灘五郷の酒「白鹿」については、日産コンツェルン創業者、鮎川義介にも
彼にはアル中の親友がいた。
ビール、日本酒、ウイスキー等アルコールなら何でもござれ、一日の摂取量が二升を割ったらおれは死ぬと豪語していたその人物こそ伊藤文吉。何を隠そう、明治の元勲・伊藤博文の血を継ぐ男だ。
ただし正妻の子ではなく、伊藤家に行儀見習いに来ていた女性に博文が手を出したことで生まれた、所謂「庶子」の関係である。伊藤博文にはそういう好色な面があり、彼の子であると認められぬまま市井に紛れた落とし種が幾粒あったか、今となっては知る由もない。
旧姓・木田文吉が博文と親子の対面を果たし、「伊藤」姓を名乗るようになったのは、まだ彼が旧制山口県立豊浦中学校に通っていたころ。春帆楼という、日清戦争の講和会議が営まれ、下関条約の締結された屋根の下にて両者は
(Wikipediaより、春帆楼)
この座に於いて博文は、
「おぬしが文吉か」
と一言いっただけで至極あっけなく終わったと、後に文吉本人が鮎川に対して告げている。
とまれかくまれ、これで文吉の人生は一変した。
彼は親の七光を存分に活かし、それまで雲の上と仰ぐだけだった人々と熱心に交流してゆくこととなる。
その交際相手に、伊藤博文と「御神酒徳利」と称されるほど形影相伴う仲だった、井上馨が含まれないわけがない。事実、伊藤文吉は井上邸に出入りすること屡々で、その庇護を受けるところまた大だった。
この関係は、役人業から思い切って実業界に転身したのはいいものの、まず開始した満洲紡績会社が大失敗し、次いで入社した久原鉱業もその後の経営思わしくなく、多額の借財を背負ってにっちもさっちもいかなくなっていた文吉を、見かねた鮎川が救済してやったことでいよいよ昵懇なものとなる。
このとき文吉から鮎川へと送られた覚書というのが『百味箪笥 鮎川義介随筆集』にまるごと掲載されているので、折角だから引用しよう。
覚 書
自分儀、久原鉱業会社取締役として就任以来日尚浅く候得共、会社の現状に対し常々憂慮禁ぜず、種々其の対策に関し同僚とも協議を重ね、相当努力は尽し来りしも微力及ばず、遂に会社は昨年末の如き窮境に陥り、貴殿の高配に依り漸く難関を切り抜け得たる如き醜態を暴露したるは、誠に慙愧の至りに不堪候処、貴殿更に此度大勇猛心を発揮せられ、生命を賭し会社病根の根本的治療に没頭せらるるに至りしは、感激の至りに不堪、
自分の力不足を素直に認め、己の手ではどうしても解決できなかった難問をものの見事に捌いてのけた鮎川義介をほとんど救世主さながらに持ち上げている点、経営者としての資質はともかく、文吉の人の好さがにじみ出ている。
事実、鮎川は傾いていた久原鉱業を建て直し、更には日本産業と改称。
日産コンツェルンの一大基盤と成さしむるべく、導いてゆくこととなる。
(日産スタジアム上空)
伊藤文吉、更に筆を進めて曰く、
就ては余も此際私財は挙げて之を提供し、貧者一燈の用に供すべきは勿論の儀に候得共、余や財界に入りて日尚浅く、資産殆ど皆無なるのみならず、借財の多きに苦しむ実状にあることを告白するの余儀なき境遇に有之候次第に付、其の辺御諒察を乞ふと同時に、今後貴殿の活動に随従し、余の精神余の身体を以て及ぶ限り相働き申すべく、貴殿の高潔なる心事、勇猛なる決意に対し感銘措く能はず、爰に余の誠意を披瀝して誓約候也
昭和二年三月一日
鮎川 義介殿
文吉の心底が秋風の如く爽やかなことを知った鮎川は、以来彼を信頼し、隔意なき相談相手として重用してゆく。
やがて大東亜戦争が勃発した。
国内の物資は極端なまでに欠乏し、生活必需品さえもが配給制へと移行する。
むろん、酒も厳しい統制を免れなかった。伊藤文吉が生存上不可欠とする「一日二升」など夢のまた夢、口に出しただけで「非国民」と罵られかねない贅沢であろう。
必然として彼は絶命しなければならない。
少なくとも廃人化は不可避であろう。アル中から酒を取り上げるとはそういうことだ。
しかし、そうはならなかった。伊藤文吉は戦時下を生き延び、1951年まで存命している。
彼をして65歳の寿命を保たしめたのは、やはり盟友・鮎川義介。政財界に隠然たる影響力を持つ鮎川は、その有利を発揮して、あの過酷極まる戦時下に於いても酒の供給路を確保していた。
当時酒は不自由しなかった。というのは山下亀三郎翁との約束で灘の白鹿を用達させることに成功したからである。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』177頁)
この「白鹿」が、伊藤文吉の正気を守り抜いたというわけだ。
文吉が慟哭せんばかりに感動したのは言うまでもない。
後、鮎川が巣鴨収容所に投獄されると、伊藤文吉は残された家族の面倒をよく見、更には岸本勘太郎と手を取り合って日産関係の調整を見事にこなし、以って多年の厚恩に報いた。
一連の組み合わせを眺めていると、世代を超えて受け継がれる、血の
(伊藤博文)
伊藤博文は明治三十八年四月四日、井上馨に対して以下の歌を贈っている。
しろしめすをも厭う君かな
添え書きには、「盟友の虚心国に尽せる志を思いやりて」と記されていた。
井上はこれを表装して家宝とし、時々床の間に掲げていた。その情景は鮎川の記憶野に色濃く焼き付き、晩年まで語り草にしたという。
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