ムッソリーニは本気であった。
周囲がちょっとヒクぐらい、万国博に賭けていた。
一九三九年、サンフランシスコで開催予定のこの祭典に、ドゥーチェは己が領土たるイタリア半島が誇る美を、あらん限り注入しようと努力した。
フィレンツェ市所蔵、ボッティチェリ作『ヴィーナスの誕生』を皮切りに、
ラファエルの『マドンナ・デラ・セディア』、
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作『パウルス三世とその孫たち』、
ジョヴァンニ・ベッリーニの手になる『聖母子と洗礼者ヨハネ、聖女』、
ヴェロッキオの『ダヴィデ像』、他にも他にも――都合四十点からなるイタリア美術の精髄を陳列しようと目論んだのだ。
まさにアートの根こそぎ動員。およそ独裁者と呼ばれる種族は自国の威信を示すため、なにがしか大掛かりなことをやらかしたがる
文化の結晶、人類の至宝、魂の遺産、――どれほど修辞を連ねてもこの荘厳に迫れている気がしない。たとえ人類が絶滅しても、次の知的生物のため保存の途を講じておくべき代物ばかりだ。そういうものを一万キロも、地中海から北米大陸東海岸まで送り届けねばならぬのだから、当然輸送は慎重を極めた。
なろうものなら
「いいか、アメリカが保有する金塊全部をザンジバルに輸送すると仮定しろ。それより更に一段上の注意力と危機感とが求められていると知れ。たっぷり肝に銘じておくんだ」
こんな訓示を雲の上から受けたとか。
四十点の作品群を格納するのは特注品の大箱三個。まずは船にて、ジェノヴァ港からニューヨークへの航路を進む。陸揚げされるや間を置かずして特別列車に積み込まれ、今度は線路、鉄道上の旅となる。
列車内では常に四人の精鋭が、装填済みのライフル構えて箱の警備にあたる仕組みになっていた。
この備えならとち狂った
サンフランシスコではブレア美術館の学芸員らが箱の到着を待っていた。そりゃもう首を長くして、今か今かと待ちわびていた。荷解き・陳列は彼らが行う。その任を全うするために、ミラノの街から遥々と、先んじて現地入りしていたのである。
一切の作業が滞りなく、予定通りの進行をみた。
ムッソリーニは鼻高々であったろう。
実際問題、手際のいいことだった。
己の指揮で、己が企画を実現すべく、人々をこうも機能的に動かし得たのだ。嬉しからぬ筈がない。そういうことで支配欲を満たすのも、独裁者の習性であり、条件である。
(演説中のムッソリーニ)
やがて成就した美の殿堂に、日本人では田中耕太郎が足を踏み入れ、いたく感銘を受けている。
…陳列中は昼夜を分たず番人を附してある。陳列されてゐる美術館は防火建築であり、博覧会終了後之れを改造して飛行機の格納庫にすることになってゐる。(昭和十五年『ラテン・アメリカ紀行』)
そういうことも、この有能な法哲学者の興味を惹いたようだった。
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