産業革命が実を結び、英国工業が黄金期を迎えつつあったあの時代。輝きが強ければ強いほど、影もより濃くなってゆく――そんな調子の俗説を、態々証明するかのように。
彼の地に蔓延る煤煙ときたら尋常一様の域でなく、ロンドンをして文字通り、暗黒の霧に鎖しきった観すらあった。
「口腔と、咽喉の粘膜を荒らし、金属を錆びしめ、美人の面だらうが、馬の面だらうが、皆これを黒の一色に塗りつぶして終ふ。一日に二度カラーを取換へ、手の甲の毛が擦切れる程度に、繰返し手を洗はなければならず、聖ポール寺院にせよ、ウエストミンスター寺院にせよ、白い石の素地は疾くの昔に消え失せて、今は真っ黒な、
大阪朝日の特派員としてロンドンに赴任し、大正八年にはその体験から帰納して、名著『闇黒の倫敦より』を書き上げた稲原勝治の言である。
米田実と相並び、明晰な外交評論を発射し続けた三寸不爛の舌刀も、「霧の都」の大気には随分痛めつけられたらしい。
ところが稲原にとってわからないのは、生まれた時からこの悪環境に曝されている英国人に、現状を改善する意志がないこと。否、それどころかこの黒霧を、却って誇らしいものとして受け入れていることだった。
曰く、黒煙が絶えず空を覆っているというのは、それ即ち工場の活発な運転を意味するのであり、翻っては英国繁栄の証なのだと。
過去にはこんな事件もあった。
イングランド国教会の総本山、ウエストミンスター寺院にて、とある祭礼が予定されたときのこと。準備の一環として係りの者が、煤煙で汚れきったその壁を、真っ白に洗い落とさせたのだ。
彼は気を利かせた
我ながら粋な計らいであると、内心鼻高々でいたのである。
ところが世間の反応は真逆であった。翌日にはもう、新聞という新聞が罵倒の言葉を書き連ね、弾劾投書は洪水の如く殺到し、無能を攻撃する陳述委員が雪崩を打って押し寄せて、その対応に当局がきりきり舞いを演ずる始末。
責任者の辞職によって、やっと鎮静するという騒ぎであった。
英国人の保守気質が如何なるものか、これでおおよそ察せるだろう。
彼らは「古い」ということに、一種名状し難い憧れを持つ。それだから前述の稲原勝治も、
「英国人に物を贈ると、必ずや『何れ位古いか』と反問する。英国人は、技術よりも、代価よりも、乃至ツブシになった場合の価格よりも、先づ以て時代すなはち価値と云ふ見方をする」
実体験に基いた、こんな評価を残したほどだ。
(Wikipediaより、ウェストミンスター寺院)
まだある。
滞英中、稲原を悩ました英国人の保守性は、である。
貨幣制度がすなわちそれだ。
稲原の時代、ポンド・シリング・ペンスの三者は円・銭・厘よろしく十進法で繋がっていない。12ペンス=1シリング、20シリング=1ポンドと、十二進法と二十進法の混合である。
それだけならまだしも救いがあったが、実際飛び込んでみるとこれ以外にも、1ポンド1シリングの価値を有するギニーとか、5シリングに相当するクラウン、2シリング相当のフローリンとかが
よほど辟易したらしく、親しくなった英国人に制度改革の必要性を熱弁する稲原勝治。
ところが相手はあからさまに難色を示し、首を縦に振ろうとしない。あまつ逆襲を挑んでぶつけられた言葉というのが、
「複雑、複雑と君は言うがね。そっちの方が頭脳の鍛錬に好都合じゃないか」
だったのだから、稲原は今度こそ開いた口が塞がらなくなったという。
そういえば『ハリー・ポッター』で描かれた魔法界の貨幣制度も、いやに複雑なものだった。
(Wikipediaより、1シリング硬貨)
「我らが英国人と相対して、殆んど圧倒的に感得するのは、先づ以て彼等の自信力の旺盛さである。これは米国人の『世界一』病と相並んで、まさに天下一品である。ドイツ人が
ほとんど畏敬の念すら籠めて、稲原は英国人の国民性を総括したものである。
稲原勝治が黄泉の人となったのは、敗戦間もない1946年12月27日だった。
英国の貨幣制度に改革の波が及ぼされ、シリングが廃止、1ポンド=100ペンスと分かり易くなったのは、それから更に四半世紀後、1971年2月15日のことである。
もし稲原が聞いたなら、どんな反応を示すであろう。さしずめ「やっとか」と呆れるだろうか。
それとも逆に「そんなに早く――イギリス人は千年先まであの調子で通すとばかり考えていた」と己が耳を疑うだろうか。興味深い限りである。
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