北米大陸を視察して、増田義一がしみじみ感じた必要性は、一刻も早く日本のあらゆる店舗から、「いらっしゃいませ」と「何をお求めですか」とを分離せねばならないということだった。
アメリカでも店に入ると「いらっしゃいませ」が飛んでくる。
しかし九分九厘それきりだ。
店員側からより以上、重ねて喋ることはない。
「その沈黙がありがたかった」
と、この政治家にして出版人、『実業之日本社』創業の雄は物語る。
おかげで実にのびのびとした、自由な気持ちで商品を選ぶことができたのだ、と。
かてて加えてこちらから、
――すみません。
と、接触を求めにいった場合の反応たるやどうだろう。
「はい、いかがなさいましたでしょうか」
それまで二枚貝みたく口をつぐんでいた店員が、にわかに愛想の塊と化し、
(なんという快適さだ)
商業道徳の理想形を間近に見るの思いであった。
我国の商店では品物を問はれて、店員が「有りません」とか「お生憎さま」とか言って平然としてゐるのが多い。米国の店員は「品を切らせて申訳ありませんが、何かそれに代るものでお間に合ひませんでせうか」と相談を持ちかけ、然らざれば「何処の何店にあるかも知れません」と親切に教へてやるのである。(中略)
彼等は全く買手の心持ちを知ってゐる。客の扱ひ方は、お客の心持ちになって、優遇するのが最も宜い。
こういうことを書き綴った増田義一に、今のアメリカを見せてやりたい。
BLMやら修正案47やら、様々な要因の積み重なった挙句の果てに、掠奪が日常茶飯事と化し、店舗閉鎖も相次いでいる現在のこの惨況を。
なんといっても、強盗を喰い止めようとして、警察を呼んだ店員が、逆に店から解雇されるご時世だ。
正気の沙汰ではないだろう。
明かに何かが転倒している。
合衆国もついに老いたか、あとどれぐらい覇権を維持できるやら――と、考え込まずにいられない。
「買い手側の気持となって」。ああ、そういえば、清水雅がよく似たことを言っていた。
「会社の入社試験を今年やったら、二百名の応募者があった。この中から十人採用する。つまり百九十人は不採用である。ところが、不採用となると、途端にこの百九十人が我々のお得意様になる。この人々が不愉快であっては、店で買物をして貰えない。
試験に落しておいて、不愉快でない様にするにはどうしたらよいか。これは難しい問題に違いない。併し顧客、しかも無数の顧客を対象としている者は、このような心掛けで、すべてに細心の注意を払わねばならぬ。そういう注意を必要とする仕事である」
昭和三十年、阪急百貨店社長としての発言である。
青木益次が心酔したのも頷ける。増田義一を感動せしめた合衆国の人情は、紛れもなく日本社会に取り入れられていたわけだ。
(カリフォルニア山岳地帯)
美風だけを取り入れればよい。大陸文化に学びつつ、しかし科挙や宦官制度はあくまで排した祖先のように。
消化力と精選の目の確かさは、それこそ日本民族の伝統である筈だから――…。
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