第二次世界大戦前夜、ラテン・アメリカは「争いのリンゴ」と目されていた。
列国を魅了した彼の地の価値は、すなわち厖大な食糧及び天然資源。アドルフ・ヒトラーが
「我らはこの大陸に於いて、およそ必要なる総てのものを見出す」
と演説すれば、イギリス人はイギリス人で、
「パンパこそは、我々にとっての穀倉である」
と強弁して譲らない。
パンパとは、アルゼンチン中部に広がる草原地帯で、面積たるや535000㎢の馬鹿でかさ、土壌も肥沃で、同国の農牧業の中心を担う。イギリス人の食卓は、確かにここの生産物に支えられた部分があった。
(パンパ平原の風景)
更にまた、19世紀初頭まで遡って論ずるならば、そもそも南米諸国が政治上の独立を克ち取れたのも、英国の強力な後押しがあったればこそでなかったか。
…当時英国首相カニングは其の政略上より南米の革命軍を援助し、ロンドン銀行家をして新政府の公債に応ぜしめ、コロンビア、アルゼンチン、ペルーの財務代理人はロンドンに在りて巨額の公債を起し、此に由りてスペイン軍を破り、スペインの羈絆を脱することを得たり。(大正四年、伊達源一郎著『南米』37頁)
ならば英国は彼らにとって恩人であり、
それこそ当然の報酬と、開き直って構うまい。
が、第一次世界大戦の狂瀾が、欧州諸国と南米大陸の連絡を、見るも無惨に破ってしまった。
この機に乗じてのけたのが、ご存知北米合衆国だ。鬼の居ぬ間の洗濯と、「南」への影響力を一挙に拡大。あたかも自家の裏庭視して憚らなくなったわけだし、フランクリン・ルーズベルトに至っては、南米貿易の開拓および発展を以って恐慌からの脱出を目論み、種々なる策を展開させたものである。
こういう背景がある以上、必然として中南米は、パワーゲームの舞台たらざるを得ぬだろう。
特にドイツは目覚ましかった。繋がりを貿易のみに限らず、たとえば学校を建てまくり、ブラジル南部三州だけでも1300という夥しさ、アルゼンチンに至っても200を数え、文化的浸潤に努力している。
ブラジルでは他に15種類の新聞を刷り、放送局を4つ置き、映画館まで開設するに至るのだから驚く以外に術がない。敗戦後、多くのナチス党員が南米へと脱出したのもむべなるかな。感服すべき入念ぶりだ。
が、北米合衆国にしてみれば、そんな暢気な感想が許されるような立場ではない。
彼らはこれを不法占拠であるとみた。礼儀知らずの盗っ人が、何をとち狂ったか我が裏庭を勝手次第に掘り返し、庭木を伐って泉水を埋め、あまつ小屋まで建てて住み着こうとしてやがるのだ。
当然、排除せねばならないだろう。
さもなくば、いずれ母屋まで奪われるのはあまりに自明ではないか。
1938年、第八回汎米会議に持ち込まれた「米大陸共同防衛案」こそは、その最も露骨な顕れだった。
建前こそ「全体主義に対する民主主義の防衛」と麗々しくつくろっているが、その実態はなんてことない、目障りな独伊勢力を協力して叩き出そうぜということである。
その「協力」も、むろん横並びに手を繋いでの「協力」ではない。
首位に立ち、イニシアティブを握るのは、あくまで米国。ラテン・アメリカの国々は衛星として、偉大なる合衆国様の素晴らしき事業を円転滑脱ならしむるべく身を挺して支援する。具体的にはドイツ製品をボイコットしたり、国内の重要基地を米軍のために開放したり、米国製の兵器を購入したり、米国人の軍事顧問を招聘したり、といった具合に。
米国代表コーデル・ハルは会議の席上、
「西半球は如何なる武力的侵略に対しても、またそれ以外の方法による全体主義国の侵略に対しても、断乎として抗争すべきである」
と発言し、アメリカの望むところを明らかにした。
個人的には、とてもなだらかな心持ちで聞くことのできない名前である。
この人物がやがてノーベル平和賞に選ばれるのだから、平和とはいったい何であるかと考え込みたくなるではないか。
まあ、それはともかく。
