人の悪い趣味やもしれぬ。
昭和二十年八月十五日、敗戦の日の追憶を掻き集めるのがこのごろ癖になっている。
大日本帝国の壊滅を当時の日本人たちがどんな表情で受け止めたのか、そもそも受け容れられたのか、感情の動き、反応を、知りたくて知りたくてたまらないのだ。
自分で文字にしていて思う――やはり下賤な興味であろう。
だが仕方ない、「趣味」なのだ。
生まれもった
無理に塞ぐと鬱屈して毒になる。開き直って前向きに愉しむのが吉である。
(viprpg『フレイミング リターンズ』より)
以下、特に琴線に触れたのを幾つか掲げておきたく思う。
敗戦が訪れた。私たち軍人は張りを失った。何のために生き、何のために戦っていたのか、そしてこれからどう生き抜いていけばよいのであろうか。混乱した廃墟の中で茫然と自失した。そして日本というより私自身が敗れたのだというのが実感だった。
(長野師管区歩兵第一補充隊、能坂利雄)
昭和二十年八月十五日、我々は新しい任地に向うため松本駅を発った。行先は知らされなかったが汽車は一路南下していた。ところがその途中で「日本が降伏した」というニュースがはいり、車内は騒然となった。若い私は「そんなことがあるものか」「我々はあくまで戦うぞ」と胸を張って叫んだが、ニュースが事実とわかるとがっくり、覚悟をきめた。汽車を停車させ、重要書類はことごとく焼くよう命令を受けた。
(陸軍少尉、植村佐)
あの八月十五日、終戦の玉音が放送された時、俺達は戦を止めなかった。内地が手をあげるなら、俺達は陛下を満洲にお迎えしてでも戦うぞ。関東軍はまだちっとも戦っていないのだ。――若い俺達はそう言って激昂した。
この五尺の若い体は、祖国を出たときのまま玉の膚だ。弾傷はおろか掠り傷ひとつ負っていない。飛行機もまったく傷ついていない。弾丸もある、燃料もある。それなのに、宿敵ソ連の軍門に降れというのか。――俺は歯を食いしばって泣いた。降るような星空の下、隼の銀翼が夜露に濡れていた。
(同上)
陸軍の仮想敵国は、伝統的にロシアであった。
まして「関東軍」ともなれば一層のこと。イワンどもと戦うために存在している兵隊が、そのイワンどもに降を乞う。
その口惜しさは想像するに余りある。男泣きに泣いたとて、誰に責められるものでない。
戦場に降る雨音は葬りの
経とも聞え墓をほじりし
別れては何時かまた見むこの墓の
花しぼむれば誰か手向む
夏草の山の陣地にゆくりなく
いくさ終ると告げられし日よ
(雷州、独立歩兵第七十大隊、今野信一)
八月何日かのある朝、本部より敗戦の通報が来る。この頃、状況のおかしいのは気になっていたので特別の気持ちも湧かなかった。本隊より離れた小隊のことゆえ、朝全員集合して日本の方向に最敬礼をしたのを覚えている。
(ハルマヘラ島、第三十二師団、中村三四郎)
終戦の詔勅は帯広で聞いた。師団参謀部ではだいぶ以前から敗戦の匂いは感じていたが、実際に北海道の部隊は飛行機はなくも戦意は旺盛で、戦闘はこれからだとの気持であったので敗戦の実感が湧かず、気力充実しており血気の者の中には悲憤慷慨して腹を切った者もいた程である。
(第一航空師団、飯野行雄)
大和ハウス工業の石橋信夫も敗戦の運命を知ったとき、咄嗟に「自決」の二文字が去来したと言っていた。
現に実行に移した者が、周囲だけでも五人は居たと。
よって帯広のこの情景も、まんざら
人影もまばらなこの日の午後、松尾町のあちらこちらの電柱に「臥薪嘗胆いざ復讐へ」、あるいは「民族自治のため食糧増産」という急ごしらえのポスターが張りだされた。たしかにこの日の国民の気持――全部ではないが――を代弁したものであったかも知れない。このポスターは誰が張りだしたものかわからない。紙も新聞紙をつないだ程度のものであった。
(近衛歩兵第九連隊、青木謹爾)
これは良い。徹底抗戦ではなくて、敗北を受け容れた上でなお、遙かな未来に復讐の
アメリカに対し、きっと復仇してやると鬼火を燈す国民が、当時の千葉には居たようだ。
実に結構、そうでなければ嘘である。「人間は復讐する。どこかできっと復讐する。成人した後の行為の大半が、幼時の他人から、社会から、受けた侮辱の復讐であると云ひ得る。子供時代に悲しく思った事を、善で酬ふるか悪で酬ふるかの別があるだけである」(沖野岩三郎)。――復讐はいい、ヒトを動かす燃料として、至上至高の逸品だ。
GHQの側としても、
たぶん手塚の漫画であろう。実家の近所の図書館に、相当数の『全集』が置かれてあった筈だからーー…。
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