穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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敗亡ライン


 仏のボルドーに張り合えるのは、独のリューデスハイムを措いて他にない。


 欧州世界の一角で、斯く謳われたものだった。


 ワインの出来の話をしている。ひるがえってはその素材たる、ブドウの出来の話を、だ。

 

 

Niederwalddenkmal Ruedesheim Adlerturm 1900

Wikipediaより、リューデスハイム

 


 埃を払って遠い伝説を紐解けば、リューデスハイムをワインの聖地と為したのは、カール大帝であるという。


 つまり八世紀から九世紀ごろに淵源を持つわけである。蒼古たる由縁といっていい。カール大帝、そのころこの地を訪れて、山腹に積もった白雪と、春の陽射しに打たれ溶けゆく素早さとを看取して、ここが葡萄の成育に格好の土地と見抜いたらしい。


 それで試した。


 最初の一株を植えつけた。


 やがてこの地を満たすに至る、運命的なその果樹を。

 

 

(ライン流域、ブドウ採り)

 


 以来、時は流れて二十世紀、近現代に至っても、なお、「アーヘンの廟に眠ってゐるカール大帝は星稀に月明かな夜など白馬にのって葡萄の出来を見に来るさうな」。――王はこの地に寵愛を恵み続けているのだと、美しく仕上がったリューデスハイムを歩きつつ、手元の記帳にそう書きつけた日本人が嘗て居た。


 彼の名前は名倉聞一


『東京朝日新聞』のドイツ特派員である。


 ベルリンばかりに居座らず、鉄道網を利用して国境近くの地方にも頻繁に取材を試みて、第一次世界大戦の創痍から懸命に再起せんとするドイツ国民の有様を目に焼き付けた人だった。

 

 

ウンター・デン・リンデン

 


 つまりは「働き者」である。


 リューデスハイムに向かって走る汽車の中、たまたま同じ車輛に乗った富農らしき男から、名倉はこんな話を聞いた、

 


「…社会主義の為に俺の国は亡びた、農業も亡びた、何とやら云ふ大葡萄山の持主の伯爵は見込みがないとて山を売払って何処とかへ移住した…」

 


 窓の外、眼界遙かに連なり延びるブドウ畑を指差しながら、しかしこんな華々しさもいつまで保つかわからない、凋落を予感せざるを得ない寒々しい内情を。


 敗戦の悲愴は到る処に容赦なく、誰もが傷を負っていた、ドイツ人なら誰しもが。

 

 

(ギターを弾くドイツ女性)

 


 そういうドイツ人たちに、名倉は同情を惜しまない。


 宿の娘に、

 


「お前は日本人か、一体日本とはどこか、お前はモロッコの将校だろう

 


 と、あらぬ疑いをかけられようと――俄然興味が湧いてくる、この男の面魂に――、苦笑で済ませて別に反感は抱かない。


 意趣を持つには、今のドイツは痛ましすぎた。

 


美しい自然、廃墟、ドイツの伝説の源と称せられるラインも今は敵国に占領せられてゐる情ない有様だ、云はずとも誰も知るラインの守りの国歌、ワグネルやハイネでは三歳の童子でもラインの名は知ってゐる。
『なぜかく物悲しきやわれは知らず』とハイネはローレライの最初に歌ひ出してゐる、汽車の窓から見てゐると、思はず涙が流れる、ローレライの巌鼻が見える、日は没しかけて、巌の上に乙女の影もなく、ラインの水は淋しく流れてゐる」

 


 蓋し大なる哀歌であった。

 

 

Loreley rhine valley d schmidt 08 07

Wikipediaより、ローレライ岩)

 


 戦争に負けるということは、民族にとって常に悲劇だ。

 

 

 

 

 


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