自信満々で胸の内を明かしたハルであったが、事態は彼の期待したほど捗々しくは進まない。
真っ先に異を唱えたのはアルゼンチン。この国は伝統的なイタリア移民の捌け口であり、1200万の総人口中およそ500万人までがイタリア系とされていたから、この反応も自然であろう。
が、それに続いてメキシコが、ともすればアルゼンチン以上の激しさで拒絶反応を突き付けたのは些か意外とするに足る。
かつての東京日日新聞顧問、稲原勝治の伝えるに、
我等は、米国と全体主義国とを問はず、総て帝国主義に反対するものである。メキシコの石油を売って、日本の大豆、ドイツの機械、イタリアの生糸を買ふ権利を、民主主義の名に於いて奪はれることには、絶対に反対である。(昭和十八年『アメリカ民族圏』215頁)
このような論駁を堂々敢行、ハルを大いに鼻白ませたということだ。
鼻白まずには居られぬだろう。これほど強烈な
反対意見は
フーヴァー前大統領の側近にして、駐日大使の経験をも持つウィリアム・リチャーズ・キャッスルが、その急先鋒であったろう。彼の言葉を、再び『アメリカ民族圏』から抜粋すると、
全体主義国家がラテン・アメリカを侵略するなどと云ふ危険は、事実存在して居ない。従って軍事的ブロックを作り、軍拡に拍車を掛けるが如き提案には、反対しなければならぬ。米国はラテン・アメリカに対して、合法的に通商の発展を計ればそれで事足りる。それ以上のものを希望するのは間違ひである。従ってまた安くて良い品ならば、ラテン・アメリカ諸国が、それを米国から買はうが、ドイツから買はうが、さらにまた日本から買はうが、そんなことは一切当事国の勝手にすべきものである。(213頁)
これは明らかに、メキシコ代表の発言と軌を一にするものである。
(Wikipediaより、ウィリアム・リチャーズ・キャッスル)
そんなこんなで、ルーズベルト肝煎りの米大陸共同防衛案も蓋を開ければどうであろう。
賛成したのはベネズエラ・キューバ・コロンビア・ペルーの四ヶ国にとどまり、
ブラジル・チリ・アルゼンチン・ボリビア・パラグアイ・ウルグアイ・メキシコは、いずれも明確に反対を示す
全会一致を必要とする汎米会議でこの結末は、大失敗といっていい。
代わりに出来上がったのが、表題にも掲げた「リマ宣言」というわけだ。
その内容を闡明するに、
一、両米大陸各国は、相互の連帯関係を再確認する。
二、外国からの一切の干渉脅威に対して、斯かる連帯を維持する決意を再確認する。
三、両米大陸内一国の平和、安全乃至領土保全が脅威される場合、各国は一切の手段に訴えて、その連帯を有効ならしむる決意あることを宣言する。
「玉虫色」の見本のような代物だった。
(Wikipediaより、リマ歴史地区)
が、世界に冠たる合衆国が、これで諦めるわけがなく。むしろこの屈辱をバネとして、何が何でもラテン・アメリカを戦火の坩堝に引き摺りこもうと、執念深く手を打ち続けてゆくことになる。
斯様な外交態度を稲原勝治評して曰く、
米国のデモクラシイは、断じて輸出用ではない。外国にまで適用されるものではなく、また適用されたタメシも、また適用しようと云ふ誠意もない。仮に米国に於いて、デモクラシイが行はれて居ることを許し得るとしても、その故を以て、米国はその国際的行動にも、またデモクラシイの信奉者であるなどと考へたなら、それこそ飛んでもない間違ひである。(中略)
換言すれば、デモクラシイなるものは、米国内にのみ通用する不換紙幣である。(54~55頁)
まさにこれこそ、1783年の独立以来、今日のこの日に至るまで、一点の変更もなく受け継がれてきたアメリカの本質に違いない。
それにしても、なんと上手い言い回しだろう。名文とはこういうものだ。民主主義とは何であるかを今更に問う日本人は、よろしく稲原の著作物を百読するべきである。
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