ―南洋興発株式会社苦闘録―

 

 大日本帝国ニューギニア島の本格的な接触は、どうも昭和六年に始まるらしい。


 このとし、同島に開発権を保有していたドイツのとある拓殖会社が経営難に陥った。


 すかさず権利を買い取ったのが、南洋興発株式会社だ。南方開発の大手たること、「海の満鉄」というその通称が何より雄弁に物語る。日本で拓殖会社といえば、何にもまして満鉄のイメージが浮かぶこと、今も昔も変わらない。


 彼らが主に活動したのは、モミMomiナビレNabireサルミSarmiの三地域。いずれも今ではインドネシアに吸収された、西ニューギニア北海岸沿いの地域であった。

 

 

 

 

 この三ヶ所に、ぜんぶで四十人前後の社員を派遣し、その四十人が二千人余のパプア人を雇用して、農場経営に精を出したということだ。


 黄禍論に取り憑かれたオランダ政庁の圧迫に耐えつつ、彼らは実によくやった。倦まず弛まず努力を続け、わけても木綿栽培とダマール樹脂の採集に、それぞれ特筆すべき成果を残した。


 ――そういう南洋興発の社員たちに。


 インタビューを繰り返し、得られた記録をつなぎ合わせて彼の地に於ける気候・習俗・人情等を簡明平易に取り纏めたのが、清野謙次の「蘭領ニューギニア聞略」なる小稿である。先日の記事にも引用した、『太平洋の民族=政治学中に収まっている。


 冒頭に曰く、

 


 私等はメナド・パラオから帰航の船上で興発会社の農場技師、津久土博之氏と山城丸に同船するの幸運に恵まれた。つれづれなるまゝに聞き度く思った土俗を何呉れとなく問ふた。津久土氏にはさぞかし、うるさい事であったらうが、私達は行って見度く思って居る土地の土俗を仮令一部なりとも之によりて理解出来たのは幸福であった。(中略)また話の一部分は帰京後、嘗て興発社員たりし井上義男氏等に太平洋協会に来てもらって「ニューギニアに就て語る会」を催した時にも補足した。(436頁)

 

 

NKK main office

 (Wikipediaより、南洋興発本社)

 


 本論中、特に琴線に触れたのは、やはり言語にまつわる綺譚であろう。


 パプア人の言葉には、「働く」だの「稼ぐ」だの――つまり「労働」に関連する種々の単語が、これっぽっちも認められなかったとのことだ。


 南洋興発の社員にとって、これほど驚き、かつ悩まされたことはない。

 


 働く習慣のないパプア人に働くことを教へるのは大骨折りだ。彼らは賃金を欲しない。懐中電燈だとか、布片だとか、米の飯(彼等は米を好む)の類で賃金の有り難さを知らしめるのであるが、尤も欲望の淡い彼等の事として機会あらばどこかに行ってしまう。賃金の払ひ残りがあるなどは問題では無いのだ。然し努力の結果、物分りの好い連中は仕事する事を覚えて、多少共に仕事に熟達した。それで今日では一定数の定傭ひの労働者が居るが、補充は中々困難である。(440頁)

 

 

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ニューギニア北海岸の村落)

 


 が、よくよく思い合わせてみれば、これも自然の趨勢だろう。人類種の生存に――真実「ただ生きられればいい」という場合――南洋は最適の場所だった。


 ほとんど衣服が無用なまでに温暖な気候、食い物となるキャッサバ芋タロイモは至る所に自生している。


 それに何より、ゴヤだ。


 樹皮を剥ぎ、幹を露出させたなら、そのほとんど全部が澱粉質から成っている、天の慈悲の結晶としかいいようのないこの植物が、ところによっては数十マイルの長きに亘って群生し、密林の観を呈しているのが当時のニューギニアだったのだ。


 ゴヤシ一本で、五人家族が三ヶ月は喰い繋げたと記録にある。


 人口は少なく、資源は豊富。完璧であろう。理想的な環境だった。


 シベリアの如き「鎖とむちの土地」に生きる者からしてみれば、もはや夢に描くことさえ困難な楽土であるに相違ない。

 

 

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(サゴヤシ林)

 


 言葉は文化の反映である。生存の労力が最低限で済む以上、その方面の発達が見込めないのは必然である。


 そういえばアルゼンチンでも1800年代初頭、英国が開拓の鍬を振り下ろしたばかりの当時、本国の製品を無代価で配り、しかのみならずその使い方を銘記したパンフレットまで添付して、現地人の購買欲をそそったと伊達源一郎が『南米』に於いて書いていた。


 常識の基盤からして違う相手との接触は、ときに喜劇めいていて、観ていて実に飽きないものだ。異文化交流の醍醐味とは、こういうものに違いない。

 

 

 

 

 

 
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