およそ日本人にして雪舟の名を知らぬ者などまず居まい。
義務教育に織り込まれていたはずだ、室町時代の画家なりと。昔ばなしで情操教育を了えたクチなら、アアあの柱に縛られたまま足の指を動かして、涙でネズミを描いてのけた小僧かと、そちらの方でも合点がゆくに違いない。
雪舟といえば水墨画、水墨画といえば雪舟。両者が有するイメージは、分かち難く結合している。そんな感すらあるだろう。
――さて、そんな雪舟が、潮路を越えて唐土に渡り、絵筆の業に磨きをかけていた時分。
こともあろうに当代の覇者、大明帝国皇帝陛下直々のお呼び出しを受け、その御前にて腕前を披露した日があったとか。
そういう逸話が、実はある。天覧演奏、天覧試合は割とよく聞くところだが、天覧描画――この言葉遣いが正しいかどうかもわからない――は、かなり、けっこう、稀少な例であるだろう。
清見寺を描いたらしい。駿河国に建つ古刹、東海道に添うように在り、境内からは駿河湾や三保の松原を一望できる禅寺を、むろん記憶を頼りに、だ。
作品自体は入神の出来、天子に捧ぐに相応しい名画が完成したそうな。
ところがやがて帰国して、清見寺を再訪した際。境内に一歩
(しまった)
気付いたからだ。
自分は重大なミスを犯した。
(なんということだ)
計り知れない慙愧の念が雪舟を蹂躙したという。
いまさら修正など思いもよらぬ、物理的にも儀礼的にも不可能だ。作品に手出しができない以上、斯くなる上は現実を創作に添わせてゆくより他にない。以後、雪舟は何年もかけ、勧進のため諸国行脚に勤しんで。ついに、とうとう、自分が間違えて描いたところの、本来存在しなかった清見寺の堂塔を建立するのを成就した――と。
これが大方の筋である。
高浜虚子は、この
歴史学的な真偽・裏付けはどうであれ、得るところは大きいと。作品に対し、作者が負うべき責任感の亀鑑だと。評論に好んで附しもした。
悪くない感受性である。「雪舟の塔」――ここでは仮にそう呼ぼう――以外にも、虚子の自然観、人間観には
「此処に一つの谷川があるとする。我等は其川添ひに歩を移して行くと、ある深碧の淵を為してゐる岩の上には一つの祠があり、ある緑樹の繁茂してゐる間には丹く塗ってある木橋が陰現してゐるのを見る。是等は或は信仰から来、或は実用から来てゐるのではあるが、併し其祠や其橋が如何に人間の暖かい呼吸を其江山の上に吹き込んでゐるか。我等は其小さい祠や粗末な木橋やを無名の詩人のなつかしい創作として受け取るのである」
上の如き、特に、ことさら、噛み締めるに足るものだ。
頭に叩き込んであるかないかで、野山をうろつく愉しみに、相当差異が出るだろう。
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